28 静かな異変 1
助けを求めたいのに、喉が引き攣れて声にならない。
体が意思とは無関係に小刻みに震え、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「リアム様、落ち着いてください。彼女から少し離れて」
先生の、普段とは比べ物にならないほど鋭く、それでいて冷静な声が響く。
お兄様が狼狽しながらも私から離れると、すぐに先生が私の隣に膝をついた。
ひんやりとした彼の手が、燃えるように熱い私の額に触れる。
その心地よさに、ほんの少しだけ、苦しみが和らいだ気がした。
「……やはり。これは『魔力づまり』ですね」
先生は、低い声でそう告げた。
その聞きなれない言葉にお兄様はより不安げな表情を深める。
シルヴァン先生を見つめる様子は、魔力づまりとは何なのか答えを求めているようだった。
それを察したのかシルヴァン先生が口を開く。
「ご自身の膨大な魔力に、まだ覚醒していない体が耐えきれず、内部で力が渋滞を起こしています。このままでは危険です」
そう言うと、先生は私の胸の上に、そっと掌を置いた。
「ヴィオレッタ様、少しだけ我慢してください。今、魔力の通り道を作ります」
その言葉と同時に、先生の掌から、清流のように冷たく、そして澄み切った魔力が、私の体を包んでいく。
私の体内で荒れ狂っていた熱い奔流が、その清らかな魔力に導かれるように、少しずつ、少しずつ鎮まっていくのが分かった。
内側からの圧迫感が和らぎ、止まっていた呼吸が、ようやく細く長くできるようになった。
「……ふぅ……っ」
先生の額には大粒の汗が浮かんでいる。
私の体を蝕んでいた膨大な魔力を、外へと逃がしているのだろう。
私の周囲の空間が、キラキラと輝く光の粒子で満たされ、幻想的な光景が広がっていた。
やがて、私の体を苛んでいた最後の圧迫感が、すっと消え失せる。
嵐が過ぎ去った後のように、私の体には心地よい疲労感だけが残っていた。
「……もう、大丈夫ですよ」
優しく告げられた言葉に、私は安堵からか、張り詰めていたものが切れて、瞳から涙が溢れ出した。
「せん、せい……おにい、さま……」
「ヴィオレッタ……!」
心配で顔を真っ青にしていたお兄様が、私の手を強く握りしめてくれる。
その手の温もりに、私は縋るように強く握り返した。
「先生、今のはいったい……ヴィオレッタは、大丈夫なのでしょうか?また、同じようなことが……」
お兄様は、焦った声で先生に尋ねる。
その問いに、シルヴァン先生はハンカチで私の涙を優しく拭いながら、穏やかに、そして安心させるように微笑んだ。
「ご心配なく。これは『魔力づまり』と言って、ヴィオレッタ様のように、内に大きな力を秘めた御方には、時折見られる症状です」
「時折、見られる……?」
「はい。まだ器である体が、魔力量に追いついていないだけです。成長と共に、自然と治まっていくことも多いです。幸い、私が対処することが可能ですので、定期的に魔術で流れを整えてあげれば、当面は問題なく過ごせますよ」
その言葉に、私とお兄様は顔を見合わせた。
お互いの表情に、深い安堵の色が浮かぶのが分かった。
(よかった……そんなに、深刻なことではなかったのね)
大きな病気などではなく、成長に伴う、よくあること。
そして、シルヴァン先生がそばにいれば、大丈夫。
その事実が、私たちの心を軽くしてくれた。
「ただ……」
先生は、なにかを思案している様子で付け加えた。
「念のため、いずれ専門家の診断を一度受けておいた方が良いでしょう。公爵閣下には、私からご報告しておきます」
その言葉は、私たちの耳には、万が一のための、丁寧な提案にしか聞こえなかった。
けれど、その時の先生の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、凪いだ湖の底を揺らすような、深い憂いの色が浮かんだことを。
そして、その憂いが、この国の王家や神殿といった、大きな存在へと向けられていたことなど、安堵と眠気に包まれていた私たちが知る由もなかった。
「ありがとうございます、先生……」
お礼を言うのが精一杯で、私の意識は再び、心地よい眠りの中へと落ちていく。
最後に聞こえたのは、私を気遣う兄の優しい声と、すべてを見通すような先生の、静かな吐息だ
♢
初めて魔力づまりを起こしてから、数日が過ぎた。
私の体はシルヴァン先生の応急処置のおかげですっかり落ち着きを取り戻していたが、心の中はまだ静かな波紋が広がっているようだった。
「公爵閣下には、伝令にて一件の概要を報告済みです。詳しいお話は、ご帰還された後に」
先生はそうおっしゃっていた。
お父様は、我が国の精鋭である第2魔法師団を率いる立場として、よく王族の方々の地方視察に護衛として同行している。
数週間にわたる長期の任務であり、屋敷を空けることも少なくない。
だから、私の「魔力づまり」についての専門家探しは、お父様の帰りを待つことになった。
その決定に伴い、私たちの生活には、一つ、大きな変化が訪れた。
「専門家の方が見つかるまでの間、私がこの屋敷に滞在し、お嬢様の経過を観察させていただきます」
万が一、再び症状が出た際にすぐ対処できるように、という先生の提案に、誰も否を唱える者はいなかった。
お父様が不在の間、屋敷の管理を任されているお母様は、その知らせを聞いて、あからさまに機嫌が良くなった。
侍女たちに指示を出す声はいつもより弾み、先生が快適に過ごせるようにと、それはもう甲斐甲斐しく準備を整えている。
お父様がしばらくお帰りにならないのは、私としては正直少し寂しい。
けれど、以前のように胸を締め付けるほどの孤独は感じなかった。
私には、お兄様と、そしてシルヴァン先生がいてくれるから。
むしろ、大好きな二人と過ごす時間が増えるのだと思うと、寂しさよりも期待で心が弾んでしまっていた。
その日から、私たちの日常は、より一層彩りを増した。
これまで週に数回だった授業は、ほとんど毎日のように行われるようになった。
午前中は私とお兄様、三人での魔法訓練と座学。
午後はお兄様が剣術の稽古に励む間、私は先生と歴史学や芸術論を学ぶ。
書庫の大きな窓から差し込む陽光の中で、三人で静かに読書をする時間。
隣で真剣な顔で頁をめくる兄の横顔も、向かいの席で時折こちらを見ては穏やかに微笑む先生の姿も、すべてが陽だまりのように温かく、私の心を溶かしていく。
この幸せな時間が、永遠に続けばいいのに。
いつもように私は心からそう願っていた。
そんな穏やかな日々が続いていた、ある日のこと。
王都でのお茶会から帰ってきたお母様が、大きな鉢植えを抱えた庭師を連れて帰ってきた。
何を買ったのか不思議そうに見ていると「ねぇ、見てちょうだい!異国から取り寄せたとても珍しい植物なのですって」とお母様の方から話しかけられ、私たちの反応を見ることも無く、上機嫌で温室へと向かっていった。
温室はお母様が最も大切にしている場所だ。
外出先で見つけた美しい花々が、彼女の愛情を受けて生き生きと咲き誇っている。
今回はよほど気に入ったものが見つかったらしく、それからというもの、お母様は一日の大半を温室で過ごすようになった。
楽しそうに植物の手入れをしたり、優雅にお茶の時間を楽しんだりしている。
そのせいで、私とお兄様は、なかなか温室に近づけずにいた。
お母様のプライベートな時間を邪魔するわけにはいかない。
けれど、異国の珍しい植物、という言葉に、私たちの好奇心は日に日に膨らんでいった。
そして、チャンスは唐突に訪れた。
「今日は、公爵家で開かれるお茶会に行ってくるわ」
お母様が、朝から支度を整え、慌ただしく馬車に乗り込んでいったのだ。
侍女がお茶を下げに来たタイミングで、私は隣に座るお兄様の袖を、こっそりと引いた。
「お兄様」
「ん?」
「……今なら、温室に行けると思いませんか?」
私の悪戯っぽい囁きに、お兄様は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに私の意図を察して、くすりと笑った。
その目には、私と同じ、好奇心の光が浮かんでいる。
私たちは顔を見合わせ、静かに頷き合うと、そっと席を立ったのだった。




