32 静かな異変 5
「同じくらいの……子どもっ……?」
お兄様の声が、驚きに裏返る。
それは、魔法術師としては異例の若さである。
「そんな……子供に、この呪いが……?」
「あの子は子供ですが、その力は本物です。少なくとも、専門外の私が命を削るより、はるかに確実な戦力となるでしょう」
先生は、消耗した体を引きずるようにソファから立ち上がると、私たちに向かって告げた。
「これは、私が勝手に決断できることではありません。エピステーメ家の問題です。……奥様と補佐官殿に、この件を進言し、最終的な承認をいただかねばなりません」
先生は、消耗した体を引きずるようにベッドから起き上がった。
ふらつく足元をお兄様が支える。
「先生、無理は……」
「急がねばなりません。一刻も早く」
その悲壮なまでの決意に、私とお兄様は頷き、先生を支えて部屋を出た。
♢
私たちは、お母様が待つ客間へと向かった。
そこには、家令と共に、お父様の補佐官である、厳格な初老の男性も控えていた。
シルヴァン先生は、私たちの前に出ると、家令たちに現在の状況を説明し始めた。
政治的な罠であること、神殿には頼れないこと、自分の力では限界であること。
そして、唯一の解決策として「弟子」を呼ぶことについて、すでに公爵閣下の許可を得ていることを。
それを聞いた補佐官は、案の定、顔を真っ赤にして異を唱えた。
「公爵閣下が許可されただと? 馬鹿な! いかに緊急時とはいえ、そのような子供にエピステーメ家の命運を託すなど……!」
補佐官は、扇子でバシバシと自身の手のひらを叩きながら、ヒステリックに声を荒らげた。
「そもそも、外部の、しかも子供を屋敷に入れたなどと知れれば、分家の御当主たちが何とおっしゃるか! 『本家は当主不在の間、子供に縋らねばならぬほど落ちぶれたのか』と、突き上げを食らうのは目に見えておりますぞ!」
彼の口から出るのは、屋敷の危機よりも、自身の保身や、親族たちの顔色を気にする言葉ばかりだった。
その愚かしさに、お兄様が冷ややかな視線を向ける。
シルヴァン先生は、消耗して青白い顔ながらも、呆れたようにため息をつき、真っ直ぐに補佐官を見据えた。
「補佐官殿。分家の御当主たちの世間話と、侯爵家の皆様のお命や領民たちの命。……どちらが重いとお考えですか?」
「そ、それは……!」
「閣下は、体裁よりも実利を取れと仰ったのです。これ以上、無意味な慣例で時間を浪費するなら、この屋敷が呪いに沈んだ際、その全責任は貴方が負うことになりますが、よろしいですね?」
「う……ううむ……」
先生の気迫と、責任という言葉に、補佐官は脂汗を流して口ごもる。
その時だった。
「……おやめなさい、補佐官」
静かに、しかし凛とした声が響いた。
お母様だった。
ここ数日、植物への執着で心ここにあらずといった様子だったお母様だが、今の瞳には、侯爵夫人としての強い理性の光が宿っていた。
「奥様……」
「侯爵様は……あの方は、シルヴァン先生を信頼して、許可を出したのです。当主の判断に、分家の意向など関係ありません」
「し、しかし……!」
「責任は、この家を預かる私が取ります。文句があるなら、侯爵様が戻ってから直接仰いなさい。……シルヴァン先生、すぐに、そのお弟子さんをお呼びなさい」
お母様の鶴の一声に、補佐官は「くっ……」と悔しそうに口をつぐみ、深々と一礼して引き下がった。
先生は、安堵の息を吐き出し、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ずや、ご期待に応えてみせます」
許可が出ると、先生はすぐに懐から、見たことのない青白い宝石を取り出した。
「……来てくれ、セレス」
短く、名前を呼ぶ。
すると、宝石が眩い光を放ち、空間がぐにゃりと歪んだ。
転移魔法——!
屋敷の結界を一時的に書き換えての、高度な強制転移。
私たちが息を呑んだ瞬間、光の中から、ゆったりとしたローブを纏った、小柄な人影が現れた。
「……お呼びですか、先生」
鈴を転がすような、澄んだ高い声。
ローブのフードを目深に被っていて顔は見えないが、その華奢な立ち姿と可愛らしい声に、私は思わず呟いた。
「女の子……?」
その人影は、部屋の状況を一瞥することもなく、真っ直ぐにシルヴァン先生の元へと駆け寄った。
そして、勢いよくフードを脱ぎ捨てる。
「先生っ! 遅いですよぉ、僕ずっと待機してたんですからね!」
現れたのは、息を呑むほど美しい、中性的な容貌だった。
腰まで届く艶やかな濃い茶髪がさらりと流れ落ちる。
肌は陶磁器のように白く、長い睫毛に縁取られた瞳は、深い藍色から燃えるような金色へと移ろうグラデーションを描いていた。
まるで、夜明けの空をそのまま閉じ込めたような、神秘的な瞳。
年齢は、先生が仰っていたように私たちと同年代のように見えた。
「……ほんとうに幼い子供ではないかっ」
補佐官が呆れたように声を漏らす。
しかし、その子は補佐官を一瞥もしない。
その子の世界には、シルヴァン先生しか存在していないようだった。
その子は、先生の顔色の悪さに気づくと、パッと表情を曇らせ、まとわりつくように先生の手を取った。
「っ先生! 顔色が真っ青じゃないですか! 魔力もこんなに減って……! 僕がもっと早く呼んでって言ったのに、無理するからぁ!」
「はは、すまないねセレス。……少し、厄介なことになっていてね」
「もう! 先生をこんな目に遭わせるなんて、どこのどいつですか!? 僕が八つ裂きにしてやりますよ!」
プンプンと怒ってみせるその様子は、先生を慕う愛らしい子供そのものだった。
先生が「セレス」と静かに名を呼ぶと、お弟子さんはすぐに背筋を伸ばした。
「状況は?」
「最悪だ。屋敷全体、いや、領地全体に高位の闇魔法による呪いが浸透し始めている。……私の力では、もう抑えきれない」
「んー、なるほどぉ」
セレスと呼ばれたその子は、ふい、と窓の外の温室の方角へと目を向けた。
その瞬間。
先生に向けていた愛らしい笑顔が、スッと消え失せた。
「……うわ、汚っ」
吐き捨てるような、冷徹な響き。
その瞳から感情が抜け落ち、無機質なガラス玉のように冷たく光ったのを、私は見てしまった。
彼は、まるで汚物を見るような目で窓の外を一瞥すると、面倒くさそうに右手を掲げた。
「はぁ……先生の居る空間をこんな空気にするなんて、いい度胸ですね。……さっさと消えてくださいよ」
詠唱も、杖もなしに。
ただそれだけの動作で、彼の体から、目が眩むほどの純白の光が溢れ出した。
「——『聖域』」
その瞬間、部屋中が、いや、視界全てが真っ白に染まった。
光の波紋が部屋を突き抜け、屋敷全体へと爆発的に広がっていく。
その光に触れた瞬間、胸の奥に淀んでいた重苦しいものが、強制的に剥ぎ取られ、焼き尽くされていくのを感じた。
「……っ!?」
視界が白く塗りつぶされるほどの光量に、お兄様がとっさに私の前に飛び出し、その背中で私を庇うように覆いかぶさった。
繊細さなど微塵もない。
それは、ただただ圧倒的な「暴力」にも似た、光の奔流だった。
窓の外を見ると、屋敷を覆っていた薄暗い霧のような靄が、光に弾き飛ばされ、一瞬にして消滅していく。
「……ふぅ、こんなもんでいいですかね?」
光が収まると、セレスは再び愛らしい笑顔を浮かべて、先生を振り返った。
「とりあえず、屋敷周辺の結界を張り直して、表層の汚れは掃除しておきました! 先生、僕えらい?」
「ああ、助かったよ。さすがだね」
先生が頭を撫でてやると、セレスは猫のように目を細めて嬉しそうに笑った。
その無邪気な姿と、先ほど見せた底知れない魔力、そして一瞬の冷酷な表情。
そのあまりのギャップに、私とお兄様は言葉を失い、ただ呆然と、夜明けの瞳を持つその子を見つめることしかできなかった。




