44 王宮の大書庫1
お茶会から数日が過ぎた。 通いの家庭教師となったシルヴァン先生が、今日も変わらず侯爵家のサロンで私とセレスに魔法基礎理論の授業をしてくれている。
「——ですので、この魔力陣の構築には、自身の魔力波長をどう同調させるかが鍵となります。……ヴィオレッタ? どうしましたか、今日は少し集中できていないようですね」
ふいに、シルヴァン先生の優しく、けれど全てを見透かすような声が降ってきた。ハッとして顔を上げると、先生が心配そうに私を覗き込んでいる。私は誤魔化すように小さく首を振った。
「いえ……申し訳ありません、先生。少し、考え事をしてしまって」
「お茶会でのことですか?」
図星を突かれ、私はぎゅっと膝の上のスカートを握りしめた。
『侯爵家の癇癪姫』。
シルヴィアから突きつけられたあの言葉が、まだ胸の奥で小さな棘のようにチクチクと痛んでいる。過去の自分の振る舞いが原因だとはわかっていても、やはり他者からの悪意は心を重くさせた。
私が俯いたまま何も言えずにいると、頭の上に、ふわりと温かな大きな手が乗せられた。
「噂というのは、酷く身勝手で残酷なものです。ですが……彼らが何と言おうと、私が知っている貴女は、誰よりも優しく、懸命に学ぼうとする素晴らしい令嬢です。……どうか、心ない言葉に傷つかないでください」
シルヴァン先生の声は、甘く、ひどく穏やかだった。まるで、傷ついた小鳥を両手で包み込むような、絶対的な庇護。私の髪を撫でる先生の手のひらから伝わる熱に、張り詰めていた心が少しずつ解けていくのを感じる。
「……先生」
「貴女は私の、自慢の大切な生徒なのですから。……誰にも、貴女を否定させたりなどしませんよ」
その声の奥に、ぞっとするような仄暗い執着が混じっていたことに、私は気づけなかった。ただ、無条件に私を肯定してくれる先生の存在が、痛いほどに嬉しかった。
「……シルヴァン先生」
その時、向かいの席からトントン、と遠慮がちに机を叩く音がした。
顔を上げると、いつもは誰に対しても鋭い毒舌を吐くセレスが、自身のノートを持って先生のローブの袖をきゅっと軽く引っ張っていた。
「僕、出された課題、全部終わりました。……ここの古代語の翻訳、合っているか見てくれませんか?」
そう言って先生を見上げるセレスの顔には、いつもの冷めた作り笑いやトゲトゲしい態度は一切なかった。そこにあるのは、純粋に『褒めてほしい』と強請るような、年相応の無防備な子どもの顔だった。
「おや、もう終わらせたのですか。どれ……素晴らしい。完璧な翻訳です。よく頑張りましたね、セレス」
先生が目を細めて微笑み、セレスの銀色の髪をくしゃりと撫でる。
するとセレスは、まるで褒められた子犬のように嬉しそうに目を細め、すり寄るように先生の手に自分の頭を押し付けた。
「……先生が教えてくれたから、できたんです」
甘ったるい、心を許しきった声。
普段の彼からは想像もつかないその姿に、私は目を丸くした。
セレスにとって、シルヴァン先生は唯一心を許せる存在なのだろう。二人の間には、私には決して立ち入ることのできない、深くて特別な繋がりがある気がした。
(……いいな)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。 先生は私にも優しくしてくれるけれど、セレスが見せているような『無条件の甘え』を、私は先生に向けることができない。私はあくまで、侯爵家の令嬢で、先生は家庭教師だから。
二人の間にある絶対的な信頼と親愛の空気が羨ましくて、少しだけ、嫉妬してしまった。
その時だった。
サロンの扉がノックされ、初老の執事が恭しく一礼して入室してきた。その手には、王家の紋章が刻印された封蝋の封筒が乗せられている。
「ヴィオレッタ様。……王宮より、ルシアン王子殿下からの親書が届いております」
「殿下から……?」
驚いて受け取った手紙には、流麗な筆跡でこう記されていた。
『過日のお茶会では、楽しい時間をありがとう。ぜひ君に読ませたい魔導書がある。迎えの馬車と近衛騎士を迎えにやらせるので、ぜひ王宮の大書庫へ学びに来てほしい』
それは、招待状という名の『拒否できないお誘い』だった。
実は、あのお茶会の日、殿下に王宮の大書庫に誘われていた。
しかし、お兄様が「妹の体力が心配ですので、私が代わりに」と完璧に断ってくれたはずだった。
しかしルシアン殿下は、それならばと『迎えの馬車と護衛を用意する』という、臣下には絶対に断れない最高級の厚遇で、強引に私を王宮へ引き入れようとしてきたのだ。
「……なるほど。殿下も、ずいぶんと強引な手を使われる」
いつの間にかサロンの入り口に立っていたお兄様が、手紙の内容を聞いて、ふっと美しい笑みをこぼした。
だが、その灰色の瞳の奥は、吹雪のように冷たく荒れ狂っている。
「お兄様!もう授業は終わられたのですか?」
私が驚いて声をかけると、お兄様はいつもの完璧で優しい、私に向ける甘い笑顔を浮かべてゆっくりと歩み寄ってきた。
「あぁ。予定よりも早く今日の分の課題を終えたからね。……それよりも」
お兄様は私の手元にある、王家の封蝋がされた手紙へと視線を落とした。その瞬間、彼の纏う空気が微かに、けれど確実に数度下がったのを肌で感じる。
「殿下みずから、護衛と馬車まで手配してくださるとは……よほどヴィオレッタに、その魔導書とやらを読ませたいようだね」
「お兄様……。私、どうすればいいでしょうか」
あのお茶会での、お兄様と殿下の静かな牽制のやり取りを思い出し、私は困惑してお兄様を見上げた。
王族からの招待。しかも護衛付きとなれば、侯爵家といえども「体力が〜」という理由だけでむげに断ることは許されない。
「断ることは出来なそうだね。王家からの厚遇を無下にするのは不敬にあたるから」
お兄様は私の頭を優しく撫でながら、ふふっと楽しげに、けれど目の奥を一切笑わせずに言った。
「ただし、六歳の幼い妹を一人で王宮の奥深くに放り込むような真似は、兄として絶対にできない。……当然、僕も『護衛』として同行させてもらうよ。殿下も、まさか愛する妹を案じる兄の同行を拒みはしないだろう?」
一切の隙もない、完璧な笑顔。
それは「絶対に二人きりにはさせない」という、お兄様の鋼のような意志表示だった。
「……リアム様の仰る通りです」
ふいに、それまで静かに見守っていたシルヴァン先生が一歩前に出た。
先生はいつも通りの穏やかな表情だったが、その深い瞳には、得体の知れない暗い光が宿っているように見えた。
「王宮の大書庫には、歴史ある貴重な魔導書が多く眠っています。中には、ヴィオレッタ様が魔力の波長に当てられてしまうような、強い力を持った本もあるかもしれません。……家庭教師として、私もひどく心配です」
そう言うと、先生は自身の懐から、銀色の細いチェーンに小さな青い石がついたペンダントを取り出した。
「これを、貴女に。簡単な魔力障壁を張るお守りです。王宮へ行く際は、必ず身につけていってください。……いかなる『外敵』からも、貴女を守ってくれるはずですから」
「先生……! ありがとうございます、大切にします」
私が両手でペンダントを受け取ると、先生は満足そうに微笑んだ。
お兄様といい、先生といい、皆どうしてこんなに過保護なのだろうか。私は少しだけ呆れながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
だが、二人の大層な過保護ぶりを横で見ていたセレスだけは、心底嫌そうに顔を顰めている。
「……王族だのなんだの、本当に貴族っていうのは面倒くさい生き物ですね。こんな回りくどい嫌がらせの手紙、さっさと燃やしてしまえばいいのに」
「ちょっと、セレス…不敬よ?」
私は慌ててセレスを窘めたが、彼はふん、とそっぽを向いてしまった。
かくして、ルシアン殿下からの強引すぎるお誘いにより、私とお兄様は後日、王家の馬車に乗って王宮の大書庫へと向かうことになったのだった——。




