33 静かな異変 6
セレスの放った『聖域』の光が収まると、部屋には静寂が戻った。
補佐官は、あまりの衝撃に言葉を失い、呆然と立ち尽くしている。
その額には脂汗が滲み、扇子を握る手は微かに震えていたが、なんとか貴族としての体面を保とうと必死に姿勢を正していた。
お母様も、信じられないものを見る目で、目の前の小さな魔法術師を凝視している。
そんな中、大人たちの視線を集めたセレスは、パッと表情を引き締めた。
そして、その場でおとぎ話の王子様のように、優雅に膝を折って一礼した。
「……お見苦しいところをお見せしました。シルヴァン先生の弟子、セレスと申します。以後、お見知り置きを」
その声は、鈴が鳴るように澄んでいて、動作も洗練されている。
先ほどの「うわ、汚っ」という発言や、圧倒的な光の暴力とは打って変わって、今の彼は、どこに出しても恥ずかしくない完璧な優等生だった。
お母様が「まぁ!」と感嘆の溜息を漏らす。
「なんて素晴らしい……。あのような凄まじい力を行使した後だというのに、息ひとつ乱さず、これほど理性的だなんて」
強大な魔力は、精神を昂らせ、時に人を傲慢にする。
だというのに、この子は嵐のような魔法を使った直後でも、波一つない湖面のように静かで、謙虚だった。
その振る舞いこそが、何よりこの小さな魔法術師が完璧に魔力を制御している証拠だった。
「ふん、まあ……子どもにしては、礼儀作法も弁えているようだな」
補佐官でさえ、まだ動揺を引きずりながらも、その実力と態度だけは認めざるを得ないようだった。
セレスは、顔を上げてニコリと天使のような微笑みを向ける。
「過分なお言葉、恐縮です。尊敬する師匠の顔に泥を塗らぬよう、精一杯努めさせていただきました。……侯爵家の皆様のお役に立てて、光栄です」
完璧だ。
心の底からそう思っているかのような、健気な言葉。
しかし、私とお兄様は見ていた。
頭を下げた瞬間、彼が先生に向かって「ちょろいですね」と言わんばかりに、小さく舌を出したのを。
「……シルヴァン先生。後の細かい詰めは、私と補佐官で行います。貴方はその子を連れて、少し休みなさい」
「ありがとうございます、奥様」
先生は一礼すると、私たちに向いた。
「リアム様、ヴィオレッタ様。場所を変えましょう。私の部屋へ」
♢
私たちは客間を後にし、長い廊下を歩いて先生の私室へと向かった。
歩き出した途端、セレスは先生の腕にギュッと抱きついた。
「ねぇ先生、僕頑張ったでしょ? あの意地悪そうな補佐官のおじさんも、ぐうの音も出ないって顔してましたよ! 見ました?」
「こらこら、声が大きいですよ」
「だって本当のことじゃないですかぁ」
先生に甘えるその姿は、年相応の無邪気な子供そのものだ。
けれど……。
先生の腕にまとわりつき、独占するように甘えるその姿を見ていると、私の胸の奥が、なんだかチクリと痛んだ。
(先生にあんな風に甘えられるなんて……)
いつも穏やかで優しい先生だけれど、あくまで「教師と生徒」という節度がある。
あんな風に遠慮なく抱きついたり、甘えたりすることは、私にはできない。
二人の間には、私たちが入り込めない、長い時間と信頼で結ばれた絆があるようで……。
私は、言いようのないモヤモヤとした羨ましさを感じて、思わず目を逸らした。
先生の部屋に入り、扉がパタンと閉まる。
「……ふぅ。ずっといい子のフリするの、疲れましたぁ」
セレスが、先生の腰に顔を埋めて、甘えた声を出す。
「こらこら、セレス。行儀が悪いですよ」
先生が苦笑しながら頭を撫でると、セレスは「えへへ、すみません。先生の匂い落ち着くから好きなんです」と無邪気に笑った。
「——さて。リアム様、ヴィオレッタ様。立ち話もなんですし、座りましょうか」
先生に促され、私たちは部屋の中央にある革張りのソファに腰を下ろした。
セレスも私たちの向かい側、先生が座るであろう場所の隣にちょこんと座る。
先生の横で、ニコニコと愛想の良い笑みを浮かべている。
「改めまして、この子が私の弟子セレスです」
「初めまして。セレスです。先生にはいつもお世話になってます」
セレスの挨拶を受け、お兄様が口を開いた。
「初めまして。私はリアム、隣に居るのが妹のヴィオレッタです。……素晴らしい魔法でしたね。あなたのような歳で、あれほどの高等魔法を使いこなすとは」
お兄様は、努めて冷静に、貴族らしく振る舞っていた。
その言葉には、純粋な称賛が含まれている。
「ありがとうございます! ……でも、まだまだです。先生の足元にも及びませんから」
セレスは謙遜して首を振る。
そして、チラリと先生の方を見た。
「あ、先生。喉乾いちゃいました。美味しいお茶、淹れてくれませんか?」
「おや、こき使うねぇ。はいはい、少し待っていなさい」
先生が苦笑しながら背を向け、茶器の棚へと歩き出した。
カチャカチャと、茶器を用意する音が響く。
先生の視線が、私たちから完全に外れる。
その、一瞬だった。
セレスの顔から、ニコニコとした愛想笑いが、スンッと消え失せた。
夜明け色の瞳から、一切の感情が抜け落ちる。
彼は、無機質なガラス玉のような目で、私とお兄様を冷ややかに一瞥した。
「……よく平気な顔してられますね」
聞こえるか聞こえないか、ギリギリの音量。
けれど、その声に含まれた氷のような冷たさに、私とお兄様はギクリとして固まった。
「え……?」
「先生にあんなになるまで無理させて。……恥ずかしくないんですか?」
「っ……!」
お兄様が息を呑む。
セレスは、私たちに言い聞かせるように、ゆっくりと唇を動かして言葉を紡ぐ。
「先生の寿命を削ってまで守られる気分は、どうですか?」
その瞳にあるのは、先生への異常な執着と、私たち——先生に守られるだけの「お荷物」への、底知れない軽蔑だった。
お兄様の顔が、サァッと青ざめる。
無能だと罵られるよりも、それは遥かに深く、お兄様の心をえぐる言葉だった。
自分たちが無力なせいで、敬愛する師の命をすり減らしていた。
その事実を、最も残酷な形で突きつけられたのだ。
「お待たせ。今日はいい茶葉があるんだ」
先生が振り返った瞬間、セレスの顔には、再び満開の花のような笑顔が咲いていた。
「わぁ、いい香り! さすが先生!」
キャッキャと喜ぶセレス。
何も気づいていない先生。
そして、冷水を浴びせられたように凍り付く私とお兄様。
天使の仮面を被った、小さな悪魔。
その本性を知ってしまった私たちは、これから始まる共同生活に、言い知れぬ不安を覚えずにはいられなかった。




