31 静かな異変 4
「……リアム様、申し訳ありませんが、そこの棚にある魔力回復薬を……」
先生は、もはや私たちに隠し立てすることを諦めたようだった。
その声は弱々しく、お兄様に指示を出すことさえ億劫そうに見える。
お兄様は黙って頷くと、音を立てずに棚へと歩み寄り、小瓶を取り、水を注いだグラスと共に先生に手渡した。
その一連の動作は、師を気遣う、静かな敬意に満ちていた。
先生は、ひどく苦そうにポーションを飲み干すと、重い溜息と共にかぶりを振った。
「……気休めにしかなりませんね。あの呪いは、私の魔力とは相性が悪すぎる」
部屋の空気は、張り詰めたように重い。
お兄様は、ソファの脇に立ったまま、固く拳を握りしめている。
その横顔は、己の無力さを噛み締めるように、苦痛に歪んでいた。
「先生……いったい何が起きているのですか?」
お兄様の問いに、シルヴァン先生はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや教師としての穏やかさはなく、一つの家の運命を背負う、魔法術師としての険しさが宿っていた。
「……先ほどもお伝えしたように、あれは高度な闇魔法により呪いをかけられた植物です」
「闇魔法……」
お兄様の声が、低く呻くように響く。
魔法において、それがどれほど禁忌とされている存在か、私たちでも知っていた。
その言葉の響きだけで、背筋が凍るようだった。
「今、この屋敷や領地内で起こっていることは把握していらっしゃいますか?」
先生のその問いかけは、私たちに答えを求めているというよりは、これから告げる事実を受け止める覚悟があるかを試しているように聞こえた。
私は、あの時の家令と侍女長の会話を思い出す。
領地内の広場での喧嘩、原因不明の体調不良……。
そのことを伝えようと口を開いた瞬間、お兄様が、ほとんど私と同時に同じ内容を口にした。
「領地内の村で、不和や体調不良者が続出していると聞きました」
あの場にお兄様はいなかったはず……。
なら、お兄様も私とは別の場所でその情報を掴んだか、あるいは、領地全体の不穏な「気配」を感じ取っていらっしゃったのだろう。
お兄様の返答を聞いた先生は、「やはり、リアム様も気づいておられましたか」と、少し考えるような様子を見せた。
「領地の村々で起きている不和や体調不良。それに加えてリアム様の魔力制御の不調もその1つであると考えられます。そして、夫人の異常なまでの執着……。全て、あの植物が放つ呪いが、人々の負の感情を増幅させている影響です」
先生は、淡々と、しかし恐ろしい事実を告げる。
その事実を、私はただ息を呑んで聞いていることしかできなかった。
すると、隣から少し震える声が聞こえ、私はお兄様を見上げた。
「私の魔力制御の不調も、あの植物の影響なのですか…?」
「えぇ、そう考えられます。リアム様があの程度の魔力制御を失敗なさるなど、本来ありえません」
その言葉を聞いた瞬間、お兄様は、何と言えばいいのか分からない顔をしていた。
眉根は寄せられ、唇は固く結ばれている。
自分の不甲斐なさを責めていた苦しみから解放された「安堵」。
しかし、それと同時に、敵の策略にまんまとはまっていたという「屈辱」。
そして、その二つが入り混じった、やり場のない「怒り」。
その全てが、彼の表情に浮かんでいた。
「この事態を重く見て……私は数日前、魔法通信にて、公爵閣下に緊急のご報告を差し上げました」
「お父様に……!」
「ええ。そして、先ほど、その返信をいただいたところです」
先生は、そう言うと、懐から紋章入りの通信魔道具を取り出した。
お父様からの返答。
普通ならば、この絶望的な状況における、唯一の希望のはず。
それなのに、なぜか私の胸は、嫌な予感でざわついていた。
「侯爵様からの返事はこうです…」
先生は、目を閉じ、その内容を記憶から反芻するように、静かに、しかし重く告げた。
第一 その呪いは、十中八九、我が家と敵対する家門か組織の仕業である
第二 奴らの目的は、呪いを屋敷に蔓延させ、混乱に乗じて、侯爵家の失墜を狙うことにある
第三 決して、神殿を頼ってはならない。神殿に闇魔法の対処を公に依頼したという事実こそが、奴らの狙うスキャンダルとなる
一つ告げられるごとに、部屋の温度が、確実に下がっていくようだった。
お父様がご不在の今、神殿にも頼れない。
私たちは、完全に孤立してしまったのだ。
「そして……」と、先生が最も辛そうに、言葉を続けた。
「第四『私が戻るまで、何としても呪いを抑え続けてほしい』……と」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「そんな……!先生は、光魔法が専門外ですのに……!」
「ええ」
先生は、自嘲するように、弱々しく笑った。
「この高位の闇魔法を、完全に浄化できるのは、我が国広しといえど、強力な『光魔法』の属性の魔法術師だけ。そして、その稀有な光魔法の使い手の一人こそが……公爵閣下、ご本人なのです」
絶望的な真実だった。
呪いを解ける唯一の人は、今、王族の護衛という、絶対に離れられない任務の最中にいる。
戻るまで、最低でもあと数日はかかる。
それまで、光魔法術師ではない先生が、たった一人で、領地全体に広がる呪いを抑え続けなければならない。
「私の光魔法では、もはや、あの呪いの進行を抑えきることは……不可能です」
先生が無理ならば、この屋敷の中でいったい誰が対処できるというのだろうか。
私たちは、明らかにお父様の不在を狙われ、巨大な陰謀の渦中にいるのだと、この瞬間、叩きつけられるように理解した。
「……っ」
隣で、お兄様が息を呑み、固く握りしめた拳が、怒りとも絶望ともつかない感情に白く震えているのが分かった。
「……何か手はないのですか」
お兄様が、怒りを押し殺したような、地を這うような低い声で呟いた。
その声は、私たちの絶望そのものだった。
部屋は再び、重い沈黙に包まれる。
消耗した先生の少し荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえた。
私は、ただ目の前が真っ暗になるのを感じていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ソファで目を閉じていたシルヴァン先生が、ゆっくりと、何か重い決意を固めたように、その目を開けた。
「……一つだけ、方法があります」
その声は、まだ弱々しかったが、確かな意志が宿っていた。
私とお兄様は、食い入るように先生の顔を見る。
「あまり使いたくない手でしたが……仕方ありません。この状況を打開できる可能性は、そこにしかありませんから」
「先生……?」
先生は、私たちを真っ直ぐに見据えた。
「私には、たった一人だけ、弟子がおります。その弟子を呼びましょう」
「先生の、お弟子さん……?」
「ええ。私とは魔法属性が違います。あの子は……私など足元にも及ばない、純粋な『光魔法』の魔法術師です」
その言葉を聞いた瞬間、希望の光が、暗闇の中に差し込んだ気がした。
お兄様と私は、思わず顔を見合わせていた。
けれど、先生の表情はまだ険しいままだ。
「ですが、この手を使うには、大きな問題が二つあります」
「問題……?」
私とお兄様の声が、綺麗に重なった。
「父上が懸念されている、外部への情報漏洩になる可能性があることでしょうか?」
お兄様が、冷静に、そして核心を突く問いを発する。
「えぇ。しかし、その点に関しては、すでに侯爵様にご了承を頂けたため問題ありません」
「では、もう一つの問題とは何なのですか?」
お兄様が、わずかに焦ったように、次の問いを重ねた。
「もう一つは……」
先生は、言い淀むように、一度言葉を切った。
その視線が、私とお兄様の間を行き来する。
「……私が呼ぼうとしているその弟子が、まだ、お二人と同じくらいの子供であるということです」




