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34 静かな異変 7

「先生の寿命を削ってまで守られる気分は、どうですか?」


その言葉は、鋭利な刃物のように、お兄様の、そして私の心臓を深くえぐった。

反論などできなかった。

なぜなら、それは紛れもない事実だったからだ。

私たちが無力なばかりに、先生に無理をさせ、命を削らせていた。

その現実を、セレスは最も残酷な形で突きつけてきたのだ。


「お待たせ。今日はいい茶葉があるんだ」


先生が振り返ると、セレスは一瞬で「天使」に戻り、キャッキャと愛らしく笑う。

その姿を見ながら、お兄様は蒼白な顔で、けれど貴族としての矜持で必死に表情を取り繕っていた。

カップを持つ手が、微かに震えているのを隠すように。







お茶の時間が終わると、私たちはセレスを連れて、問題の場所——温室の前へと移動した。

先ほどの「聖域」で屋敷全体の空気は浄化されたが、元凶である植物はまだ瘴気を放ち続けている。


「……うわぁ。近くで見ると余計に趣味悪いですね、これ」


セレスは、温室の中央に鎮座する黒紫の植物を見て、心底嫌そうに顔をしかめた。

しかし、先生が「頼めるかい?」と声をかけると、パッと表情を輝かせる。


「はいっ! 任せてください先生。こんな雑草、二度と外に空気を漏らせないようにしてやりますから!」


セレスは、植物の前に立つと、スッと右手をかざした。

その瞬間、彼の周囲の空気が張り詰める。


「——光よ、螺旋を巻き、罪を断て。『天光(セレスティアル・)の檻(ゲージ)』」


静かな詠唱と共に、無数の光の鎖が地面から湧き上がり、植物を四方八方から絡め取っていく。

さらに、温室全体を包み込むように、半透明の黄金色の膜が展開された。

それは、先生が張っていた結界とは桁違いの強度と密度を持つ、完全なる「檻」だった。

漏れ出していた不快な瘴気が、完全に遮断されたのを感じる。


「すごい……」


私は思わず息を漏らした。

お兄様も、悔しさを噛み殺しながらも、その圧倒的な技量に目を見張っていた。

同年代の子供が、これほど高度な封印魔法を、いともたやすく……。


「はい、完了です! これで、術者が直接触れでもしない限り、呪いが外に漏れることはありません」


セレスが誇らしげに振り返る。

先生は、満足そうに頷き、セレスの頭を撫でた。


「見事だ。ありがとう、セレス。これで私も、そしてヴィオレッタ様たちも一安心だ」

「えへへ、先生のためならこれくらい余裕ですよぉ」


セレスはだらしなく頬を緩ませて喜んでいる。

先生は、ふぅと小さく息を吐くと、背筋を伸ばしたまま、私たちに向き直った。


「さて。これで当面の危機は去りました。リアム様、ヴィオレッタ様。今後のことについて、少し書庫で詰めましょうか。公爵閣下が戻られるまでに、我々でできることを……」


先生の声はいつも通り穏やかで、その立ち姿にも揺らぎはない。

しかし、セレスが鋭い声で遮った。


「——ダメです」

「……セレス?」

「先生、鏡見てください。顔色最悪ですよ。それに、さっきから右手の震え、隠してるでしょ」


セレスの指摘に、私はハッとして先生の手元を見る。

先生は、無意識のうちに右手を背中に回し、隠すように握りしめていた。

言われてみれば、額には脂汗が滲み、呼吸も僅かに浅い。

先生は、限界が来ていることを私たちに悟られないよう、必死に虚勢を張っていたのだ。


「……私は平気だ。これくらい、どうということはない。魔力も回復してきているし——」

「平気じゃない! 魔力回路が悲鳴上げてるの、僕には分かるんですからね!」


セレスは、先生の前に立ちはだかり、その腕を強引に引いた。


「もうっ! 今すぐ休んでください! 先生が倒れたら、誰が僕たちに指示出すんですか? 誰がこの領地に風魔法を展開し続けるんですか!」

「しかし、まだ確認事項が……」


(…風魔法?)


聞いたことない話に気を取られたが、セレスの声ですぐに引き戻された。


「明日でいいでしょ?!封印しているんですから、そんなに急ぐ必要はありません!先生のお身体の方が大事です!先生が休んでいる間は僕がしっかり警戒しておきますから……お願いだから、休んでください」


最後は、泣きそうな顔で懇願する。

その瞳の揺らぎだけは、演技ではないように見えた。

先生は、弟子の真剣な眼差しに気圧されたように、ふっと苦笑して肩の力を抜いた。


「……参ったな。弟子に心配されるようでは、師匠失格だね」

「失格じゃないけど、無理する先生は嫌いです」

「分かった、分かったよ。……少しだけ、横にならせてもらおうかな」


先生は、観念したように頷いた。


「リアム様、ヴィオレッタ様。申し訳ありません。情けない姿をお見せしました」

「い、いえ! お気になさらないでください先生!」

「どうか、ゆっくりお休みになってください」


私とお兄様は、慌てて頭を下げる。

先生は、「では、セレス。頼んだよ」と言い残し、ゆっくりとした足取りで、けれど背筋だけは伸ばしたまま、自室へと戻っていった。







廊下には、重苦しい沈黙が流れていた。

先生という「緩衝材」がいなくなった今、残されたのは、私とお兄様。

そして、セレス。

先導するのは私たちで、後ろを歩くのはセレスだ。

コツ、コツ、という足音だけが響く。

客室の前までたどり着き、お兄様が振り返った。


「……ここが、君の部屋だ」


お兄様は、少しぎこちなく、けれど誠実に言葉を紡いだ。


「それと…改めて礼を言わせてほしい。君のおかげで、屋敷に溢れていた不穏な気配もなくなったし、先生は倒れずに済んだ。…あんな凄い魔法を使う君が味方でいてくれるなら、心強いよ」


それは、次期当主としての、そして共に戦う仲間としての、精一杯の歩み寄りの言葉だった。

私たちが無力な分、彼に頼り、感謝していることを伝えたかったのだ。

しかし。


「———はぁ」


返ってきたのは、深く、重い溜息だった。

セレスは、底冷えするような目で私たちを見た。


「あのさぁ。勘違いしないでくださいね?」

「……え?」


お兄様が言葉を詰まらせる。

セレスは、気だるげに、けれど明確な拒絶を込めて言い放った。


「僕がここにいるのも、力を貸してあげるのも、全部『先生に頼まれたから』です。別に、貴方たちの味方になったわけじゃありません」

「なっ……」

「僕が『良い子』にしているのは、先生が見ている時だけです。先生を安心させるためなら、いくらでも仲良しごっこに付き合ってあげますよ。…でも」


セレスは一歩近づき、私の背筋が凍るような冷笑を浮かべた。


「でも、先生がいないところで、僕と馴れ合えるなんて思わないでください。……僕、無能な人間を見るの、生理的に無理なんですよ。時間の無駄なので」

「……っ、君は……!」


お兄様の顔が屈辱に歪む。

せっかくの感謝と歩み寄りを、土足で踏みにじられたのだ。

セレスはそんなお兄様の反応を楽しむように鼻で笑うと、部屋のドアノブに手をかけた。


「ああ、それと」


セレスは、部屋に入る直前、思い出したように付け加えた。

その瞳が、爬虫類のように細められる。


「先生に言いつけたら、殺しますからね? ……あの方に余計な心配、かけさせたくないでしょう?」


バタン。

冷たい宣告と共に、扉が閉ざされた。

廊下に残された私とお兄様は、ただ呆然と、閉ざされた扉を見つめることしかできなかった。


「……とんでもない子が、来てしまいましたね……」


私の震える呟きに、お兄様は拳を強く握りしめ、深く、重い息を吐き出した。


「ああ。だが……悔しいが、セレスの力が必要なのは事実だ」


その言葉には、自分の無力さを噛み締める、血の滲むような響きがあった。


「それに私は、先生が風魔法を展開し続けているなんて気づかなかった…」

「…!私もです。先生はずっと風魔法を展開していらっしゃったのでしょうか」

「そうみたいだね。あの時初めて知って、意識して魔力を探るまで全く気付かなかった…」


お兄様との間に静寂が流れる。

私たちは先生の負担を全然理解出来ていなかったのだ。

常に魔法を発動し続けるなんて想像もできないほどの疲労が溜まるはず。

その事実に今更気づかされた私たちは息が止まったかのように、静かに立ち尽くしていた。

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