表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/36

29 静かな異変 2

お母様の不在は、私たちにとって絶好の機会となった。

兄と二人、誰にも見つからないようにそっと客間を抜け出し、陽光が降り注ぐガラス張りの廊下を渡って、屋敷の東側にある温室へと向かう。

扉を開けると、むわりと湿った土と花の蜜が混じり合った、生命力に満ちた空気が私たちを迎えた。


「わぁ……!」


色とりどりの花々が咲き誇る光景は、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのようだ。

その中央に、ひときわ大きく、そして異質な存在感を放つ植物が鎮座していた。

ベルベットのような質感の深緑の葉には、銀色の光沢を帯びた幾何学模様が走り、その中心には、夜の闇を写し取ったかのような、固く黒紫の蕾が、何かを秘めるように佇んでいる。まるで、この世のものではないような、妖しいほどの美しさだった。


「すごいわ……お母様が夢中になるのも分かる気がする」

「ああ、見たこともない植物だな。……それに、不思議な魔力を感じる」


お兄様はそう言うと、真剣な眼差しでその植物に近づいていった。

私も、彼の後を追う。


「ヴィオレッタ。この植物、なんだか……周りの魔力を、僅かに吸っているような気がしないか?」


真剣な声で尋ねられ、私はそっと目を閉じて、意識を集中させてみる。

けれど、花の甘い匂いや、湿った空気を感じるだけで、お兄様が言うような魔力の動きは、私には何も感じ取れなかった。


「え?そう……ですか?私には、分からないみたいです」


首を傾げる私を見て、お兄様は一瞬だけ難しい顔をしたが、すぐにふっと表情を和らげた。


「そうか。なら、私の気のせいなのかもしれないな」


その優しい声に、私はこくりと頷く。

そして、お兄様は、私を安心させるように、明るい声で話題を変えた。


「そうだ、ヴィオレッタが好きなお菓子を作って貰えるように、厨房に頼んであるんだ。出来上がるまで、一緒に書庫で本でも読まないかい?」

「え?!ほんとですか?ちょうど、お兄様と一緒に読みたいと思っていた本があったんです!」


思いがけない申し出に、私の心は喜びで飛び跳ねた。

私の好物を覚えていてくれたこと。

一緒に本を読もうと誘ってくれたこと。

その一つ一つが、宝物のように嬉しかった。


「ふふ、良かった。じゃあ、行こうか」

「はい!お菓子も楽しみです」


私たちは笑い合い、温室を後にした。

私の心は、兄の優しさでいっぱいで、あの不思議な植物のことも、すっかり頭から抜け落ちていた。



温室を訪れた翌日、私は不可解な光景を目の当たりにすることになった。

午前中の授業を終え、自室に戻る途中の廊下で、隅の方からひそひそと話し声が聞こえてきたのだ。

声の主は、リアと、もう一人の若い侍女だった。

二人は姉妹のように仲が良く、いつも楽しそうに笑い合っている。

しかし、今の彼女たちの雰囲気は、普段とは全く違っていた。


「だから、あなたがちゃんと確認しないからでしょう!」

「いいえ、私は確かに伝えたはずです!そちらの聞き間違いではなくて?」


些細な仕事の伝達ミスについてだろうか。

けれど、その声は棘々しく、互いを責め立てている。

その表情は、普段の穏やかな彼女たちからは想像もつかないほど険しく、意地悪な光を宿していた。

私が通りかかると、二人ははっとしたように口をつぐみ、バツの悪そうな顔で深々と礼をすると、逃げるように去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、私の胸は不安で締め付けられた。

この屋敷の中で、何かが、静かに、そして確実に変わり始めている。


侍女たちの異様な様子に胸をざわつかせたまま、私は午後のお兄様との魔法訓練へと向かった。

今日の課題は、掌の上で水を球体のまま維持すること。

高い集中力を要する、繊細な魔力制御の訓練だ。


「……くそっ……」


隣で、お兄様が小さく悪態をついた。

お兄様の掌の上にあった水の球が、ぱしゃりと弾けてしまったのだ。

一度や二度ではない。

今日、お兄様がこの訓練に成功したのは、まだ一度もなかった。


「お兄様……?」

「……すまない。どうも、集中できない」


お兄様の声には、午前中に見た侍女たちと同じ、苛立ちが滲んでいる。

普段の冷静なお兄様からは、想像もつかないことだった。

そんな私たちの様子を、シルヴァン先生は、何も言わずにじっと見ていた。

その眼差しは、いつもの優しい教師のものではない。

鋭く、そして深く何かを考え込んでいるようだった。

結局その日、お兄様の調子は戻らないまま、先生は「少し、お疲れのようですね。今日はここまでにしましょう」と、早めに訓練を切り上げた。



そして、またその翌日。

授業が始まる前、シルヴァン先生が、改まった様子で私たちを呼び止めた。

その手には、銀細工で作られた、小さな二つの葉の形の飾り付いたブレスレットが乗せられていた。


「お二人に、お渡ししたいものがあります」

「これは……?」

「護符です。お二人とも、内に大きな魔力を秘めている。これは、外部からの余計な魔力干渉を防ぎ、精神を安定させる助けになるでしょう。訓練の一環だと思って、常に身に着けてください」


先生は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。

けれど、私はその言葉の裏に違う意味が隠れているように感じた。


(先生は……侍女たちのことも、昨日のお兄様の不調も、その原因にきっと心当たりがあるんだわ)


先生は、何かを知っている。

そして、私たちに告げられない「何か」から、私たちを守ろうとしてくれている。

私たちは、お礼を言ってそれを受け取った。

ブレスレットは、肌に触れるとひやりとしていて、不思議と心が落ち着くような気がした。


お兄様と私は、黙って視線を交わした。

この屋敷の中で、何かが、静かに、そして確実に変わり始めている。

その予感は、もう、気のせいなどではなかった。



そして、その夜。

自室の窓から、ぼんやりと月を眺めていると、温室が、昼間とは全く違う雰囲気を纏っていることに気づく。

そして、見てしまったのだ。

温室の中央、例の植物の蕾が、月の光を吸い込んだかのように、淡く、妖しく、燐光を放っているのを。

そして、どこからか、あの甘い香りが風に乗って、開いた窓の隙間から、私の部屋にまで届いていた。

その甘い香りが、これから始まる悪夢の序曲であることを、私はまだ知らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ