第9話「ひとひら、狂う」
湯気が立ちこめる脱衣所の外。
ソファに座ったまま、わたしは真人が入った浴室の音に耳を澄ませていた。
シャワーの水が壁を叩く音、時折聞こえる彼の小さな鼻歌。
そのひとつひとつが、この部屋の空気を静かに、でも確実に変えていく。
警察に届け出るべき案件。それは、頭ではわかっている。
けれど、あのネットカフェの隅で光のない瞳で震えていた彼を、守れるのはわたししかいない。
そう、確信してしまった。理屈ではない。これは、感情の選択だった。
教師としてのわたしが、ひとりの女としてのわたしに、静かに負けていく夜だった。
やがて、水音が止む。数分の沈黙のあと、脱衣所の扉がゆっくりと開いた。
わたしは息をのんだ。
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、真人がそこに立っていた。
わたしが用意した、少し大きめの白いTシャツとジャージ。上気した肌は湯気の名残で薄紅色に染まり、細い首筋を一滴の水が、まるで意志を持っているかのようにゆっくりと伝っていく。
その軌跡から、目が離せない。
少年のあどけなさと、その奥に潜む男の輪郭。
そのあまりに無防備な均衡が、わたしの胸の奥に沈んでいた何かを、ゆっくりと浮かび上がらせる。
「先生」
その言葉が、夜の静寂にやわらかく溶けた。
その瞬間だった。わたしの中でかろうじて保たれていた最後の壁が、音もなく崩れていく。
ソファから立ち上がり、彼の元へ歩み寄る。
その驚いたように見開かれた瞳が、すぐそこにあった。
「……会いたかったと……ほんとに……うち、ずっと……会いたかったと……」
声が震える。息が触れ合うほどの距離。
浴室から上がったばかりの、甘いせっけんの香り。
それが、わたしの理性を麻痺させていく。
「……俺も、先生に会いたかった」
その囁きと同時に、彼の手がわたしの頬に触れた。ためらいがちで、けれど確かな温もりを持つ指先。その熱が、わたしの最後の砦を溶かした。
「抱きしめていい……?」
彼の問いに、わたしは――言葉ではなく、身体で応えた。ゆっくりと瞼を閉じ、ほんのわずかに、頷く。
次の瞬間、彼の腕がわたしの背中に回り、壊れ物を確かめるように、けれど力強く抱きしめられた。
ふと、窓の外で雨が降り始めたのがわかった。
しとしとと、アスファルトを濡らす優しい音が、この密やかな部屋の伴奏になる。
雨音に耳を澄ませながら、真人がそっとわたしの髪を撫でた。
顔を上げると、濡れたような視線がこちらに向けられている。
そのまま、唇が触れるか触れないかの距離に、彼の顔が近づいてきた。
わたしは、拒まない。むしろ、吸い寄せられるように、自らその唇を迎え入れていた。
教師と生徒、という言葉が、雨音に溶けて消えていく。
唇がそっと触れた。それは熱を帯びた誓いのようでもあり、もう二度と戻れない境界線を越えてしまった証のようでもあった。
照明を落とした寝室で、シーツの擦れる小さな音だけが響く。
カーテン越しの街灯が、重なり合うわたしたちの輪郭を、夢のようにゆらゆらと浮かび上がらせていた。肌が触れるたびに、「先生」と呼ばれていた名前が、遠ざかっていく。
まどろみのなか、彼がふと囁いた。
「……先生……じゃなくて……」
その声が、胸の奥に落ちてくる。
わたしは目を閉じたまま、答えた。
「……恵美って、呼んでいいよ」
「……うん……恵美」
夜の中で静かに交わされたその名は、世界のどんな約束よりも重かった。
わたしたちはそのまま、互いの温もりの中で眠りへと落ちていく。
降り続く雨は、罪を洗い流す、祝福のようにも思えた。