プロローグ
指先に付着したチョークの白い粉が、ふと、あの夜の硝煙の粒子に見えた。
わたしは息を詰める。夏の気配が、気だるい午後の光と共に教室へ流れ込んでくる。その生ぬるい風ですら、あの日の血と鉄の匂いを運んでくるような錯覚に陥った。
「――では、ラスコーリニコフはなぜ、老婆を殺害したのか。彼は自らを“非凡人”と信じ、社会の害悪を排除する権利が自分にはあると考えた。これは選民思想とも言えますが……」
国語教師、神原恵美としてのわたしの声は、淀みなく言葉を紡ぐ。手にした教科書に記されたドストエフスキーの『罪と罰』。その一節を淡々と読み上げながら、わたしの意識はまったく別の場所にあった。
脳裏に焼きついて離れない、狂気に満ちたあの夜の光景。
ごう、と音を立てて燃え盛る松明の火。儀式の場を囲む村人たちの、熱に浮かされた瞳。そして、その中央に囚われた彼――真人の姿。
『真人ッ!!』
叫んだはずの自分の声が、今も喉の奥でこだましている。
わたしの手には、あのとき確かに、冷たい鉄の感触があった。重い。けれど、驚くほどしっくりと馴染む、ポンプ式の猟銃。引き金を引くことに、躊躇なんて一瞬もなかった。
ドガン!!
轟音とともに男の頭が弾け、祭壇の白い布を赤黒く染め上げる。悲鳴と怒号が渦巻く中で、わたしはただ冷たく次弾を装填する。ポンプを引く乾いた金属音。それが、崩れかけた世界で唯一、わたしを支える確かな音だった。
彼らは、真人を生け贄にしようとしていた。この村の歪んだ安寧のために、たったひとりの未来を、夢を、命を、いとも容易く奪おうとしていた。
許せるはずがなかった。
「……神原先生?」
生徒の声に、はっと我に返る。目の前には、黒板と、チョークで汚れた自分の指先。わたしは完璧な教師の笑顔を貼り付けて、ゆっくりと答えた。
「……ごめんなさい。少し、考え込んでしまって」
教室を見渡す。生徒たちは、退屈そうに、あるいは真面目に、それぞれの顔でわたしを見ていた。その視線の海のなかで――彼と、目が合った。
窓際の席。淡い光を浴びながら、真人がまっすぐにわたしを見つめている。
その黒い瞳は、何も語らない。けれど、すべてを知っている者の目をしていた。
あの地獄を、二人だけでくぐり抜けてきた、共犯者の目を。
真人の存在を確かめた瞬間、わたしの胸の奥で、熱いものが静かに肯定の形をとる。
――わたしは、間違っていない。
あの選択以外に、彼を救う術はなかった。たとえこの両手がどれだけ血に汚れようと、世界中から咎められようと、わたしは悔いない。わたしは彼のために罪を犯し、罰を背負う。
それこそが、わたしの見つけた、ただひとつの“正義”なのだから。