24 リアム視点 4
嵐が過ぎ去った翌朝の光は、不思議なほど穏やかだった。
部屋に差し込む陽光が、埃をきらきらと照らし出す。
昨日まで、私の目に映る世界はすべて均一な灰色だったはずなのに、今朝はなぜか、窓の外の木々の緑が、空の青が、僅かに色を帯びて見えた。
昨夜の出来事を、ぼんやりと反芻する。
自分の魔力が暴走する、あの地獄のような感覚。
そして、その奔流の中心で私を抱きしめた、ヴィオレッタの温もり。
声を上げて泣きじゃくり、彼女の肩を濡らした、あの涙の熱さ。
何もかもが、まだ肌に、心の奥に、生々しく残っている。
それは安らぎと呼ぶにはあまりに程遠く、けれど、長年私を苛んできた虚無とは明らかに違う、確かな手触りのある感情だった。
「……リアム様」
思考を遮ったのは、侍従の控えめな声だった。
扉の向こうに立つ彼の気配からは、私に対する恐怖が滲んでいるのが分かる。
「旦那様が、執務室にてお待ちです」
心のどこかで覚悟していたその言葉に、私は静かに頷いた。
あの騒ぎだ。
何事もなく済むはずがない。
罰せられるのか、それとも、再びあの冷たい石の部屋へ送られるのか。
古い恐怖が蘇り、無意識に完璧な『兄』の仮面を被ろうとする。
だが、不思議とそれは上手くはまらなかった。
昨夜の涙が、仮面を溶かしてしまったかのように、ひどく居心地が悪い。
私は静かに立ち上がり、父が待つ部屋へと向かった。
♢
執務室の空気は、予想通り氷のように冷え切っていた。
部屋の主である父は、執務机の向こうで書類に目を通したまま、私が入室しても顔を上げようともしない。
その無関心が、何よりも雄弁に私という存在への価値を物語っていた。
沈黙が、私の心をじわじわと締め付ける。
「昨夜の騒ぎはなんだ」
やがて放たれた声は、怒りも失望も含まない。
ただ事実を確認するだけの無機質な響きだった。
「私の力が、暴走しました」
「そうだろうな」
父はそれきり再び沈黙し、ペンを走らせる音だけが室内に響く。
私は、次にどんな断罪の言葉が下されるのかと、ただ息を殺して待った。
「ヴィオレッタが、お前の暴走を止めたそうだな」
不意に、父が顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、驚くべきことに、私への詰問の色ではなかった。
新たな『駒』の使い道を見出したかのような、冷徹な探究心の色だった。
「何があった」
「……分かりません。ただ……ヴィオレッタが、そばにいて私を抱きしめてくれました」
「そうか」
父は納得したように頷くと、椅子に深く背を預けた。
「リアム。お前をこの家に迎えたのは、エピステーメ家の次期当主とするためだ。だが、昨夜の様子を見て確信した。今のままでは、当主どころか、ただの災厄だ。お前のその力は、エピステーメ家にとって諸刃の剣だ。正しく使えば比類なき力となるが、一歩間違えれば、すべてを滅ぼす災厄となる」
冷たい言葉が、刃のように突き刺さる。
(知っている…その災厄で、私は母を殺してしまったのだから)
込み上げる苦い感情を押し殺すように、無意識に視線が下を向く。
「エピステーメ家の当主たる者、己の力も制御できないなど論外だ。お前のその力は、正しく制御してこそ意味を成す。だが、目的がなければ制御するのも苦しいだろう。その力に役割を与えてやる。」
「役割…ですか?」
「そうだ。お前の力は、ヴィオレッタを守るために使え。ヴィオレッタは、いずれ王家に嫁ぐ身。あらゆる政敵や災いから、お前が盾となって守護するのだ。盾が、己の感情で内側から砕け散っては話にならん」
ヴィオレッタを守るため。
その言葉に、私は僅かに目を見開いた。
(やはり、父上は家の利益を最優先に考えている。ヴィオレッタの価値もヴィオレッタを守り、次期当主となる私の価値も全てが天秤の上にある。しかし、罰せられるどころか、力を制御する機会と正確な役割を与えられるとは。予想していたよりも、ずっと…寛大な処置だ)
「父上の仰る通りに」
私が静かに頭を下げると、父は満足げに頷き、告げた。
「そのための家庭教師をつける。シルヴァン伯爵だ」
「……!」
(シルヴァン伯爵…ヴィオレッタと同じ家庭教師だ…!)
驚きに目を見開く私に、父は構わず続けた。
「彼がお前の力を解析し、制御する方法を見出してくださるだろう。家の利益のために、お前は伯爵の指導にすべて従うように。いいな」
その言葉に、私が返事をするよりも早く。
部屋に入室の許可を求めるノックの音が響いた。
「どうぞ」
父が応じると、背後の扉が静かに開かれた。
「失礼いたします」
穏やかで、しかし底知れない深みを感じさせる声。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
物語から抜け出てきたかのような、美しい容貌の男性。
「紹介しよう。シルヴァン伯爵だ。」
「お初にお目にかかります。リアム様の家庭教師も務めさせていただくことになりました。アッシュ・シルヴァンでございます。これからどうぞよろしくお願いいたします。」
彼は私に挨拶をしながら、優雅にほほ笑んだ・
ヴィオレッタの家庭教師でもあるシルヴァン伯爵。
その功績や人徳は、私の耳にも入るほどだ。
「リアム・エピステーメです。ご指導のほどよろしくお願いいたします。」
これまで通りの完璧な笑顔を浮かべる私を見て、シルヴァン伯爵は優しい微笑みを深めた。
そのルビーのような瞳に吸い込まれそうになっていると、『話は以上だ』と父に促され、私は執務室を後にした。
父上からの処罰がなかった安堵、そしてシルヴァン伯爵という新たな家庭教師の出現に、これから始まるであろう未来への漠然とした不安が胸の中で渦を巻く。
扉を閉めた瞬間、廊下の冷たい空気が、少しだけ心地よく感じられた。
その時だった。
「お兄様……!」
執務室の扉のすぐ傍で、ヴィオレッタが心配そうに立ち尽くしていた。
その顔には、私が父に厳しく叱責されるのではないかという不安が、ありありと浮かんでいる。
(彼女が、私のために…)
そう思うだけで、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような、温かいような、不思議な感覚に襲われた。
「大丈夫でしたか……?」
駆け寄ってくる彼女の真っ直ぐな瞳を見て、私は気づく。
今、被るべき仮面など持っていないことに。
だから、ただ、ありのままに答えた。
「……あぁ。大丈夫だ」
完璧な笑顔ではない。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた、不器用な表情。
けれど、それは紛れもなく、私の本心からの表情だった。
そんな私を見て、ヴィオレッタの表情がぱっと安堵に緩む。
その顔を見て、私の心もほんの少し軽くなった気がした。
二人の間に、ぎこちないけれど、確かな温かさを持った空気が流れた、その瞬間。
背後で、再び静かに執務室の扉が開いた。
私たちが振り返ると、そこにはシルヴァン伯爵が立っていた。
ヴィオレッタの目が、彼を捉えて大きく見開かれる。
驚き、そして次の瞬間には、心からの安堵と信頼を込めた輝きが宿った。
「シルヴァン先生……!どうしてここに……?!」
その声は弾み、彼女の表情は、花が綻ぶように華やいでいた。
私は、その光景に息を呑んだ。
妹が、自分以外の人間に、こんなにも心を許したような、無防備で、安心しきった顔を向けるのを、初めて見た。
言葉にならない驚きと、胸の奥がちりりと焼けるような、複雑な感情が湧き上がる。
しかし、それと同時にヴィオレッタがあれだけ称賛していたシルヴァン伯爵の授業を受けられることに、期待している自分もいた。
楽しげに言葉を交わす二人を見て、心に誓う。
この穏やかな日常が脅かされないように。
ヴィオレッタがいつまでも笑顔でいられるように。
そのために、私は強くなろう、と。




