29 静かな異変 2
お母様の不在は、私たちにとって絶好の機会となった。
兄と二人、誰にも見つからないようにそっと客間を抜け出し、陽光が降り注ぐガラス張りの廊下を渡って、屋敷の東側にある温室へと向かう。
扉を開けると、むわりと湿った土と花の蜜が混じり合った、生命力に満ちた空気が私たちを迎えた。
「わぁ……!」
色とりどりの花々が咲き誇る光景は、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのようだ。
その中央に、ひときわ大きく、そして異質な存在感を放つ植物が鎮座していた。
ベルベットのような質感の深緑の葉には、銀色の光沢を帯びた幾何学模様が走り、その中心には、夜の闇を写し取ったかのような、固く黒紫の蕾が、何かを秘めるように佇んでいる。まるで、この世のものではないような、妖しいほどの美しさだった。
「すごいわ……お母様が夢中になるのも分かる気がする」
「ああ、見たこともない植物だな。……それに、不思議な魔力を感じる」
お兄様はそう言うと、真剣な眼差しでその植物に近づいていった。
私も、彼の後を追う。
「ヴィオレッタ。この植物、なんだか……周りの魔力を、僅かに吸っているような気がしないか?」
真剣な声で尋ねられ、私はそっと目を閉じて、意識を集中させてみる。
けれど、花の甘い匂いや、湿った空気を感じるだけで、お兄様が言うような魔力の動きは、私には何も感じ取れなかった。
「え?そう……ですか?私には、分からないみたいです」
首を傾げる私を見て、お兄様は一瞬だけ難しい顔をしたが、すぐにふっと表情を和らげた。
「そうか。なら、私の気のせいなのかもしれないな」
その優しい声に、私はこくりと頷く。
そして、お兄様は、私を安心させるように、明るい声で話題を変えた。
「そうだ、ヴィオレッタが好きなお菓子を作って貰えるように、厨房に頼んであるんだ。出来上がるまで、一緒に書庫で本でも読まないかい?」
「え?!ほんとですか?ちょうど、お兄様と一緒に読みたいと思っていた本があったんです!」
思いがけない申し出に、私の心は喜びで飛び跳ねた。
私の好物を覚えていてくれたこと。
一緒に本を読もうと誘ってくれたこと。
その一つ一つが、宝物のように嬉しかった。
「ふふ、良かった。じゃあ、行こうか」
「はい!お菓子も楽しみです」
私たちは笑い合い、温室を後にした。
私の心は、兄の優しさでいっぱいで、あの不思議な植物のことも、すっかり頭から抜け落ちていた。
温室を訪れた翌日、私は不可解な光景を目の当たりにすることになった。
午前中の授業を終え、自室に戻る途中の廊下で、隅の方からひそひそと話し声が聞こえてきたのだ。
声の主は、リアと、もう一人の若い侍女だった。
二人は姉妹のように仲が良く、いつも楽しそうに笑い合っている。
しかし、今の彼女たちの雰囲気は、普段とは全く違っていた。
「だから、あなたがちゃんと確認しないからでしょう!」
「いいえ、私は確かに伝えたはずです!そちらの聞き間違いではなくて?」
些細な仕事の伝達ミスについてだろうか。
けれど、その声は棘々しく、互いを責め立てている。
その表情は、普段の穏やかな彼女たちからは想像もつかないほど険しく、意地悪な光を宿していた。
私が通りかかると、二人ははっとしたように口をつぐみ、バツの悪そうな顔で深々と礼をすると、逃げるように去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私の胸は不安で締め付けられた。
この屋敷の中で、何かが、静かに、そして確実に変わり始めている。
侍女たちの異様な様子に胸をざわつかせたまま、私は午後のお兄様との魔法訓練へと向かった。
今日の課題は、掌の上で水を球体のまま維持すること。
高い集中力を要する、繊細な魔力制御の訓練だ。
「……くそっ……」
隣で、お兄様が小さく悪態をついた。
お兄様の掌の上にあった水の球が、ぱしゃりと弾けてしまったのだ。
一度や二度ではない。
今日、お兄様がこの訓練に成功したのは、まだ一度もなかった。
「お兄様……?」
「……すまない。どうも、集中できない」
お兄様の声には、午前中に見た侍女たちと同じ、苛立ちが滲んでいる。
普段の冷静なお兄様からは、想像もつかないことだった。
そんな私たちの様子を、シルヴァン先生は、何も言わずにじっと見ていた。
その眼差しは、いつもの優しい教師のものではない。
鋭く、そして深く何かを考え込んでいるようだった。
結局その日、お兄様の調子は戻らないまま、先生は「少し、お疲れのようですね。今日はここまでにしましょう」と、早めに訓練を切り上げた。
そして、またその翌日。
授業が始まる前、シルヴァン先生が、改まった様子で私たちを呼び止めた。
その手には、銀細工で作られた、小さな二つの葉の形の飾り付いたブレスレットが乗せられていた。
「お二人に、お渡ししたいものがあります」
「これは……?」
「護符です。お二人とも、内に大きな魔力を秘めている。これは、外部からの余計な魔力干渉を防ぎ、精神を安定させる助けになるでしょう。訓練の一環だと思って、常に身に着けてください」
先生は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、私はその言葉の裏に違う意味が隠れているように感じた。
(先生は……侍女たちのことも、昨日のお兄様の不調も、その原因にきっと心当たりがあるんだわ)
先生は、何かを知っている。
そして、私たちに告げられない「何か」から、私たちを守ろうとしてくれている。
私たちは、お礼を言ってそれを受け取った。
ブレスレットは、肌に触れるとひやりとしていて、不思議と心が落ち着くような気がした。
お兄様と私は、黙って視線を交わした。
この屋敷の中で、何かが、静かに、そして確実に変わり始めている。
その予感は、もう、気のせいなどではなかった。
そして、その夜。
自室の窓から、ぼんやりと月を眺めていると、温室が、昼間とは全く違う雰囲気を纏っていることに気づく。
そして、見てしまったのだ。
温室の中央、例の植物の蕾が、月の光を吸い込んだかのように、淡く、妖しく、燐光を放っているのを。
そして、どこからか、あの甘い香りが風に乗って、開いた窓の隙間から、私の部屋にまで届いていた。
その甘い香りが、これから始まる悪夢の序曲であることを、私はまだ知らなかった。




