呪われた王太子を救うのには真実の愛が必要?お相手に選ばれたのは私?なのに「君を愛することはない」とはどういうことでしょうか
「君を愛することはない。占いなどに振り回されるつもりはない」
極秘の用件で王城に呼び出されたシルヴィア・ディ・バルジーニは、銀髪紫眼の王太子エルベルト・ディ・グリタニアに冷たい声でそう告げられる。
王妃から事前に聞かされていた事情とは正反対の言葉に、シルヴィアは一瞬顔が強張った。
だがすぐに緑色の瞳を細め、穏やかな微笑みを張り付かせる。
「わかりました、殿下」
たおやかに頭を下げると、シルヴィアの視界の隅で亜麻色の髪が悲しげに揺れた。
――王太子はとある呪いを受けている。
それの解呪には「真実の愛」が必要だという話を、シルヴィアはこの直前に聞かされていた。
その真実の愛の相手として呼ばれたのがシルヴィアだった。
しかしシルヴィアとエルベルト王太子は幼い頃からの顔見知り程度の仲。伯爵家の娘と王族という関係で、それ以上でもそれ以下でもない。
特別な関係などではなかった。
それなのに何故シルヴィアが選ばれたのか。
それは王妃が信頼している占い師の占いの結果だという。シルヴィアこそが王太子の呪いを解くであろうと――
しかし王太子はその占いに従うつもりなど一切ないという態度だった。
だがこれは王命である。
双方の合意のないままにシルヴィアは王太子妃候補となった。
「お気持ちはわかります……他人に命令されても、自分の心はどうにもなりませんもの」
シルヴィアは王城に用意された部屋で、窓の外を眺めながらぽつりと呟く。
たとえ本人たちが拒否してもシルヴィアとエルベルトは仮の婚約者扱いだ。王命に拒否権はない。
王太子の呪いが解けるまでは、シルヴィアは王太子妃候補として、エルベルトと真実の愛を育まなければならない。
たとえそれがどれだけ無茶で滑稽なことだとしても。
その目的が果たされるまではシルヴィアは王城で生活しなければならない。
「いつになったら帰ることができるのかしら……」
先の見通しはまったく立たない。
(呪いってなんなのかしら……もちろん国家機密ですわよね。私にも教えていただけないのだもの)
呪いについては絶対に他言無用と言われている。
王太子が呪われているなど国家の危機でしかない。うかつに口を滑らせて外に漏れればどうなることか。
そのためにか、シルヴィアにも呪いの詳細は聞かされていない。
(それにしても占いで選ばれたから愛し合いなさいなんて無理があるわ……)
乙女心としてはそう思うのだが、貴族令嬢としてはそうも言っていられない。
これは国家の一大事である。貴族としては王家を、国を守る義務がある。
シルヴィアは空を見つめたままため息をつき、胸を押さえる。
(真実の愛だなんて……馬鹿みたい。ここにあるのは一方通行の恋だけなのに)
けっして口にしたことはないが、シルヴィアは実は昔からエルベルトのことが好きだった。
しかしエルベルトの周囲には公爵家の令嬢、侯爵家の令嬢、宰相の娘、等々、伯爵家の娘であるシルヴィアよりもふさわしい相手がたくさんいる。どの令嬢も優雅で美しく、未来の王妃にふさわしい。
強力なライバルがたくさんいるのに、「真実の愛」の相手に自分が選ばれたときは、まさかと思った。
不安と喜びが同時に訪れた。
だがわずかな期待は木っ端微塵に打ち砕かれた。
――壊れた恋心が、一粒の小さな涙となって零れる。
(殿下もお気の毒なこと……)
呪いを解くためと言って気に入らない相手を愛せというのは酷と言うものだ。それも占いの結果を押し付けられて。そんなもので真実の愛が生まれるはずもない。
そしてシルヴィアは決めた。
幼い日からの恋に別れを告げて。
(殿下のために、心身を尽くしましょう)
◆◇
王城に来てから、食事は常にエルベルトと一緒だった。まるで最低限の義務を果たすように、向かい合って会話のない食事をして、ほとんど食べずにエルベルトは席を立つ。
王太子殿下はお忙しいので、とエルベルトの側近が言うが、ちゃんとシルヴィアにもわかっている。
(王妃殿下の顔を立てていらっしゃるのね)
毎日部屋にエルベルトから鮮やかな花が届けられるのも、義務のひとつなのだろう。
それでも瑞々しい花は、王太子妃教育で疲れたシルヴィアの心を癒やしてくれる。
(それにしても、呪いとは何なのかしら)
食事の度にエルベルトと顔を合わせるが、シルヴィアにはまったく普通に見える。呪いにも病にもかかっているようには見えない。あくまで表面上は。
(何か私にできることはないのかしら)
シルヴィアは呪いには詳しくはない。占いにも。
なら知るところから始めようかと考える。
それならまずはやはり、シルヴィアを呼んだ占い師――カルペリにもう一度話を聞くべきだろうと考える。
だが彼女は王妃付きであり、簡単に会えるような相手ではない。
王城の廊下を歩きながら、カルペリに会う約束をどうやって取り付けようと考える。
そうしていると、向こう側からこちらに歩いてくるドレス姿の女性が声をかけてきた。
「まあこれはシルヴィアさん」
「モニカ様……」
――モニカ・ディ・ザンペルラ。
エルベルト王太子の婚約者候補とされていた侯爵家の令嬢。
モニカは美しい金髪を揺らしてシルヴィアを見つめる。
「シルヴィアさん、お会いできてよかったわ。あなたに聞きたいことがありますの」
にこりと微笑む。
「教えていただいてもよろしいでしょうか? いったいどんな卑怯な手を使って王太子妃候補になったのかしら」
言葉は鋭利に、だが声色は優雅に。
その赤い瞳の奥にあるのは激しい怒り――嫉妬だ。
自分こそがその地位にふさわしいのに、どうしてシルヴィアがそこにいるのか、という怒り。
シルヴィアの胸が苦しくなる。
「それは……私にもわかりません」
「わたくしには言えないということかしら」
わからないのも言えないのも本当だ。
王太子の呪いの件は口外禁止なのだから。ましてや占いで「真実の愛の相手」に選ばれたなんて言えるはずもない。
黙り込むシルヴィアに、モニカは苛立つような――だが少し安心したような視線を向ける。
「身の程はわきまえていらっしゃるようね」
「…………」
「忠告してあげますわ。不相応な欲は持たないように。王太子殿下に真に愛されているのは、このわたくしなのですから」
「――それが真実の愛でしたら、私は邪魔などいたしません」
だがおそらくエルベルトの方はモニカにそんな気持ちは抱いていないだろう。そうであるならとっくに呪いは解けているはずで、シルヴィアが呼ばれることはなかっただろうから。
モニカの細い肩がわなわなと震えている。
「この――泥棒猫!」
「ザンペルラ侯爵令嬢。何をしている」
シルヴィアの正面――モニカの背後から響いた声に、モニカは勢いよく手を振り上げた姿勢のまま固まる。
声の主はエルベルト王太子だった。
紫の瞳が湖面のように静かにモニカとシルヴィアを見つめていた。
モニカはそそくさと手を下ろし、何事もなかったかのように微笑む。
「なんでもございませんわ、殿下」
「……そうか」
それだけ言って、側近とともに立ち去っていく。モニカはそのエルベルトについていく。
遠ざかるきらびやかなふたりを、シルヴィアは眺めることしかできなかった。
「ふふっ」
背後から聞こえた笑い声に、シルヴィアは驚いて振り返る。
そこにいたのは黒いローブを纏った、すみれ色の髪の美しい女性だった。
「カルペリ様……」
「ごきげんよう、シルヴィア様」
甘く深い香りが漂う。
――占い師カルペリ。
彼女がエルベルトの呪いを解くためにシルヴィアを呼んだ占い師だった。
深い灰色の瞳がシルヴィアをじっと見つめる。
「シルヴィア様、少しお話しいたしませんか?」
◆◇
占い師の部屋は王妃の部屋のすぐ近くで、王妃から絶大な信頼を得ていることがここからも伺える。
薄暗い部屋では香が炊かれていて、深みのあるあたたかな香りに満ちていた。
「何かシルヴィア様のお心を惑わせることがありましたか?」
テーブルをはさんで向かい合わせに座ると、紅茶と焼き菓子とチョコレートが運ばれてくる。
シルヴィアは手をぎゅっと握りしめて、勇気を出してカルペリに聞く。
「どうして私なのでしょうか」
それは最初に呼び出されたときと同じ問いだった。
「運命でそう決まっているからです」
それも最初のときと同じ答えだった。
「運命だなんて……王太子殿下は私を愛することはないと、はっきりおっしゃいました」
「あらまあ……きっと本心ではございませんわ。シルヴィア様はとても可愛らしい方ですもの」
カルペリは真剣に取り合おうとはしない。
「王太子殿下の呪いとはなんなのでしょうか。真実の愛以外に解く方法は本当にないのでしょうか」
「ありません」
頭に痛みが響く。
甘い香りにくらくらする。
早く部屋を出るべきだと本能が訴えるが、シルヴィアはまだ動けなかった。
「そしてシルヴィア様、あなたでないと駄目なのです」
「私なんて……もっとふさわしい方が……」
シルヴィアにはなんの取り柄もない。
努力はしてきたが、美しさにも勉学にも運動能力にも自信がない。会話術にも社交術にも。積極性も華やかさも、ない。
シルヴィアの取り柄はそれでも努力し続けていること、それだけだ。
「自信を持ってください、シルヴィア様。おふたりが身も心も結ばれた時、王太子殿下の呪いは解けるでしょう」
「そんな……」
青ざめるシルヴィアに、カルペリはねっとりととろけるような声で続ける。まるで甘い毒のような。
「心が先でなくとも構いません。今夜、王太子殿下の寝室にお行きなさい。手はずは整えておきますので」
「そんなこと……」
「呪いを解いて差し上げたいのでしょう? 未来の王太子妃殿下」
頭に痛みが響く。
何も考えられなくなっていく。
水の中に沈んでいくかのようだった。
このまま何も考えずに運命の流れに身を任せてしまえればどれだけ楽だろうか。
――それでも。
「……だめ、です……殿下の気持ちを無視してそんなこと……」
頭に痛みが響く。
自分でも何を言っているのかわからなくなり、何かがぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
「心がお強いのですね。もう少し強めに焚きましょうか。そうすればきっと、ご自分に素直になれますから」
「……い、や……」
早く逃げなければ。
この部屋から。
この香りから。
動かない身体をなんとか動かそうとするシルヴィアだったが、背後に回ったカルペリに軽く肩を押さえられればそれだけでまったく動けなくなる。
「――シルヴィア!」
激しい音と共に、部屋の扉が力強く開かれる。
(……殿下……? どうして……)
部屋に入ってきたのはエルベルトとその側近だった。
うまく喋ることもできない、ぐったりとしたシルヴィアを見て、エルベルトの雰囲気が変わる。
「シルヴィアに何をした占い師。この香りは何だ」
エルベルトは怒りを露わにカルペリを見据える。
しかしカルペリは慌てるそぶりも見せずに微笑んだ。
「ただのお香です。シルヴィア様は慣れていらっしゃらないようでして――」
「王太子妃候補に危害を加えたのだ。相応の罰を覚悟しているのだろうな」
「お――お待ちください!」
容赦ない追及にカルペリは驚き、エルベルトに縋ろうとしたがエルベルトの側近にそれを阻まれ、床に組み伏せられる。
「連行しろ」
◆◇
ベッドで目が覚めると、すぐ近くにエルベルトが座っていた。
まだ夢を見ているのだろうかとシルヴィアは思った。
シルヴィアを覗き込む瞳は心配そうに揺れていて、まるで大切なものを見つめているかのようだった。
エルベルトの銀の髪が、光を受けてきらきらと輝いているのを、美しいと思った。
「シルヴィア、気分はどうだ?」
「大丈夫です。かなり楽になりました」
もうあの香りはしない。
「どうしてカルペリとふたりきりになったんだ」
「申し訳ありません殿下……どうしても殿下の呪いを解きたくて……」
「そんなものは最初からない。あの占い師のでっち上げだ」
「な――」
シルヴィアは絶句する。
また気を失いそうになる。
まさかすべて嘘だったなんて。そんなものに振り回されていたなんて。
「ど、どうしてそんなことを……」
何もわからず混乱するシルヴィアを、エルベルトは静かに見つめていた。
エルベルトには心当たりがあるようだった。思い悩むように視線を迷わせ、やがて決意したかのようにまっすぐにシルヴィアを見る。
「シルヴィア、僕は昔から君のことが好きだった」
「殿下……?」
今度こそ気を失いそうになる。
もしくはもう失っていて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。
だってそんなことあるはずない。
シルヴィアとエルベルトはただの顔見知り程度で、親しかった時期など一度もない。
シルヴィアの一方的な恋だった。
誰にも言わずに秘めておこうとした恋だった。
「――だが、諦めていた。君を王妃の座に縛り付けたくはなかった」
「…………」
エルベルトの表情は苦しそうだった。
それを見てこれは夢ではないのだと思った。夢でも、こんな苦しげな姿は見たくなかった。
(殿下が、私を……)
王妃には重大な責任と義務がある。
王を支え、共に歩み、国の母となり、貴族の女性たちの上に立つのにふさわしい存在でなければならない。
何の取り柄もなく、生家の爵位も高いわけではないシルヴィアでは、王妃は務まらないと思われても当然のことだ。
「君は努力家で、ひたむきで、折れない花のようだった。そんな君を手折って、無理やり飾って、重責を負わせるべきではないと思っていた」
「…………」
「だがいきなり王太子妃候補として君が選ばれて……正直嬉しかった。けれど、あの占い師が噛んでいると知って、何か裏があるのだろうと思った」
――嬉しかった。
それはシルヴィアも同じだ。
シルヴィアも嬉しかったのだ。
王太子妃候補に選ばれて。
ただ純粋に嬉しかった。
「占い師は、おそらく僕の気持ちに気づいていたんだろう。僕が諦めたシルヴィアを王太子妃に押し上げることで、恩を売って自分の地位を盤石なものにしようしたのかもしれない」
占い師カルペリは王妃の信頼を得ている。
王城により一層深く根を張ろうとして、エルベルトとシルヴィアを結ばせようとした。
そして失敗した。
「君がひとりで占い師の元に行ったと聞いたときには、驚いた。警告していなかった僕の落ち度だ」
「それは、私が勝手に……」
「シルヴィア、すまなかった。妃候補の話はなかったことにする。君は自由だ」
「――殿下」
シルヴィアはエルベルトを見つめる。
ベッドから起き上がり、その瞳を覗き込む。
「そんな話を聞かされたら、私はもう、殿下を諦められません」
エルベルトがシルヴィアを諦めた理由が、王妃の資質がないからだとしたら。
身につければいい。
ただそれだけのことだ。
「頑張って、誰もに認めてもらえる王太子妃候補となります。私は王太子殿下が、エルベルト様が好きですから。昔から、ずっと。だから……」
「シルヴィア……いいのか? 僕はきっと、二度と君を手放さなくなる」
「はい」
頷く。もう迷いはなかった。
エルベルトの手が、そっとシルヴィアの頬に触れる。
導かれるように目を閉じると、唇が重なった。
シルヴィアはやっとわかった。呪われていたのは自分だったのだと。
自分はエルベルトにふさわしくないと思い込んでいた。自分に呪いをかけていた。
だがその呪いは解かれた。
あとは前に進むだけ。
まっすぐに。
――その後。
占い師カルペリは王妃を惑わし、国庫を食い荒らしていた罪で、罪人の焼きごてを押されて処刑された。
王太子妃候補の話はいったん白紙に戻され、家に戻ったシルヴィアは、その後エルベルトとゆっくりと愛を育みながら努力を続けた。
シルヴィアはやがて誰もが認める王太子妃候補となり、そして数年後、多くの人々に祝福されながら王太子妃となった。