30 静かな異変 3
あの日、シルヴァン先生から銀色の護符を受け取ってから、数日が過ぎた。
肌身離さず身に着けているおかげか、お兄様の魔法訓練は目に見えて安定し、侍女たちの言い争いも、以前よりは減ったように思える。
私自身も、あの理由のない胸のざわつきを感じることは少なくなっていた。
けれど、屋敷全体を覆う、薄皮一枚隔てたような不気味な空気は、消えてはくれなかった。 特に、お母様の様子は日に日に変わっていった。
「この子は、私が守ってあげないと」 そう呟いて、お母様は温室に鍵をかけてしまった。侍女たちでさえ、許可なく立ち入ることはできない。
お父様がご不在で、寂しいからなのだと、自分に言い聞かせようとしても、植物に我が子のように話しかけるお母様の姿は、どこか尋常ではない執着を孕んでいて、私の心を重くした。
そして、その不安が杞憂ではないと思い知らされたのは、その二日後のことだった。
お茶の準備のために客間を通りかかった時、家令と侍女長が、深刻な顔で話し込んでいるのを偶然目にしてしまった。
「……城下の広場で、血を見るような大喧嘩が起きたと」
「ええ。それだけではありません。ここ数日、原因不明の体調不良を訴える者や、些細なことで隣人と揉めているという報告が、立て続けに……」
「まるで、何かに当てられたかのようだ。この屋敷だけではないというのか、この嫌な空気は……」
足が、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
屋敷の中だけではなかった。
あの植物が来てから始まった不協和音は、今や、私たちが暮らす領地の村々にまで、確実に広がってしまっていたのだ。
その事実を知ってから、私たち兄妹は、シルヴァン先生が何かを隠しているのではないかと、言いようのない不安を共有していた。
シルヴァン先生ほどの人がこの異変に気付いていないはずがないのだ。
私は、先生からもらったブレスレットに視線を落としながら、あの怪しく光を纏っていた植物を思い浮かべていた。
その夜のことだ。
夕食の後、私たちは「護符の調整をしましょう」という名目で先生の私室に呼ばれ、簡単な調整を終えて、二人で自室に戻るため廊下を歩いていた。
「先生、なんだか……疲れていらっしゃったわ」
「ああ……」
お兄様も同意するように、険しい顔で俯いている。
今日の先生は、いつもの穏やかな笑顔の裏に、隠しきれない疲労の色を浮かべていた。
その時だった。
「……待って」
お兄様が、不意に立ち止まり、私の前に手を出して制止した。
「どうしたの、お兄様?」
「この……魔力の感じ……。さっきの先生の部屋の方からだ」
私は何も感じない。
けれど、お兄様の表情は、温室で植物を見た時と同じ、真剣なものに変わっていた。
「……さっきの護符の調整の時と、魔力の感じが違う。これは……なんだ?すごく温かい、でも……無理やり力を引き出しているような、危うい感じがする……。それに、もう一つの魔力は…」
お兄様に導かれるまま、私たちは息を潜めて、たった今出てきたばかりの先生の部屋へと引き返す。
扉には、僅かに隙間が空いていた。
お兄様が、私に「静かに」と合図を送り、二人でそっと中を覗き込む。
そして、私たちは見てしまった。
「……っ!」
息を呑む音が、お兄様と私で、ぴったりと重なった。
先生が、机に置かれた1枚の葉——あの温室の植物の葉——に向かって、掌をかざしていた。 彼の掌から放たれているのは、訓練の時に見せてくれる魔法とは全く違う、温かい光の魔法だった。
その光が、黒紫の葉を焼き消そうとしているのか、葉からはおぞましい黒い煙が上がっている。
けれど、先生の体は、その光に耐えきれないかのように小刻みに震えていた。
顔は月の光に照らされて紙のように真っ白で、額からは玉のような汗が流れ落ち、荒い息を繰り返している。
「先生……!」
私が思わず漏らした小さな声に、先生の肩が大きく跳ねた。
彼がかざしていた光が、かき消されるように消える。
先生は、私たちを振り返ると、驚きに目を見開き、慌てて咳払いをした。
「……ヴィオレッタ様、リアム様。夜更かしはいけませんよ」
その声は、ひどく掠れていた。
彼は、私たちに見られた動揺を隠すように、いつもの微笑みを作ろうとする。
しかし、その唇は微かに震え、壁に手をつかなければ立っていられないほど、消耗しきっていた。
「先生……今のは……?」
お兄様が、呆然と尋ねる。
「……やはり、見られていましたか」
先生は、もう隠しきれないと悟ったのか、深く、重い溜息をついた。
「……屋敷と領地に広がっている不調の原因は、侯爵夫人が持ち帰られたあの植物です。あれは、高位の『闇魔法』の呪いをかけられた、魔法植物の一種です」
先生の口から語られた事実に、私たちは言葉を失う。
「そして、この呪いを浄化するには、高度な『光魔法』が必要なのです。……私は、専門外ですが、ね」
専門外——。
その一言が、どれほどの重みを持つのか。
これまでシルヴァン先生の魔法学の授業を受けていた私たちには容易に理解できた。
魔法には様々な属性があり、魔法の発現者はそれぞれ特定の属性の魔法を得意とし、磨き上げていく。
極稀に、複数の魔法属性に適性があり、複数属性の魔法を操る魔法術師がいる。
シルヴァン先生もその一人である。
そんな中でもシルヴァン先生が特別視されているのは、全ての属性の魔法に適性を持ち、高いレベルで魔法を操ることができるからだ。
しかし、ある属性の魔法はその例外となる。
それが、光魔法と闇魔法である。
闇魔法に関しては、いまだ解明されていないことが多いが、光魔法は、血統で受け継がれると考えられており、その血統の者のみが適性を持ち、発現させることができる。
また、光魔法を発現させた者は、光魔法以外を使用することはできなくなる。
(あれ…?なら、なぜシルヴァン先生が光魔法を扱うことができているのかしら)
考え込んでいると、以前先生がさらっと説明していたことを思い出した。
(…そうだわ、適性があれば無理やり行使することができるのだったわ)
シルヴァン先生は光魔法にも適性を持っていらっしゃったのだろう。
しかし、シルヴァン先生は光魔法術師ではない。
(無理やり行使するのは非常に危険な術で、使ってはいけないと仰っていたのに…お使いになられたのだわ…!)
お兄様も気づいたのか、驚きと心配が入り混じったような表情をしている。
私たちは、先生が、自分の専門ではない魔法を無理やり行使し、その反動で、今にも倒れそうなほど消耗していることを悟った。
私たちに護符を渡し、穏やかな日常を守る裏側で、たった一人、これほどの危険な戦いを続けていたのだ。
「侯爵様がご不在の時に……これほどとは……」
先生が、苦悩に満ちた呟きを漏らす。
問題は、解決するどころか、私たちの想像を遥かに超えて、深刻な事態になっているのだと。
私たちは、先生の疲弊しきったその姿を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




