一章「迷い家の主人、邂逅、分岐路」
残暑を過ぎるも薄く汗ばむ午後、緩い勾配の峠道にペダルの軋む音と葉擦れの音。
午前中の太陽が嘘のように、空を覆う雲と一面の霧に現実味を失うような虫達の共鳴。
「一気にガスってきたな……」
大学の長期休暇を持て余しながらも片道二時間の実家に帰省する気が起きず、こうやって自転車を走らせていた。片田舎の下宿先から少し足を伸ばせば山の麓で、自転車なら一時間程度で頂上の湖まで着くことができる。
幾度か登っている峠道だが、有視界が5mもない濃霧は初めてのことだった。
「ライトも意味ないくらいだな、引き返した方がいいか……」
しかし七割程度は過ぎている状況、スピードの出やすい降りを行くより自転車を押してでも登り切ったほうがいいのかもしれない。
そう逡巡していると車を何台か停められるような広い場所に辿り着いた。
今までは登攀の途中で気にしていなかったが、消えかかった駐車用の白線もあり、道から少し奥まった法面の手前には樹皮を削り磨かれた杉の木が横たわっていた。
鬱蒼とした木々の中で人が休めるように誰かが用意したのか、その杉の周りだけは藪が切り取られているようで虫の声も小さいように思う。
疲れた足を休めるには丁度いいかと道路わきに自転車を置いてホルダーから水を抜き出し、杉の方に近付くと切り取られた藪は奥の方まで続いている事に気付いた。
「駐車場もあるし先に何かあるのか?看板も何もないが……」
横たわる杉に腰を下ろし一息つく。奥に続く獣道に目を凝らすが霧と山の影に邪魔されて夜のように暗く思えた。
多少の気味悪さを感じて道路の方へ体を向けてショルダーバックの中から煙草を取り出す、愛用のライターを取り出してフリントホイールを回した時、急に目の前から声を掛けられた。
「すみませんが、火をお借りしても?」
「へ?」
唐突に現れた声に驚いて素っ頓狂な反応をしてしまった、何せそれは濃霧に運ばれたのではと思うほどに気配がなかったのだ。
「驚かせてすまないね、珍しい場所で人に会うもんだから声をかけてしまったよ」
そう言って笑う男は初老と言うには若い外見をしているが、どこか老いを感じさせる印象だった。
薄手のYシャツの袖を軽く捲り、胸ポケットのシガレットケースから細巻を取り出して口にくわえた男にライターの火を差し出す。
「助かったよ、こんなに霧深いと火は大事だからね」
変わった言い回しに気の利いた返しができず、ただ苦笑すると男が質問してくる。
「こんな所に小旅行かな?見たところ学生のようだが」
「日帰りで自転車を走らせてただけですよ、こんな濃霧は初めてですが」
横目で自転車を指し示して軽装なのを見せる。気付けば咥えた煙草はフィルターまで燃えていた。
まだ三回程しか吸ってないのに、そんなに時間が経ったのか? 見れば男の細巻もいい具合まで灰になっていた。
「迷い込んだか……煙草はまだあるかね?」
男の呟きが気になるが、先に質問の答えを確認するために煙草を取り出す。
少なければ買い足す程度には几帳面だと自分では思っていたのだが、どうやらさっきの一本が最後だったようだ。
男に答える代わりに空になった箱を握りつぶす。
「色々気になるだろう質問は後で答えるとして、これを吸っていたまえ」
差し出された細巻、受け取って匂いを嗅いでみると薬膳のようだった。葉巻と言うよりは漢方薬といった香りだ。
普段、葉巻なんて吸わないが折角受け取ったのだ。肺に入れないように火をつける。
「うっ……これはまた独特な」
失礼な反応に男は笑って返す、こうなると予測できていたのだろう。
「無理にふかさなくていい、それを持ってついてきたまえ」
「どこへ?あなたは一体?」
「質問には後で答えよう。荷物は全部持っておいで、この辺は悪戯するのがいるからね」
こんな山の中途半端な所で悪戯? 色々と聞きたい事はあるが男は後で答えると言っているのだから、今は大人しくついていくべきか。
自転車を手で押し、男の後ろをついていく。
「さて、辿り着くまで少々時間がかかりそうだ。いくつか質問に答えていこう」
そう言ってから思い出したかのように男は名乗った。
「私はそうだな……梔子と呼んでくれれば構わない」
奇妙な名乗り方だ、怪しさしかない。言われるままに付いて行っていいのか逡巡する程度には怪しい。
とはいえ名乗られたのだ、こっちが名乗るのを待つ視線を無視するのもばつが悪い。
「堺……堺境平と言います」
「堺君か、まずは何から聞きたい?」
いきなりに事が進みすぎて混乱した頭で状況を整える。よくよく考えると百物語の一遍のような状況だ。
ともすればまず聞くべきは――
「そうですね、今はどこへ向かってるので?」
男は切り揃えられた藪の中に入っていく。幅は自転車を押して歩くには多少狭く、進んでいくとまるでトンネルのように薮が上まで覆っていく。
「向かっているのは馴染みの店でね、君も気に入ってくれるといいんだが」
「この先に店?看板も出てない山奥に?」
「あぁ、ちょっとした喫茶店がね。この辺りのものが集まる店さ」
緩やかな勾配を登りながら問答していると、唐突に梔子の懐から涼やかな鈴の音がした。
気付けば、話に気を取られていて細巻の火も落ちていた。
「悪いがこれを持っていてもらえるかな?」
渡されたのは12面ダイスのような木工細工に覆われた鈴、変わった造形のそれを受け取るとまた鈴の音が響いた。
「これは?」
「獣除けの鈴みたいな物だよ」
獣除けと言うには音は小さく、常に鳴っているわけでもない。どちらかと言うと魔除けだ。
益々、胡散臭くなってきた。
文学を専攻している身としては怪奇譚なども幾らかは読んでいる。色々な邪推が頭をよぎる。
(化かすのは狐か狸か幽霊か……実体はあるし鈴を渡してくる狐狸なんてのも聞いた事がない)
巡る思考に決着がつく前に梔子と名乗る男は足を止めた。
何かと思えば湖をバックにいかにも喫茶店といった建物が見えていた。
「着いたよ、自転車は軒先にでも置いておくといい」
言われた通りに軒先へ向かうと、肉を炙ったようないい匂いがした。
そんな匂いを嗅ぐと忘れていた腹の虫が騒ぎ出す。腹時計では既に昼は回ってしまっているようだ。
梔子が店の扉を開ける。微かに聞こえる店内BGMはどこか古めかしく、店内もどうやらアンティークな雰囲気だ。
店内に入ると客の姿はなく、カウンター奥で店主が読書の手を止めてこちらを見やり、僅かに眉を顰める。店主は自分と同じくらいの年に見える女性で、主張の薄い眼鏡に映えるような泣きボクロが特徴的で、ロングの黒髪を後ろで緩く縛っている。
「いらっしゃい、貴方が人を連れてくるなんて珍しいじゃない」
彼女との邂逅はこんな味気のない一言から始まったのだった。