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27 新たな日課

歴史学の授業が終わると私は真っ先に訓練場へ向かった。

訓練場からはまだ金属音が響いている。

訓練中に近くに行くのは危険だからと訓練が終わるまでは付近の木陰で待つことにした。

逸る気持ちを抑えて待っていると、ふと激しい剣戟の音が止んだ。

訓練が終わったのだと悟った私は、侍女に行っても良いか尋ね、侍女の首が縦に振られたのを見るとすぐに立ち上がった。


「お兄様!お疲れ様です!」


私は、手に持った冷たい果実水のグラスを落とさないように、小走りで彼に駆け寄った。

厳しい稽古を終え、木剣を置いて額の汗を拭っていたお兄様は、私の声に驚いたように顔を上げる。


「ヴィオレッタ?!」

「お水を求めていらっしゃるかと思いまして、冷たい果実水を持ってきました!」


にこりと笑ってグラスを差し出すと、お兄様は少しだけ目を丸くして、それを受け取ってくれた。

この果実水は、シルヴァン先生の助言を受けて、侍女に特別に用意してもらったものだ。


お兄様は一口飲むと「とてもおいしいよ。ありがとうヴィオレッタ。疲れが吹き飛ぶようだ」と表情に喜びを滲ませていた。

そんなお兄様の様子がなんだかとても嬉しくなった私は今後もお兄様の訓練終わりにはできるだけ果実水をもって来ますねと約束をした。


それからは訓練終わりのお兄様へできる限り果実水を持っていった。

最初こそ驚いていたお兄様も、今では何も言わずに受け取ってくれるようになった。

こうして、彼の剣術の訓練が終わるタイミングで一番に駆け寄ることが、私のささやかで大切な日課になっていた。


そんな穏やかな日々が過ぎていった、ある日のこと。

その日も稽古を終えたお兄様の元へ駆け寄ると、私はいつもよりずっと弾んだ声で話しかけた。


「お兄様!今日はシルヴァン先生が、授業の時間を使って本を読むことを許可してくださいました!!私たちの授業の進みが早いから、ご褒美だそうです!」


あまりにも嬉しくて、隠すこともなく満面の笑みを浮かべる私を見て、お兄様の口元がふっと綻んだ。

その微笑みは、もう私が知っている仮面ではなく、私の喜びが伝染したかのような、自然で温かいものだった。


「そうか、楽しみだね」

「はい!お兄様が努力を怠らず、授業に向き合われていたおかげですわ」


私が胸を張ってそう言うと、お兄様は少し驚いたように目を瞬かせた。

そして、その瞳に、じんわりと嬉しそうな色が広がるのが分かった。


「ふふっ、君もだろう?それは」


お兄様は、悪戯っぽく笑いながらそう言った。その優しい響きに、今度は私が驚く番だった。


「そ、そうですか?」


私の声が、少しだけ上ずる。

嬉しいような、照れくさいような、でも、もっと褒めてほしいような、複雑な気持ちが声色に混じってしまった。

そんな私の心を、お兄様は見透かしたようだった。


「そうだよ。ヴィオレッタはいつも頑張ってる」


あまりにも真っ直ぐな言葉と、陽光のように優しく綺麗な微笑み。

その二つを同時に向けられた私の顔に、かあっと熱が集まっていくのが分かった。


「顔が赤いよ?」


楽しそうに、からかうように言うお兄様の声が、私の心臓をさらに跳ねさせる。


「き、気のせいですっ」


私は燃えるように熱い両頬を抑えながら、ぷいとそっぽを向いた。

けれど、一度赤くなった顔は、そう簡単には元に戻ってくれない。

そんな私の様子を、お兄様はくすくすを笑いを堪えながら、心から愛おしいものを見るような眼差しで見つめていた。


やがて、話を逸らすように、彼が優しく尋ねてくれる。


「ヴィオレッタは、なんの本を読むんだい?」

「私は、おとぎ話を読んでみたくて」

「おとぎ話?」

「はい!今、王都でとても人気のおとぎ話があると聞きましたの。どうやら歴史も深い話だそうですわ」

「へえ、それは興味深いね」

「ええ、ですので今日はそれを読もうと思います」


私の言葉に、お兄様は少し考えた後、どこか期待するような、少しだけ遠慮がちな声を出した。


「……私も、一緒に読んでもいいかな?」


その言葉に、私の心は喜びで飛び跳ねた。


「もちろんですわ!」


私は満面の笑みで頷いた。

二人で過ごす、穏やかな読書の時間。

想像するだけで、胸がいっぱいになる。


(あぁ、すごく楽しみだわ!)


お兄様と話しながら部屋へ帰る間にも何度楽しみだと言ったか分からないほどだった。

後から聞いたことだが、無意識に鼻歌を歌っていたらしい。

恥ずかしい…!

もっと早く言って下さいとお兄様に抗議したのは言うまでもない。












翌日から、私たちの日常には新しい時間が加わった。

週に一度、シルヴァン先生の計らいで、三人で書庫にこもり、静かに読書をする時間。

高い天井まで届く本棚に、びっしりと並んだ古い書物。

革と紙の匂いが混じり合った、静かで、荘厳な空間。


先生は難解な魔法理論書を、そして私とお兄様は一緒に読むと約束した、王都で人気の『星屑の騎士と涙の姫君』というおとぎ話のページを、それぞれ静かにめくっていく。

聞こえるのは、紙の擦れる音と、窓から差し込む陽光に照らされた埃が、きらきらと舞う音だけ。


この空間から感じる心地よい安らぎに、私の意識はゆっくりと、穏やかな水面の下へと沈んでいく。

物語の文字が滲み、こくり、こくりと、私の頭は小さく揺れ始めた。

最後に感じたのは、隣に座るお兄様の肩の、確かな温もりだった。

夢と現の狭間で、遠くから声が聞こえる。

それは、お兄様の少し低くなった、落ち着いた声と、先生の優しく澄んだ声だった。


「……寝てしまいましたね」

「そうですね。毎日、本当に努力されておられましたから。お疲れなのでしょう」


心地よい声が、子守唄のように響く。

体がふわりと持ち上げられ、もっと温かい場所に優しく降ろされる感覚がした。

誰かの指が、私の髪を、慈しむように、そっと撫でる。

その手つきは、あまりにも優しくて、私の心は安心感で満たされていく。


「随分と、打ち解けられたようですね」

「!……ええ、ヴィオレッタの、おかげです」


お兄様の、少しだけ照れたような声。

聞いているだけで、私の口元まで緩んでしまいそうだった。


「そういえば先生。お伺いしたいことが」

「なんでしょう」

「そのピアスは……魔道具、ですか?」


魔道具……?

半分眠っている私の頭の中で、その言葉がゆっくりと反響する。


「……どのような効果があるのですか?」

「魔道具には様々な魔法を付与できますが、私のものには、魔力制御が付与されています」

「魔力制御……」

「ええ。私の魔力は非常に大きく扱いが難しいため、暴走を防ぐためにも付けているのです」


暴走を、防ぐ……。

その言葉に、眠っているはずの私の胸が、ちくりと痛んだ気がした。

お兄様が、どれほどそれを望んでいるか、痛いほど分かるから。


「それは……私にも、つけれるのでしょうか」


彼の、僅かな希望が滲む声。

聞いているのが辛くて、私はもっと深い眠りへと意識を沈めようとする。


「リアム様の魔法は特殊ですので」

「そうですか……作っていただくことも厳しいでしょうか」

「リアム様の魔法は口外禁止ですので難しいかと」

「そうですよね…ありがとうごさいます」


お兄様の声は意識がおぼろげな私にもわかるほどに沈んでいた。


「いえ、お力になれず申し訳ございません。付与魔法は所持してる者が少ないですが、過去にエピステーメ家にも何人か発現者がおりますので、今後作れる可能性はありますよ」

「!……では、気長に待つとします」


付与魔法。

その希望に満ちた響きに、私も嬉しくなって、心の底から安堵した。

大丈夫、お兄様は、きっと大丈夫。


「そろそろ時間ですね。ヴィオレッタ様を起こし───」


先生のその声が、私を現実へと引き戻す合図になった。

ゆっくりと意識が浮上し、私は温かい微睡みの中で、ゆっくりと目を開けようとした。

その、瞬間だった。

体の内側から、何かが強く圧迫されるような、激しい苦しみが私を襲った。


(……痛い……くるしい……っ)


心臓を直接鷲掴みにされ、無理やり握り潰されるかのようだった。

息ができない。

熱いのか寒いのかも分からず、ただ全身の血が逆流するような不快感と、内側から破裂しそうな圧迫感だけが、私の意識を支配する。

夢であってほしいと願うのに、痛みはあまりにも鮮明だった。


「「?!」」


私を覗き込んでいた二人が、同時に息を呑む気配がした。

穏やかだった空気が、一瞬にして凍り付く。


「ヴィオレッタ?!」


私の名を呼ぶお兄様の声は、驚愕と、そして焦りに満ちた叫び声に変わっていた。

かろうじて開いた瞼の隙間から、血の気の引いたお兄様の顔と、眉根を寄せたシルヴァン先生の真剣な表情が見える。


「う……ぁ……」


助けを求めたいのに、喉が引き攣れて声にならない。体が意思とは無関係に小刻みに震え、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

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