15 灰色の瞳の兄 1
あの悪夢のような誘拐事件から数日、自室での療養を続けていたヴィオレッタの心は、未だ嵐の只中にあった。
窓の外の穏やかな陽光とは裏腹に、忽然と消えた犯人たちの影と、私を救い出してくれたシルヴァン先生の温もりが交互に胸を締め付ける。
(先生の捜査は進んでいるのだろうか……)
ぼんやりと窓枠に視線を投げながら、無意識に先生のことを考えてしまう自分に、ヴィオレッタは小さく息をついた。
事件の真相究明には先生の力が必要不可欠だと分かっている。
しかし、今はただ安静にするようにとお父様に命じられているため、もどかしい日々を過ごしていた。
そんなある朝、侍女のリアがいつもより少し緊張した面持ちで部屋に入ってきた。
「お嬢様、おはようございます。本日は…その、お客様がいらっしゃいます」
「お客様…? ああ、そうだったわね」
ヴィオレッタは軽く頷いた。
お父様から事前に聞かされていた、今日、エピステーメ侯爵家に養子がやってくるという事実を思い出す。
王子妃候補に選ばれた自分に代わり、この家を継ぐための存在。
(お兄様が、できるのね……)
素直な喜びが胸に広がる。
一人っ子だったヴィオレッタにとって、「兄」という存在は未知であり、憧れでもあった。
けれど、その喜びのすぐ裏側には、言いようのない不安が影のように寄り添っていた。
前世の記憶を取り戻す以前の自分は、養子を取るかもしれないと聞かされた時、ただただ恐怖に打ち震えていた。
自分は用済みになり、この家から捨てられてしまうのではないかと。
あの頃の孤独と絶望感が、ふとした瞬間に胸をよぎる。
(正直、今もまだ少し怖い。けれど、新しいお兄様と仲良くなれば、きっと……もっと、私を気にかけてくれる人が増えるはずだわ)
そう信じようとしても、心のどこかで小さな棘がちくりと刺さるのを感じていた。
♢
昼過ぎ、お父様に呼ばれて階下の応接室へ向かうと、そこには一人の少年が立っていた。
年の頃はヴィオレッタより二つほど上だろうか。艶やかな紫色の髪が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。
そして、こちらを見つめる瞳は、どこか深淵を覗き込むような、静かな灰色をしていた。
「紹介しよう、ヴィオレッタ。今日からお前の兄になる、リアムだ」
お父様の言葉に、リアムと名乗った少年は優雅に一礼した。
「リアムと申します。ヴィオレッタ嬢、お初にお目にかかります。これからは兄として、未熟ながらもお力になれるよう努めますので、どうぞよろしくお願いいたします」
その声は落ち着いていて、どこか大人びた響きを持っていた。
「ヴィオレッタですわ。リアム…兄様。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
緊張しながらも、ヴィオレッタは精一杯の笑顔で応じた。
「兄様」という言葉が、自分の口から出たことに少し照れくささを感じながらも、温かいものが胸に込み上げてくる。
リアムお兄様は穏やかに微笑んでいる。
しかし、その灰色の瞳の奥には、感情の揺らぎが一切見えない。
まるで、精巧に作られた仮面を被っているかのようだ。
(この方が、新しいお兄様……)
ヴィオレッタはリアムを見つめた。
彼もまた、貴族社会の複雑な事情の中で、このエピステーメ侯爵家にやってきたのだろう。
リアムはヴィオレッタからの視線に気づいたのか、人懐こい笑みを浮かべた。
「ヴィオレッタ嬢は、苺がお好きだと伺いました。もしよろしければ、今度一緒に街へ出て、美味しい苺のお菓子でも探しに行きませんか?」
「まあ、本当ですか、お兄様!嬉しいですわ!」
思いがけない誘いに、ヴィオレッタの顔がぱっと華やぐ。
(一度、誰かと一緒に街を見て周ってみたいと思っていたのよね!)
これまでは、街に出かけても侍女や護衛騎士とカフェで過ごすことが多かった。
といっても、そもそも数える程しか外に行ったことがないのだけれど。
それも、お母様の用事に付いて行っているだけだ。
(お兄様が居れば、誰かと街で過ごすことができるのね……!)
ヴィオレッタはますます兄との外出に心躍らせていた。
その日の午後、お父様からリアム兄様が魔法の心得があると聞かされた。
「リアムはなかなかの魔力の持ち主でな。いずれはお前や、この家を守る力にもなってくれるだろう」
「魔法……!」
ヴィオレッタの目に期待の色が浮かぶ。
シルヴァン先生も優れた魔法の使い手だった。
兄となる人も魔法が使えるのなら、何か困ったときに頼りになるかもしれない。
♢
夜、自室のベッドの中で、ヴィオレッタは今日の出来事を反芻していた。
リアムお兄様は、優しくて、素敵な人だった。
時折見せる灰色の瞳の奥の静けさが、少し気にかかるが、これから時間をかけて、少しずつ本当の兄妹のようになっていければ良い。
(リアム兄様も魔法をお使いになるのなら、シルヴァン先生の授業をご一緒できたら、きっと素晴らしいわ。先生の魔法理論はとても興味深いもの。お兄様もきっとお喜びになるはずだわ)
ヴィオレッタは、新しいお兄様と共にシルヴァン先生の指導を受ける日を想像し、胸をときめかせた。
早く療養を終えて、またあのわくわくするような授業を受けたい。
そして、お兄様とその楽しさを分かち合いたい。
そんな期待に胸を膨らませていた。
しかし、ヴィオレッタのそんなささやかな期待とは裏腹に、シルヴァン先生がエピステーメ侯爵家を訪れることはなかった。
一日、また一日と何事もなく過ぎてく。
リアム兄様がこの家に来て、少しずつ新しい生活に慣れ始めた頃には、季節は移ろい、いつの間にか二か月という月日が流れていた。
その間、シルヴァン先生からの連絡は一切なく、もちろん授業も再開されることはなかった。
「シルヴァン先生……どうしてしまわれたのかしら……」
日に日にヴィオレッタの不安は募るばかりだった。
あの誘拐事件の後、先生が犯人を追って危険な目にでも遭われたのではないか。
そんな不吉な考えが再び頭をよぎる。
心配になってお父様に尋ねてみても、「シルヴァン伯爵は、現在王家直属の騎士団と共に極秘の重要な任務に就いておられると聞いている。詳しいことは、私にすら知らされていないのだ」という、どこか歯切れの悪い返答が返ってくるだけだった。
先生の突然の不在は、未だ解決の糸口すら見えない誘拐事件の暗い影と重なり、ヴィオレッタの心をじわじわと蝕んでいく。
窓の外は変わらず静かな午後が広がっている。
けれど、かつて確かにそこにあったはずの日常が少しづつ姿を変えている。
得体の知れない不安が、より明確になって彼女を襲っていた。