序章#1
これからあなたがご覧になるのは、前日譚となる物語です。
まるで、大きな生物の体の中にいるみたいだなと、私は思った。
一介の旅商人でしかない私は、その奇妙な光景を前に立ち尽くしていた。
碧色の海を進むこと数日。私は、慣れない船旅で船酔いでもしたのだろうかと、自分の目を疑わずにはいられなかった。
深い青色に澄み渡る空に剣を突き立てるかのように、いくつのもの白い摩天楼が高くそびえ立っている。それはまるで、何かの監視塔のように私たちを見下ろしているようだった。
「あの塔は、一体…」
私のつぶやきを耳にしたのか、波の音の合間を縫うように、目の前に立つひとりの男は、すり減ったようなしゃがれた声で答えた。
「あれは俺達グラナイのご先祖様で、棲む場所と豊かさを恵んでくれているんだよ。あの国のヤツはみな、言葉より先に覚えることさ。」
そう口にしたのはこのキャラベル船の船頭だった。その痩せ型の男は、一対の真っ黒な角と、黒く艶かしい尻尾を生やしていた。
「―――先祖…ですか、面白いですね。まるで合言葉とか、隠語みたいだ。」
「あの国に初めて行くヤツはみな、決まってそう言うんだ。」
私たちを乗せたキャラベル船は、徐々にその摩天楼めがけて速度をあげていった。近づくにつれ、その白い巨塔の大きさを目や肌で実感してもなお、やはり幻覚や見間違いではないのかと疑わざるを得ない。
もう見上げることすらままならないほどの高さにそびえる塔の横を、船はぬらりと波と風に身を任せて通過していく。
その白い塔の間をゲートのように通過すれば、遠く水平線に浮かんでいた目的地はもう目の前だ。
時刻は正午、心臓に直接響くような鐘の音が遠く聞こえた。
船頭はキャラベル船を岸壁に留めると、突起にロープを巻きつけるように慣れた手付きで固定した。
やがて、波に揺れた船が落ち着くと、穏やかな波の音を掻き消すように、商人の私には聞き慣れた、鬱陶しくも恋しかった賑わいが聞こえてくる。
船が留まっている岸壁の向こうに目をやると、オレンジ色の屋根の街が足元に広がる水面に乱反射して、街全体をキラキラと照らし出していた。
その光景は、訪れた旅人にこの国の活気を目で見えるように誇示しているようにも思えるほどだった。
その光景に見惚れてしまったのか、それともこの場所に立ち入ってしまったことがそうさせたのか。先ほどまで思考をめぐらせていた白い塔のことについて、私は自然と考えるのをやめていた。
「ご苦労さん。ホラ、到着だ。」
そう言って船頭は波に揺れて足元のおぼつかない私を橋の上に力強く引き上げると、きっと言い慣れたであろう、お決まりの言葉を続けた。
「竜に抱かれた国、リュッケンハルト橋国へようこそ。」
石のレンガを踏みしめ、眩しさの原因を探すように空を見る。
太陽に照らされて直視できないほどに輝く白い摩天楼は、新天地に浮き足立つ私の足元に、暗く黒く焼き付けるように大きな影を落としていた。
リュッケンハルト橋国。
大陸から少し離れた海の中心にぽつりと存在するこの島国は、様々な場所からあらゆる人やものが集まる貿易大国として知られている。
しかしながら、こういった話はいつも二の次に語られる。なぜなら、この国について語る者は、そのあまりにも特異な見た目と文化ついて最初に語らずにはいられないからだ。
この国に降り立ったものは誰であれ、はじめに教会へ立ち寄らなければならない。義務ではないけれど、教会は通行許可証の発行や通貨の交換なども行っており、つまりはこの国での生活のスタートラインと呼べる場所だ。
教会には信心深い信徒の他にも多くの人が訪れていて、例に漏れず、私自身もこの国で最も大きな教会へと立ち寄ることになった。
外観から伺えた建築の精巧さや美しさに加え、その計算され尽くした内部は、芸術のわからない私の曲がった背筋を自然と矯正していった。
小綺麗で慣れない場所に居心地の悪さを感じて、用を済ませたら早々にその教会を去ろうとした私の足は、ふと何かの罠に捕まったかのようにぴたりと止まった。
私の足を止めたのは、教会内部を神話的に彩色するステンドグラスだった。そうして偶然にも、私はそこに、あのキャラベル船で巡らせていた思考の答えを見た。
はじめ 空がうまれました
つぎに 海がうまれました
さいごに 空は海へとおちました
海はかさをまして 空は新たな陸になり
陸はやがて 無数の星をまねきました
やがて 無数の星は ふたたび空へとかえるのです
ステンドグラス越しに注がれている光はまるで、神話の一幕を体験させるかのようだった。
そこには、この国の成り立ちを示す図と詩が描かれていた。その内容はリュッケンハルト橋国に馴染みのない私からすれば、作り物のお伽噺だとしか思えないようなものだった。
しかしながら、そのステンドグラスの物語が疑いようの無い真実だと思い改めるまで、そう時間を要さなかった。なぜなら、私が足を踏み入れたリュッケンハルトという土地そのものと生活が、既にお伽噺のような出来事で満ち満ちていたからだ。
私はこのお伽噺のような国での出来事を、故国に待つ息子に語り聞かせるために、こうして余さず手記に書き記すことにした。
手始めに2つ、この不可解で、不気味で、そして神秘的なこの国の事情を記すとしよう。
耳を疑ったこの国のお話を、果たして息子は信じてくれるだろうか。
ひとつ。この国に上陸してから数日、あらゆる場所を巡っても、どこにでもあるような山や野や川を目にしたことは無かった。足元には石畳が、いや石橋が永遠と続いている。初めに教会で買ったこの国の地図を見て、私はようやく理解した。
リュッケンハルト橋国はその名の通り、国土すべてがいくつもの石橋で組み上げられた、言わば要塞のような国である。
橋の上に橋が建ち、その橋を跨ぐように橋が建つ。この国はまるで、立体的な蜘蛛の巣のようだった。
私はこの国が石橋を積み上げてできた国だと知ったとき、あるひとつの疑問に思い至った。
「最も深く、最も古い橋は、なんの上に建っているのだろうか。」と。
ここは海の中心だ。水の深さを考えれば、海底から石を積み上げて土地を作るなど非現実的だ。
あれやこれやとさまざまな思考を巡らせる私の目に映ったのは、ここに来てから何度もこの目で見てきた、あの白い摩天楼だった。
私の脳内にひとつ、身震いするような仮説が浮かんだ。
リュッケンハルト全体を包み込むように空高くそびえる、12本の真っ白な”巨塔”。私がこの国で初めに見た、見上げるのも一苦労なその摩天楼。
思えば、人は口を揃えてあの塔を、こう呼称していた。
「ご先祖」あるいは、
「竜」と。
「ハハ、竜…ですか。この国には、そんなおとぎ話のような怪物もいるのですか?」
私は決まってそう尋ねる。だが、そこから返ってくる答えはいつも同じだった。今日私の店に訪れたその男も、あの白い巨塔を指差しながら全く同じ答えを口にした。
「竜の姿ってのは誰も見たことが無いが、竜がいたことは確かさ。だって、その亡骸がここにあるのだから。」
私が幾度となく見たそれ、それの正体はこの人工的に作られた国で唯一の自然物だった。
それは、あまりにも巨大な『骨』。
この”死体”の上に石橋が建ち、その上に街が建ち、そして今、こうして人が生を営んでいる。
この国は文字通り、ぽつりと海に浮かんだ、大きな大きな竜の死体の上に成り立っていた。
私とて、そのような話を無条件に信じるほど、いち商人としての人生は劇的なものでも、幻想的なものでもなかった。
ただ、この時に限ってはその男の言葉を信じざるを得なかった。なぜなら、そう話す男の頭部にはいつかの船頭と同じ、一対の黒い角が生々しく光って、その服の下には爬虫類のような尻尾が垂れていたからだ。
そして何よりこの国で、そんな異質な姿をしていたのはここにいる男だけではなかった。
街を取り囲む白い巨骨とは対照的に、頭の側面から一対の黒く輝く角を生やし、腰から艶かしい尻尾をぶら下げた「グラナイ」と呼ばれる種族が、古くから人間とともに、ここリュッケンハルトで暮らしている。
割合にして半数程度の人間が角や尻尾を携えて生きている光景はどこか神話的で、見慣れない私には少し不気味だった。
この国には人間ではない種族が、人間とともに、人間のように暮らしている。
そしてこの国の中心には、その異種族であるグラナイのみで構成された公共機関である「カセドラル」が居を構えていた。
このカセドラルは言わば、リュッケンハルト橋国を運営する国家である。
行政、交易、宗教、治安に至るまで、この国のあらゆる物事を管轄していて、このカセドラルのお陰で、私たち商人は自由に交易をすることができるのだそうだ。
つまりはこの国では、私たち人間側のほうがイレギュラーであり、彼らグラナイこそが生活の中心だということだ。
と、ここまで筆を滑らせて思う。息子はきっとこの旅の話を胸踊らせて聞いてくれるだろうと。ただしそれは私の体験談などではなく、ひとつの出来の良いお伽噺として、だ。
手記をぱたりと閉じる。陽はすでに完全に落ちて、天井の灯りがゆらゆらとグラスの中の酒を照らしている。
この国に来たのはなにも、こうして謎解きがしたかったわけでも、息子のために日記を書くためでもないのだから。椅子から立ち、ベッドに座る。枕の横に置かれた一冊の本を手に取った。
本に血液が流れるように、一瞬、淡く光って消えた。
翌日。簡単な荷物と一冊の本を手に宿を出る。
カセドラルが居を構える中央橋は、たくさんの人やものが行き交う、リュッケンハルトで最も活気のある場所だ。今日も魚や編物、本や魔術的な素材、そして人。それらを取引する人間とグラナイが、荒波の如く流れていく。
この場所は宝物庫のようにさまざまなもので溢れ、今日もまばゆい賑わいを見せていた。
そうして賑わう中央橋から外れ、喧騒が山彦のように遠くに聞こえてくるようになった場所に私の旅の目的地はある。一冊の本を手に、父の残した手記と、そこに書かれている地図を頼りに進むと、見た目からも匂いからも古臭さを漂わせるその工房は、路地裏にひっそりと居を構えていた。
「ひっそり?オレには図々しく店を構えてるみたい見えるぜ。なぁ、ダンナ?」
そこにいた魔術師の男はカウンターに肘をつきながら、魔術師らしからぬ、くだけた言葉で茶化すように話す。
するとカウンターの奥から、岩に手足が生えたかのような大男が、窮屈そうに、しかし慣れた足取りで姿を現した。
「そうゆう文句は、他にまだウチと同じ仕事をしてる工房を見つけてから言うこったな。ほら、出来たぞ。」
使い古されたやり取りにニカッと笑みを浮かべながら、そこにいる大男の無骨な手には似つかわしくない、細やかな装飾が施された1冊の本を魔術師に手渡した。
本。
魔術師にとってのそれは一般的に知られているものとは些か本質が異なる。
ある魔術師は召喚の魔法陣が描かれた紙をまとめるために
ある魔術師は自身の魔力を貯める貯蔵庫として。
ある魔術師は人を殺す武器として。
ある魔術師は護身用のお守りとして。
魔術師によってその使われ方は多岐にわたる。すなわち、魔術師の数だけ魔導書は存在すると思って差し支えないだろう。
そして、魔導書を使う魔術師がいるのなら、それを作る・・魔術師も存在する。
活版印刷の技術がもたらされてから、世界には本と呼ばれるものが徐々に普及し始めた。しかしその中でも魔導書、後にグリモワールと分類されるこれらの本は、活版印刷では作成することができなかった。
活版印刷とは異なり、魔導書は誰でも道具があれば作れるというモノではない。それぞれの目的に合わせた適切な素材、適切な加工、適切な製本、そして魔術に関する知識と理解。魔導書の作成には一般的な魔術や製本とは異なる、「魔導書作り」の専門知識と専門技術を必要とした。
この場所はリュッケンハルトで唯一、グリモワールを専門に扱う魔導書工房なのである。
商人でありながら魔術師でもある私は、とある魔導書の作成のため、この工房を訪れたのだった。
店主の大男は常連客と思わしき口の悪い魔術師に、渡した魔導書に関しての一通りの説明を終えると、待たせてしまって申し訳ないねとでも言うような表情でカウンター越しに私の目の前に立ち、きっと言い慣れたであろう、お決まりの言葉を続けた。
「アインブレーベンへようこそ。さて、どのような魔導書をご所望かな?」
そうして私は、大柄な店主にひと通りのオーダーを伝え、工房を後にしようとひるがえった。次の瞬間、そのタイミングを待ってましたと言わんばかりに店の扉がガラン、と心地いい軽快な音を立てて開いた。
ふわりと空気が揺れ、自然とそこにいた3人が音のほうに目を向ける。
そこには、この場所にはあまりに不相応な、漆黒の角を生やした一人の少女が立っていたのだった。
「この本の、写本を作ってはくれませんか。」
続く
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
処女作ということもあり読みづらい部分が多々あるかと思いますが、「魔術と中世」というベターな世界観を作るうえで、自分の味が出せるような非常に細かい設定や歴史などをモリモリにして執筆しているので、今後の展開にどうぞご期待ください。
なお、現在noteにて序章(Avantシリーズ)全5話+本編6話までを投稿しています。既に10万字を超える文量になっているので、続きが気になった方はぜひ見に来てくださいね。
https://note.com/yog_y0u




