表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 二章 ひとひら、狂う
10/59

第9話「ひとひら、狂う」

 湯気が立ちこめる脱衣所の外。

 ソファに座ったまま、わたしは真人が入った浴室の音に耳を澄ませていた。


 シャワーの水が壁を叩く音、時折聞こえる彼の小さな鼻歌。

 そのひとつひとつが、この部屋の空気を静かに、でも確実に変えていく。


 警察に届け出るべき案件。それは、頭ではわかっている。

 けれど、あのネットカフェの隅で光のない瞳で震えていた彼を、守れるのはわたししかいない。

 そう、確信してしまった。理屈ではない。これは、感情の選択だった。


 教師としてのわたしが、ひとりの女としてのわたしに、静かに負けていく夜だった。


 やがて、水音が止む。数分の沈黙のあと、脱衣所の扉がゆっくりと開いた。


 わたしは息をのんだ。


 濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、真人がそこに立っていた。


 わたしが用意した、少し大きめの白いTシャツとジャージ。上気した肌は湯気の名残で薄紅色に染まり、細い首筋を一滴の水が、まるで意志を持っているかのようにゆっくりと伝っていく。

 その軌跡から、目が離せない。


 少年のあどけなさと、その奥に潜む男の輪郭。

 そのあまりに無防備な均衡が、わたしの胸の奥に沈んでいた何かを、ゆっくりと浮かび上がらせる。


「先生」


 その言葉が、夜の静寂にやわらかく溶けた。

 その瞬間だった。わたしの中でかろうじて保たれていた最後の壁が、音もなく崩れていく。


 ソファから立ち上がり、彼の元へ歩み寄る。

 その驚いたように見開かれた瞳が、すぐそこにあった。


「……会いたかったと……ほんとに……うち、ずっと……会いたかったと……」


 声が震える。息が触れ合うほどの距離。

 浴室から上がったばかりの、甘いせっけんの香り。


 それが、わたしの理性を麻痺させていく。


「……俺も、先生に会いたかった」


 その囁きと同時に、彼の手がわたしの頬に触れた。ためらいがちで、けれど確かな温もりを持つ指先。その熱が、わたしの最後の砦を溶かした。


「抱きしめていい……?」


 彼の問いに、わたしは――言葉ではなく、身体で応えた。ゆっくりと瞼を閉じ、ほんのわずかに、頷く。

 次の瞬間、彼の腕がわたしの背中に回り、壊れ物を確かめるように、けれど力強く抱きしめられた。


 ふと、窓の外で雨が降り始めたのがわかった。

 しとしとと、アスファルトを濡らす優しい音が、この密やかな部屋の伴奏になる。


 雨音に耳を澄ませながら、真人がそっとわたしの髪を撫でた。

 顔を上げると、濡れたような視線がこちらに向けられている。


 そのまま、唇が触れるか触れないかの距離に、彼の顔が近づいてきた。

 わたしは、拒まない。むしろ、吸い寄せられるように、自らその唇を迎え入れていた。


 教師と生徒、という言葉が、雨音に溶けて消えていく。


 唇がそっと触れた。それは熱を帯びた誓いのようでもあり、もう二度と戻れない境界線を越えてしまった証のようでもあった。


 照明を落とした寝室で、シーツの擦れる小さな音だけが響く。

 カーテン越しの街灯が、重なり合うわたしたちの輪郭を、夢のようにゆらゆらと浮かび上がらせていた。肌が触れるたびに、「先生」と呼ばれていた名前が、遠ざかっていく。


 まどろみのなか、彼がふと囁いた。


「……先生……じゃなくて……」


 その声が、胸の奥に落ちてくる。

 わたしは目を閉じたまま、答えた。


「……恵美って、呼んでいいよ」

「……うん……恵美」


 夜の中で静かに交わされたその名は、世界のどんな約束よりも重かった。

 わたしたちはそのまま、互いの温もりの中で眠りへと落ちていく。


 降り続く雨は、罪を洗い流す、祝福のようにも思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ