25 始まりの温もり
重い体を起こしながら朝日の差し込む窓を見る。
昨夜あんな出来事があったからか、体の疲れが抜けていない。
まだ覚醒しきれていない脳に昨夜の庭園での出来事が浮かぶ。
起きたばかりだからか。
それともあまりにも非日常的な出来事であったからか。
昨夜のすべてが、夢のように感じる。
しかし、あの時決めた私の生き方が、心の中で静かに燃え、現実だと伝えてくれる。
これまでの私は、ただ平穏に生きたいと、前世の二の舞になることだけを恐れて生きてきた。
けれど、これからは違う。
こんな私の傍に居てくれる人ができた。
私にも、その人のために何かできることがあった。
これからはお兄様の穏やかな日常も守りたい。
お兄様が幸せであって欲しい。
「お兄様はもう起きて来られたかしら」
お兄様にあったら笑顔で挨拶をしよう。
そしたらきっと、微笑みながら挨拶を返してくれるはずだわ。
そんな姿を想像していると自然と口角が上がってしまっていた。
「お嬢様、朝食の準備ができております」
リアの声にハッとする。
(は、恥ずかしい…!1人で笑っていて変に思われなかったかしら。)
内心恥ずかしくて顔を隠したい気持ちを抑えて、平然を装う。
「ええ、すぐに行くわ。お兄様は、もう食堂に?」
「それが……リアム様は、先ほど旦那様がお呼びになったので、執務室へ向かわれました」
その言葉に、私の心臓がきゅうっと縮こまる。
「…お父様が?」
お父様は優しいけれど、家の当主として、昨夜のことは決して見過ごせないはずだ。
どんなお咎めを受けるのだろうか。
お兄様は何も悪くないのに…
誰も傷つけてないわ。
「……少し、様子を見てくるわ」
そう侍女に告げて、私はお父様の執務室へ歩き始める。
重厚な扉の前で、私は足を止めた。
中から声は聞こえない。
それがかえって不安を煽り、扉の前でただ立ち尽くす。
どれくらいの時間が経っただろうか。
心が落ち着かない。
すると、不意に扉が内側から静かに開かれた。
「……お兄様!」
出てきたのは、リアムお兄様だった。
私は息を呑んで、彼の表情を食い入るように見つめる。
罰せられたのだろうか。
傷ついた顔をしてはいないだろうか。
私の視線に気づいたお兄様は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔に、私が恐れていた表情はなかった。
そこに浮かんでいたのは、完璧な仮面でもない、ただ、少しだけ困ったような、不器用な……けれど、紛れもなく本物の表情だった。
「大丈夫でしたか……?」
思わず駆け寄って尋ねると、お兄様は一瞬驚いたように目を見開く。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……あぁ。大丈夫だ」
お兄様のその一言で、私の心は温かいもので満たされた。
その温かさを噛み締めていると、背後で再び扉が開く音がした。
執務室から灰色の髪の男性が出てくる。
予期せぬ再会に、驚きと喜びで声が上ずる。
「シルヴァン先生……!どうしてここに……?!」
数か月間ずっと会いたいと思っていた人が、今、目の前にいる。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
「お久しぶりです、ヴィオレッタ様。お元気そうで何よりです」
穏やかで、懐かしい声。
いつだって先生の声は私に安心感を与えてくれる。
先生は私の様子に優しく微笑むと、隣のリアムお兄様へ向き直った。
「先ほど公爵閣下からもお話がありましたが、これからはリアム様の家庭教師も務めさせていただきます。お二人を指導できること、光栄に思います」
「えっ、お兄様の家庭教師にも……?」
「はい、またよろしくお願いします。」
それは、望外の幸運だった。
信頼できるこの先生が、これからはお兄様のそばにもいてくださる。
これほど心強いことはない。
ふとお兄様を見ると、安堵と喜びでいっぱいの私とは裏腹に、静かに先生を観察するように見つめるお兄様。
(今日初めて先生と会っているから警戒するのも仕方ないわね。でも一緒に過ごしていけば、先生がどれほど信用できる人かわかるはずだわ)
そんなことを考えている間にお兄様と先生は何やら少し会話をしていたようだ。
私もその会話に入り、いくつか世間話をした。
やがてシルヴァン先生が「では、私はこれで失礼します」と、優雅な一礼を残して去っていく。
再び二人きりになった廊下で、私は向き直り、決意を込めてお兄様の瞳をまっすぐに見つめた。
「お兄様」
私の真剣な声に、彼が少しだけ身構えるのが分かった。
「これから何があっても、私がそばにいます。お兄様は、もう一人ではありませんから」
何の力も持たない私の、精一杯の宣言だった。
けれど、その言葉は、確かに彼に届いたようだった。
お兄様は、驚きに大きく目を見開いたまま、動かない。
やがて、何か言葉にならない感情を噛み締めるように小さく。
しかし、はっきりと一度だけ頷いた。
その反応に、私は自分たちの間に確かな絆が生まれたのだということを、改めて実感した。
守りたい日常、たった一人の兄、信頼できる先生がいる。
未来はまだ不確かだけれど、もう孤独ではない。
私の心に、未来へ向かう静かで力強い決意の光が灯っていた。
♢
あの日から数日後。
私とお兄様は、シルヴァン先生に連れられて、屋敷の裏手にある訓練場に来ていた。
「今日は、魔法の最も基本的な技術である、『集束』の訓練をしていただきます」
シルヴァン先生の穏やかな声が、心地よい風に乗って響く。
「リアム様。まずは、ご自身の内にある魔力を感じ、それを指先にほんの少しだけ集めることを意識してみてください。ほんの小さな光の粒を一つ、作り出すイメージです。目的は、強力な魔法を放つことではありません。今は、その強大な力を、意のままに動かすための第一歩です」
先生の言葉に、お兄様はこくりと頷く。
その表情は、私がこれまで見たことがないほど真剣で、どこか張り詰めていた。
彼はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸う。
その場の空気が、ぴり、と緊張するのが肌で分かった。
一分、二分……。
お兄様の額に、じわりと汗が滲む。
ぎゅっと固く握られた拳は、小刻みに震えていた。
魔力を制御するというのは、荒れ狂う嵐を針の穴に通すような難しさなのかもしれない。
「……っ」
お兄様の指先に、一瞬眩い光が閃光のように迸り、そしてすぐに弾けて消えた。
ほんの一瞬だったけれど、空気がびりりと震えるほどの、強大な力の片鱗。
「……すみません」
「いえ。焦る必要はありませんよ。リアム様。今はその力と対話し、友になる術を学ぶ時間ですから」
先生の言葉はどこまでも優しい。
けれど、お兄様の表情は、悔しそうに固くこわばったままだった。
その時、先生がふと私の方を向いた。
「ヴィオレッタ様も、試してみますか?」
「えっ、私ですか?私はまだ、魔力なんて……」
「エピステーメ家の血を引く貴方の中にも、魔力は確かに流れているはずです。今はそれを感じられなくとも、いずれ芽吹くかもしれません。目を閉じて、ご自身の心臓の音を聞くように、静かに、内なる流れを感じてみてください」
促されるまま、私はお兄様の隣でそっと目を閉じた。
(内なる流れ……)
先生に言われた通りに意識を集中させる。
自分の内側は、静まり返っていて何も感じない。
けれど、隣にいるお兄様からは、まるで嵐の前の静けさのような、膨大な力の『気配』だけが、ひしひしと伝わってきた。
(これが、魔力というものなのかしら)
私がそんなことを考えていると、隣で、ふっとお兄様の気配が変わった。
目を開けると、彼の掌の上に蛍のようにか弱く、小さな光が一つ灯っていた。
それは一瞬またたいて、すぐにふっと消えてしまったけれど、間違いなく彼が自らの意思で制御した光だった。
「……まあ!お兄様、今……!」
思わず、私が歓声を上げる。
その声に、お兄様は驚いたように私を見る。
そして、何も灯っていない自分の掌を見て、信じられないというように目を瞬かせた。
彼の口元がわずかに、本当にわずかに緩む。
それは、仮面ではない、彼の心からの照れたような、嬉しいような、はにかんだ微笑みだった。
お兄様のその小さな成功と、それを見て心から嬉しそうな私。
そんな2人を、シルヴァン先生は穏やかな微笑みで見つめていた。




