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32 静かな異変 5

「同じくらいの……子どもっ……?」


お兄様の声が、驚きに裏返る。

それは、魔法術師としては異例の若さである。


「そんな……子供に、この呪いが……?」

「あの子は子供ですが、その力は本物です。少なくとも、専門外の私が命を削るより、はるかに確実な戦力となるでしょう」


先生は、消耗した体を引きずるようにソファから立ち上がると、私たちに向かって告げた。


「これは、私が勝手に決断できることではありません。エピステーメ家の問題です。……奥様と補佐官殿に、この件を進言し、最終的な承認をいただかねばなりません」


先生は、消耗した体を引きずるようにベッドから起き上がった。

ふらつく足元をお兄様が支える。


「先生、無理は……」

「急がねばなりません。一刻も早く」


その悲壮なまでの決意に、私とお兄様は頷き、先生を支えて部屋を出た。








私たちは、お母様が待つ客間へと向かった。

そこには、家令と共に、お父様の補佐官である、厳格な初老の男性も控えていた。

シルヴァン先生は、私たちの前に出ると、家令たちに現在の状況を説明し始めた。

政治的な罠であること、神殿には頼れないこと、自分の力では限界であること。

そして、唯一の解決策として「弟子」を呼ぶことについて、すでに公爵閣下の許可を得ていることを。

それを聞いた補佐官は、案の定、顔を真っ赤にして異を唱えた。


「公爵閣下が許可されただと? 馬鹿な! いかに緊急時とはいえ、そのような子供にエピステーメ家の命運を託すなど……!」


補佐官は、扇子でバシバシと自身の手のひらを叩きながら、ヒステリックに声を荒らげた。


「そもそも、外部の、しかも子供を屋敷に入れたなどと知れれば、分家の御当主たちが何とおっしゃるか! 『本家は当主不在の間、子供に縋らねばならぬほど落ちぶれたのか』と、突き上げを食らうのは目に見えておりますぞ!」


彼の口から出るのは、屋敷の危機よりも、自身の保身や、親族たちの顔色を気にする言葉ばかりだった。

その愚かしさに、お兄様が冷ややかな視線を向ける。

シルヴァン先生は、消耗して青白い顔ながらも、呆れたようにため息をつき、真っ直ぐに補佐官を見据えた。


「補佐官殿。分家の御当主たちの世間話と、侯爵家の皆様のお命や領民たちの命。……どちらが重いとお考えですか?」

「そ、それは……!」

「閣下は、体裁よりも実利を取れと仰ったのです。これ以上、無意味な慣例で時間を浪費するなら、この屋敷が呪いに沈んだ際、その全責任は貴方が負うことになりますが、よろしいですね?」

「う……ううむ……」


先生の気迫と、責任という言葉に、補佐官は脂汗を流して口ごもる。

その時だった。


「……おやめなさい、補佐官」


静かに、しかし凛とした声が響いた。

お母様だった。

ここ数日、植物への執着で心ここにあらずといった様子だったお母様だが、今の瞳には、侯爵夫人としての強い理性の光が宿っていた。


「奥様……」

「侯爵様は……あの方は、シルヴァン先生を信頼して、許可を出したのです。当主の判断に、分家の意向など関係ありません」

「し、しかし……!」

「責任は、この家を預かる私が取ります。文句があるなら、侯爵様が戻ってから直接仰いなさい。……シルヴァン先生、すぐに、そのお弟子さんをお呼びなさい」


お母様の鶴の一声に、補佐官は「くっ……」と悔しそうに口をつぐみ、深々と一礼して引き下がった。

先生は、安堵の息を吐き出し、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。必ずや、ご期待に応えてみせます」


許可が出ると、先生はすぐに懐から、見たことのない青白い宝石を取り出した。


「……来てくれ、セレス」


短く、名前を呼ぶ。

すると、宝石が眩い光を放ち、空間がぐにゃりと歪んだ。

転移魔法——!

屋敷の結界を一時的に書き換えての、高度な強制転移。

私たちが息を呑んだ瞬間、光の中から、ゆったりとしたローブを纏った、小柄な人影が現れた。


「……お呼びですか、先生」


鈴を転がすような、澄んだ高い声。

ローブのフードを目深に被っていて顔は見えないが、その華奢な立ち姿と可愛らしい声に、私は思わず呟いた。


「女の子……?」


その人影は、部屋の状況を一瞥することもなく、真っ直ぐにシルヴァン先生の元へと駆け寄った。

そして、勢いよくフードを脱ぎ捨てる。


「先生っ! 遅いですよぉ、僕ずっと待機してたんですからね!」


現れたのは、息を呑むほど美しい、中性的な容貌だった。

腰まで届く艶やかな濃い茶髪がさらりと流れ落ちる。

肌は陶磁器のように白く、長い睫毛に縁取られた瞳は、深い藍色から燃えるような金色へと移ろうグラデーションを描いていた。

まるで、夜明けの空をそのまま閉じ込めたような、神秘的な瞳。

年齢は、先生が仰っていたように私たちと同年代のように見えた。


「……ほんとうに幼い子供ではないかっ」


補佐官が呆れたように声を漏らす。

しかし、その子は補佐官を一瞥もしない。

その子の世界には、シルヴァン先生しか存在していないようだった。

その子は、先生の顔色の悪さに気づくと、パッと表情を曇らせ、まとわりつくように先生の手を取った。


「っ先生! 顔色が真っ青じゃないですか! 魔力もこんなに減って……! 僕がもっと早く呼んでって言ったのに、無理するからぁ!」

「はは、すまないねセレス。……少し、厄介なことになっていてね」

「もう! 先生をこんな目に遭わせるなんて、どこのどいつですか!? 僕が八つ裂きにしてやりますよ!」


プンプンと怒ってみせるその様子は、先生を慕う愛らしい子供そのものだった。

先生が「セレス」と静かに名を呼ぶと、お弟子さんはすぐに背筋を伸ばした。


「状況は?」

「最悪だ。屋敷全体、いや、領地全体に高位の闇魔法による呪いが浸透し始めている。……私の力では、もう抑えきれない」

「んー、なるほどぉ」


セレスと呼ばれたその子は、ふい、と窓の外の温室の方角へと目を向けた。

その瞬間。

先生に向けていた愛らしい笑顔が、スッと消え失せた。


「……うわ、汚っ」


吐き捨てるような、冷徹な響き。

その瞳から感情が抜け落ち、無機質なガラス玉のように冷たく光ったのを、私は見てしまった。

彼は、まるで汚物を見るような目で窓の外を一瞥すると、面倒くさそうに右手を掲げた。


「はぁ……先生の居る空間をこんな空気にするなんて、いい度胸ですね。……さっさと消えてくださいよ」


詠唱も、杖もなしに。

ただそれだけの動作で、彼の体から、目が眩むほどの純白の光が溢れ出した。


「——『聖域サンクチュアリ』」


その瞬間、部屋中が、いや、視界全てが真っ白に染まった。

光の波紋が部屋を突き抜け、屋敷全体へと爆発的に広がっていく。

その光に触れた瞬間、胸の奥に淀んでいた重苦しいものが、強制的に剥ぎ取られ、焼き尽くされていくのを感じた。


「……っ!?」


視界が白く塗りつぶされるほどの光量に、お兄様がとっさに私の前に飛び出し、その背中で私を庇うように覆いかぶさった。

繊細さなど微塵もない。

それは、ただただ圧倒的な「暴力」にも似た、光の奔流だった。

窓の外を見ると、屋敷を覆っていた薄暗い霧のような靄が、光に弾き飛ばされ、一瞬にして消滅していく。


「……ふぅ、こんなもんでいいですかね?」


光が収まると、セレスは再び愛らしい笑顔を浮かべて、先生を振り返った。


「とりあえず、屋敷周辺の結界を張り直して、表層の汚れは掃除しておきました! 先生、僕えらい?」

「ああ、助かったよ。さすがだね」


先生が頭を撫でてやると、セレスは猫のように目を細めて嬉しそうに笑った。

その無邪気な姿と、先ほど見せた底知れない魔力、そして一瞬の冷酷な表情。

そのあまりのギャップに、私とお兄様は言葉を失い、ただ呆然と、夜明けの瞳を持つその子を見つめることしかできなかった。


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