43 前途多難なお茶会3
シルヴィアの言葉が、風の中に静かに落ちた。
場の空気が、ぴたりと止まる。
レオンハルト様さえ、口に運びかけていたパイを皿に戻す。テオドールは静かにティーカップをソーサーに置き、興味深そうに目を細めた。
「…その噂は一体、誰が?」
静寂を破ったのは、お兄様の声だった。
穏やかで、柔らかい。けれど、その声の奥底には、触れれば切れそうな何かが潜んでいた。完璧な笑みを浮かべたまま、お兄様はシルヴィアへと視線を向ける。
シルヴィアは動じることなく、優雅に扇子を開いた。
「さぁ?ですが、社交界では広く囁かれていることだそうですわ。『さすがエピステーメ侯爵夫人の娘だ』と」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
(…癇癪姫)
初めて聞く言葉だった。
知らなかった。自分がそのように呼ばれていたなど、思いもしなかった。
でも——
(否定、できない)
前世の記憶を取り戻した今の私には、かつての自分がどのような振る舞いをしていたか、痛いほど理解できた。
欲しいものをねだり、思い通りにならなければ癇癪を起こす。そんな子どもだった。お父様とお母様の前では、そのようなことをした記憶はない。しかし、友人や使用人には、そういった姿を見せていた。それが社交界に伝わっていたとしても、何も不思議ではない。
(…この噂の、ことだったのね)
以前、シルヴァン先生が初めて挨拶をした時に言っていた言葉を思い出す。『噂とは当てにならないものだ』と。あの時先生が聞いていた噂は、きっとこれだったのだ。
私は、心を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「…存じませんでしたわ。そのように呼ばれていたとは」
声が震えないように、意識して言葉を紡ぐ。
「ですが、否定はできませんね。これまでの私がそう呼ばれるような振る舞いをしていたのは、事実ですから」
シルヴィアの冷ややかな瞳が、僅かに揺れた気がした。
その瞳を真っ直ぐに見つめて、続ける。
「ただ、今の私がどのような人間かは…これから見ていただければと思いますわ」
私の言葉を運ぶように風が、テーブルの上の花びらを静かに揺らした。
シルヴィアはしばらく私を見つめた後、ふっと視線を外し、紅茶に口をつけた。
「…そう。まぁ、多少は変わったようね」
それは、彼女なりの──ほんの小さな、歩み寄りの言葉だったかもしれない。
しかし、すぐにその瞳がお兄様へと向けられる。
「それに…随分と過保護なお兄様をお持ちのようだわ」
「…え?」
思わず、私はお兄様を見た。
目が合ったお兄様は、完璧な笑みを浮かべながら、その口元はいつも通り優雅に弧を描いている。
けれど、その灰色の瞳の奥に揺れている物を、私は上手く読み取ることが出来なかった。
(お兄様…?)
2人の間に、不思議な沈黙が流れた。
その空気を、テオドールのからかう様な声が断ち切った。
「シルヴィア。それは、皮肉かい?自分への」
シルヴィアの紅茶を飲む手がぴたりと止まる。
不機嫌そうにテオドールへと視線を向けるシルヴィア。
「……何が言いたいのかしら」
「いやぁ、君のお兄さんのことを思い出してね」
テオドールは楽しそうに肩を揺らす。
「シルヴィアのことになると、周りが見えなくなるくらい心配するじゃないか。過保護という意味では、なかなかいい勝負だと思うけど?」
「……余計なことを言わないでくださる?」
シルヴィアは冷ややかに言い放ったが、その頬にほんのわずかな赤みが差したのを、私は見逃さなかった。
(……シルヴィアにも、お兄さんがいるのね)
その事実が、なんだか少しだけ、彼女を身近に感じさせた。
「さて、せっかくのお茶会だ。そろそろお菓子でも楽しもうか」
殿下が、穏やかな笑みを浮かべながらテーブルの上の菓子へと手を伸ばした。その一言で、場の空気がふわりと和らいでいく。
「そうだな!」
レオンハルトが待ってましたとばかりに身を乗り出し、豪快にタルトを掴む。
「……さっきまで散々食べていたでしょう」
「それはそれ、これはこれだ!」
シルヴィアの呆れた声とレオンハルトの豪快な笑い声が重なり、テオドールが肩を揺らしながらくすくすと笑い声を漏らす。
つられるように、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
(楽しい……)
まだ胸の奥には、癇癪姫という言葉が小さな棘のように残っている。
でも今は、この温かい空気の中にいられることが、ただ嬉しかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、殿下がこちらを見ていた。
その藍色の瞳には、言葉にならない何かが静かに揺れていた。
目が合うと、殿下はただ穏やかに——微笑んだ。
その笑みの意味を、私はまだ知らない。
♢
帰りの馬車の中。
窓の外を流れる景色を眺めながら、私はぼんやりと今日の出来事を振り返っていた。
癇癪姫。
その言葉が、頭の中でまだ静かに響いている。
「……ヴィオレッタ」
不意に、お兄様の声が降ってきた。
顔を向けると、お兄様はすでに私の方を見ていた。
窓の外でも、どこか遠くでもなく——真っ直ぐに、私だけを。
「今日は、よく頑張ったね」
その言葉は短くて、飾り気がなくて。
だからこそ、胸の奥にじんわりと染み込んでくるようだった。
「……お兄様」
お兄様は何も言わない。
ただ、その灰色の瞳が、静かに私を映し続けている。
完璧な仮面でも、貴族としての笑みでもない。
ただ、私だけを見ている、その瞳。
その眼差しの温度に、なぜか胸がざわついた。
「……ありがとうございます」
かろうじてそう返すと、お兄様はふっと小さく息を吐いて、窓の外へと視線を移した。
まるで、何かを振り切るように。
馬車が揺れる。
窓の外では、夕暮れが王都の街並みを橙色に染め上げていた。
(……今の、なんだったのかしら)
胸のざわめきが、なかなか収まらない。
お兄様の視線の意味を考えようとして——でも答えが出なくて、私は静かに窓の外へと目を向けた。
向かいに座るお兄様が、また私の方をそっと見ていることに、私はまだ気づいていなかった。




