19 共鳴する心 1
部屋に戻っても心のざわつきはまだ収まっていなかった。
窓辺の椅子に腰を下ろし、外を眺める。
窓の外では、いつもと変わらず、鳥が木に止まり、蝶がひらひらと舞っている。
あまりにも普通の光景。
その光景が、まるで何事もなかったかのように振る舞うお兄様と重なり、胸が締め付けられる。
「……リア」
そっと声をかけると、侍女が静かに扉を開けて入ってきた。
「はい、お嬢様」
「……お兄様って……」
そう言いかけた瞬間、喉が詰まり、言葉が続かなかった。
お兄様のあの顔、あの沈黙、冷えきった空気。
言葉にしてしまえば、あの時に感じた全てが、現実のものとして確立されてしまう気がした。
尋ねてはいけない場所に足を踏み入れてしまったような罪悪感が私を支配する。
「……なんでもないの。ありがとう」
「かしこまりました」
リアは深く頭を下げ、静かに部屋を後にした。
置いて行かれたティーカップからは、まだ紅茶の湯気がゆらりと揺れている。
その柔らかな香りが、かえって私の心のざわめきを際立たせるようだった。
「お兄様……あなたの心の奥には、どれほどの孤独が眠っているの……?」
窓の外に目を向けたまま、思考の渦に沈んでいく。
お兄様の瞳の奥に見た『何かを必死に思い出そうともがき苦しんでいるような切実さ』や『孤独感』は、まるで自分自身のことのように胸を締め付けられた。
他人のものとは思えないほど、強く、深く、その痛みが共鳴する。
その瞬間、凍り付いていた記憶の扉が、ゆっくりと開かれていく。
───薄暗い部屋の片隅で、ただ一人、冷たくなったお母様の手を握りしめ、泣きじゃくる幼い私。
その小さな肩は震え、途切れ途切れの嗚咽が、重苦しい空気に吸い込まれていく。
そんな私に寄り添い、抱きしめてくれる人は誰もいなかった。
凍えるような孤独が、幼い私の心を蝕んでいく。
死の匂いと、僅かな埃の香りが混じり合い、鼻腔を焼いた。
「お母様…起きて…?ねぇ、起きてよ…」
懇願にも似た、切実な願い。
何度も、何度も、その名前を呼んだ。
しかし、動かなくなったお母様は、部屋に響く私の悲痛な声に応えてくれることはなかった。
温かく安心を与えてくれるはずの手は、石のように冷たい。
その現実が、幼い心に突き刺さる。
私は、壊れた人形のように力なくお母様の傍に座り込み、ただただ震えていた。
頬には、乾いた涙の痕が張り付いている。
「どうして…どうして私を置いていくの…」
世界に取り残されたような、孤独。
それは黒い絵の具のように私の心を染め上げ、光を失わせていく。
閉ざされた部屋にはどこからか冷たい風が吹き抜け、肌を粟立たせた。
その冷たさは、どこか冷静さを取り戻させるように私に纏わりつく。
やがて私は、涙を流すことを止めた。
枯れ果てたわけではない。
ただ、泣いても、願っても、母親は二度と起きてはくれないと、幼いながらに、残酷な真実を理解してしまったから。
悲しみは、諦めへと姿を変え、心の奥深くに沈んでいく。
「みんな居なくなっていく…もう嫌…」
諦めと深い悲しみ。
そして、独りは嫌だという、強い願望。
心が強い感情に包まれた瞬間、部屋の空気が震えた。
まるで、私の感情が、物理的な波紋となって広がったかのようだった───
肌を刺すような冷気を感じ、はっと現実に引き戻される。
心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと耳の奥で激しく鳴り響く。
呼吸は浅く、呼吸の仕方を忘れたかの様だった。
「…いまの、なに…?」
胸の奥で何かがざわついた。
息苦しいほどの感情が、心臓をぎゅっと握りつぶすように広がっていく。
ひどく寒い。
肌が粟立ち、体の芯まで凍えるような感覚がする。
(この冷気は…現実だったの?)
部屋を見渡すが、窓は閉まっているし、外は穏やかに晴れている。
ならば、この身を震わせるような冷気は、どこからきているのだろうか。
(でも、この感じ…庭園の時も感じたような…)
困惑していると部屋の外が騒がしいことに気づいた。
普段は耳にしない、慌ただしい使用人たちの足音が、扉の向こうから聞こえてくる。
ざわめきと共に、使用人たちが動揺しているような、かすかな声が聞こえる。
(あ…これ、さっきお兄様から感じたものと一緒だわ)
思考が1つに繋がった瞬間、全身に戦慄が走る。
背筋に氷の矢が突き刺さったように冷たいものが走り抜けた。
「まさか…」
思わず立ち上がった時だった。
ギギィィィィ
扉の向こうで、何かが軋むような嫌な音がした。
まるで、古い木が無理やり捻じ曲げられるような、重く鈍い音。
そしてその直後、けたたましい音が屋敷全体を揺らした。
何かが、大きな音を立てて砕けるような、破壊の音。
そのすべてがお兄様の部屋の方から響いている。
「お兄様…?」
全身を、途方もない不安が駆け上がる。
この冷たい何かの気配。
あの破壊音。
お兄様に何かが起きている…?
ただ事ではない、そんな予感が確信に変わり、ヴィオレッタは部屋から駆け出た。
心臓が張り裂けそうなほどに脈打つ。
足がもつれそうになるのを必死に堪えてお兄様の部屋の方へ走った。
彼女の胸には、恐怖と兄の身を案じる、強い焦りが渦巻いていた。