40 夜明けの微熱
小鳥のさえずりが、意識の底から私を呼び戻した。
重い瞼を持ち上げると、そこには見慣れた天井と、レースのカーテン越しに差し込む柔らかな朝陽があった。
「……ん……」
体を起こそうとして、全身に鉛のような気だるさが走る。
シーツの衣擦れの音がすると、すぐにベッドサイドに影が落ちた。
「——お目覚めですか、ヴィオレッタ様」
「…シルヴァン先生?」
朝日の中で、先生の灰色の髪が光を反射し、神々しいほどに輝いて見えた。
いつもの涼しい顔をしていらっしゃるけれど、よく見るとそのルビー色の瞳には、隠しきれない疲労の色がある。
一晩中、ずっと傍にいてくださったのだろうか。
椅子に掛けていたジャケットを着ておらず、ワイシャツ姿で腕まくりしている先生は、なんだか妙に…色香を放っている。
(これは…目のやり場に困るわ)
自分の顔に熱が集まっているのがわかる。
意識しないようにするために、気になっていたことを尋ねることにした。
「先生……。あの、お兄様たちは……」
「ご安心を。リアム様は自室で治療を受けていますが、命に別状はありません。セレスも魔力切れなだけで、今は厨房でつまみ食いをしている頃でしょう」
先生の変わらない淡々とした声に、ヴィオレッタは心の底から息を吐き出した。
よかった。
みんな、無事なんだ。
安堵で力が抜け、再び枕に沈み込もうとした時——。
ふわり、と。
先生の整った指先が、ヴィオレッタの頬に触れた。
「……っ!?」
ヴィオレッタの肩が跳ねる。
熱を測るような、けれどそれにしてはあまりに愛おしむような手つきで、頬にかかった髪を耳にかけられる。
距離が、近い。
先生の整いすぎた顔が、吐息がかかるほどの至近距離にある。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうで、ヴィオレッタの思考はショートした。
(ち、近い……! なんで!?)
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が顔に集まるのがわかる。
先生の匂い——古書と紅茶、そして微かな草花の混ざったような落ち着く香りが、鼻腔をくすぐる。
「……本当に、ご無事でよかったです」
いつもは余裕たっぷりの先生の声が、微かに震えていた。
その美しいルビーの瞳が、ヴィオレッタを捕らえる。
逃げ場がない。
「せ、先生……?」
「あんな危険な場所に自ら来るような真似は二度としないでください。私は……」
先生の吐息が、耳元をくすぐる。
ヴィオレッタは息を呑み、赤い顔で硬直した。
心の中でうっすらと現れる期待と羞恥で、頭が真っ白になる。
先生は、私をどう思って——。
「……私は…大切な生徒を失うわけにはいきませんから」
スッ、と。
先生は何事もなかったかのように体を離し、いつもの涼しい顔で姿勢を正した。
「お茶を淹れ直しましょう。少し冷たくなっていますから」
背を向けてポットに手を伸ばす先生。
ヴィオレッタは、ボンッと音がしそうなほど赤い顔のまま、ベッドの上で呆然とした。
(……今の、なんだったの!?びっくりした…)
心臓が壊れそうだ。
でも、先生の言葉が、熱を持った棘のように胸に刺さる。
『……私は……大切な生徒を失うわけにはいきませんから』
ただの「生徒」としての心配よね。
そう思った瞬間、なぜか少し「嫌だな」と感じた。
ズキリと胸が痛む。
そうよね……私は生徒だもの。
それ以上でも、以下でもない。
無意識に視線が先生の背中に吸い寄せられる。
先生の横顔はいつも通り冷静で、読み取れない。
けれど、ヴィオレッタの胸は、魔法を使った時とは違う理由で、切なく高鳴り続けていた。
♢
その後、少し落ち着いたヴィオレッタは、侍女と共にふらつく足取りで隣室の兄の元を訪れた。
扉を開けると、ベッドの上半身を起こし、包帯の巻かれた痛々しい姿で窓の外を眺めている兄の姿があった。
「お兄様……」
「ヴィオレッタ!」
リアムが振り返り、痛む体を気にする様子もなく微笑んだ。
その顔色はまだ白いが、昨夜の死人のような顔色ではない。
「よかった、目が覚めたんだね。……怖かっただろう? すまない、私がもっと強ければ……」
「いいえ! お兄様が守ってくださったから、私は今ここにいるのです。本当にありがとうございます」
ヴィオレッタはベッドの端に駆け寄り、兄の無事な左手を両手で包み込んだ。
温かい。
生きている。
その事実に、再び涙が滲みそうになる。
「お兄様、傷…痛みますか?」
「ん?あぁ、多少はね。だが、魔法で治癒してくださったようだから傷自体は痛くないよ」
リアムは穏やかに微笑んだ。
それは強がりではなく、大丈夫だよと伝えようとしているような、穏やかな表情だった。
窓から差し込む光が包帯の白さを際立たせていたが、部屋に漂う空気は、昨夜の絶望とは程遠い、柔らかく温かいものだった。
私の罪悪感を拭うように、お兄様は優しく私の手を握り返してくれた。
ガチャリ。
そこへ、ノックもなしに扉が開いた。
入ってきたのは、不機嫌そうな顔をしたセレスだった。
手には、なぜか山盛りのリンゴが載った籠を持っている。
「げ。もう起きてるし」
「セレス……」
「勘違いしないでくださいよ。僕は別に、心配して来たわけじゃありませんから」
セレスはツンと顔を背けながら、籠をサイドテーブルに乱暴に置いた。
「厨房に行ったら、たまたま余ってたんです。捨てるのも勿体ないから、魔力タンクの補充用に持ってきてやっただけです」
「……はは、ありがとう、セレス」
「だから礼なんて要らないって言ってるでしょ! 無能のくせに聞き分けが悪いな!」
顔を真っ赤にして怒鳴るセレスを見て、リアムがクスクスと笑う。
昨夜、あれほど罵り合っていた二人だが、その空気には以前のような殺伐としたものはなかった。
♢
一方その頃。
屋敷の最奥にある執務室では、重苦しい空気が漂っていた。
「——それで? 侵入者の身元は」
エピステーメ侯爵が、書類に目を落としたまま尋ねる。
その問いに、シルヴァン伯爵が低く答えた。
「全員、死亡していました。奥歯に仕込まれた毒による自害……あるいは、遠隔からの呪殺か。いずれにせよ、口を割るつもりは最初からなかったようです」
「……尻尾切りか」
侯爵がペンを置き、革張りの椅子に深く沈み込む。
その瞳には、氷のような冷徹な光が宿っていた。
「手口から見て『貴族派』の差し金でしょう。以前ヴィオレッタ様が攫われた際のローブの者たちも同一の者だと考えられます」
「鼠どもが。……一掃する必要があるな」
侯爵の指が、トントンと机を叩く。
殺気にも似た気配が漂うが、侯爵は小さく息を吐くと、意図的に空気を変えるように話題を転じた。
「……昨夜のヴィオレッタの力についてだが」
侯爵が鋭い視線をシルヴァンに向けた。
シルヴァンは、その視線に応えるように先ほどの甘い表情とは別人のような、冷徹な魔法師の顔を見せる。
「あれは、光魔法の中でも非常に希少な魔力を中和し、害意そのものを『鎮静』させる力。……かつての聖女の伝承にある権能に近いものです」
「……聖女、か」
侯爵が苦々しげに呟く。
その言葉が持つ政治的な意味を、誰よりも理解しているからだ。
「となると…神殿に知られるわけにはいかないな」
「えぇ。ヴィオレッタ様の魔力詰まりの件で神殿に行く予定でしたが、考え直さなければいけないでしょう。今の彼女を神殿に近づければ、囲い込まれる可能性が高いです」
国において、希少な魔力を持つ者は政治の道具にされやすい。
ましてや伝承の聖女の力など、様々な火種になりかねない。
かの国のように——。
侯爵はしばらく目を閉じ、やがて重く口を開いた。
「天位魔法師としての見解を求めよう。……あれは、隠し通せるものか?」
「不可能です」
シルヴァンは即答した。
「あの規模の魔力放出です。王宮の魔力感知結界にも、すでに波形が記録されているでしょう。……それに、私は国王陛下直属の魔法師です。陛下への報告義務を怠るわけにはいきません」
「……違いなかろうな」
侯爵はため息をつき、椅子に深く沈み込んだ。
シルヴァン伯爵は王族派の同志であり、ヴィオレッタたちの教師でもあるが、その本質は「王の剣」だ。 国家の重大事を隠蔽することは、彼の立場が許さない。
「陛下には、ありのままを報告します。……ですが、情報の公開範囲を陛下と宰相、そして我々のみに留めるよう、私から進言することは可能です」
「……恩に着る」
侯爵が短く礼を言う。
これが、二人の信頼関係だった。
「加えて、第二段階解放の許可を求めてまいります」
侯爵がわずかに目を見開く。
第二段階解放——それは、この強大な力を持った男に掛けられた鎖を開放することを意味する。
鎖は第5段階まで存在する。
この大陸に11人しかいない天位魔法師。
彼らは1人で国家を転覆できるほどの力を持った一騎当千の者たちだ。
そんな危険ともいえる者を貴族たちの反発を抑え、王家の力とするために、王家は彼ら鎖を付けた。
国王の許可なしに彼らは本来の力を使用することはできない。
第一段階が「教育とある程度の戦闘魔法行使」ならば、第二段階は「明確な戦闘許可」を意味する。
「こちらに居ることは少なくなるでしょうが、今後のことを考えますと陛下にはご相談しておいたほうが良いでしょう」
「……そうだな。感謝する」
侯爵は短く礼を言った。
シルヴァンは国王直属の天位魔法師。彼が陛下に直接掛け合ってくれるならば、これほど心強いことはない。
一瞬の沈黙の後、侯爵が話題を変えた。
「貴殿のお弟子殿は、もしやあの噂の魔法師殿か?」
「……えぇ、そうです。ご存知とはさすが侯爵様ですね。彼については、まだ公にするつもりはございません」
「そうか。屋敷の者には重ねて箝口令を敷いておこう」
侯爵は顎をさすり、昨夜の光景——あの少年が放った極太の光線を思い出す。
あれだけの才能だ。
敵に回れば厄介だが、味方であれば……。
「私は明日には屋敷を出なければいけない。しかし、まだ屋敷が安全とは言えないだろう。そこで、伯爵殿に頼みがあるのだが」
侯爵が、シルヴァンの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お弟子殿を、我が屋敷に預けてくれないだろうか」
沈黙が流れる。
天位魔法師の弟子を、侯爵家が預かる。
陛下への報告はもちろん必要だが、面倒くさいのは貴族連中だ。
今後のことを考えて少々面倒くさく思っていると、伯爵が口を開く。
「……かまいませんよ。それが最善でしょう。私もここにずっとはおれませんので」
「この件に関して何か問題が起こった際には私が責任を持とう」
「助かります」
二人の間に、無言の握手が交わされたようだった。
エピステーメ家の朝は静かに更けていく。
だが、その水面下では、王宮、貴族派、神殿、そして魔法師たちの思惑が複雑に絡み合い始めていた。




