第三話 梅を望んで渇きを止む 参
「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません!」
念仏のように唱えながら、床に腰を下ろした旭の頭を手拭いで拭っていると、手拭いの隙間から旭の申し訳なさげな瞳が覗いた。
「……何故お前が謝るのだ」
「そうだぞ。どう考えたって悪いのは水かけてきたお染ってやつだろ」
「それは……そうなのですが」
結局あの後、麻一郎の嫁だというお染に水を浴びせられ、私を庇った旭だけが濡れ鼠になってしまったのである。石を投げられたり、水をかけられたりしたことは一度や二度ではない。私だけならば今に始まった事ではないと割り切れたのだが、今回水を被ったのは旭である。
「……申し訳ございません」
「鬼は水をかけられた程度では死なぬぞ」
「そういうことではないのです……恩人に水をかけさせるなど、あってはならないことなのですから」
私さえいなければ、こんなことにはならなかっただろう。見かけによらず心優しい旭はそれでも私を守ろうとしてくれたが、そもそもの元凶は私なのだ。本来なら私だけが被るべき災難が旭に降りかかってしまったことが、ただ申し訳なかった。
「お前には普段から山ほど桜餅を貰っている上、お前のおかげでわしは今宵の寝床も食い扶持もある。わしへの恩を返すどころか、お前がわしの恩人になりそうな程だぞ」
「そんなことは……」
ない、と言いたいところだが、私が旭の恩人というところはともかく、山ほど桜餅を食べているというところは否定できない。客が来ない今、客用に作る桜餅のほとんどを旭が食べている状況だ。
「確かに旭は少し食い過ぎだな。客が来ねぇとはいえ、これじゃあ茶屋が潰れちまうぜ」
「お彩の桜餅は美味いからな」
「まぁそうだけどよ……どうにかならねぇか。例えば……小せぇ桜餅をいくつも作って、そいつをたらふく食わせるとか」
「小さくては意味がないではないか」
「まぁ聞けよ。普通の桜餅をお前がたらふく食ったら、店が潰れちまう。だが、普通の桜餅の半分の大きさしかねぇ小せぇ桜餅なら、同じ量だけ食ったとしても倍の数食えるだろ? 小さい方が得なんだよ」
普通の桜餅一つは小さな桜餅二つ分。大きさは普通のものに及ばずとも、小さな桜餅は桜餅を多く食べられたという満足感を得ることができるということだろう。同じ数食べたとしても半分の量にしかならないとなれば、旭がいつもの勢いで桜餅を食べてしまってもある程度は大丈夫ということになる。
父の言葉を聞いて暫く考え込んだ旭だが、漸くその事を理解したらしく、期待に満ちた眼差しで私を見つめた。
「できるのか?」
「作ろうと思えば、恐らくは。今度、試しに作ってみますか?」
「ああ」
手拭いの中に収まった頭から、やや食い気味に弾んだ声が聞こえてくる。此処まで期待されているとなると作り甲斐があるというものだ。
「そんじゃあそろそろ、お前にも食った桜餅分は働いてもらおうか」
「旭様ができる仕事ですか?」
「俺がやってる仕入れだ。ただで食われちゃ堪ったもんじゃねぇし、少しはこいつにも手伝ってもらわねぇとな。そんなわけで、明日は昼過ぎにはもう店閉めるから、小せぇ桜餅を作るのはそのときに頼む」
「分かりました」
力仕事なら確かに旭は適任だろう。それに、仕事を経て他の人間と関わる機会を得れば、少しずつ旭の居場所もできていくかもしれない。
そこまで考えて、家に居場所がないと言っていたお梅のことを思い出した。
お梅は、明日も来るだろうか。
今日見たお梅の息子である麻一郎は、お梅を疎ましがっているようには思えなかった。寧ろ麻一郎は、お梅を守ろうとしていたように思える。
もし、お梅の言葉が偽りだとしたら、何故お梅はあんな事を言ったのだろうか。茶屋の外に目をやっても、暮れなずむ空を背にしたお梅がやってくることはない。
明日もまた、来てくれるだろうか。お梅が来ないということは即ち腹を空かせていないということであり、いいことであるのは分かっているが、頬に触れる優しい感覚を思い出すと、ついそんなことを願ってしまうのだった。
「そんじゃ、少し店を頼むぞ」
「ええ、お気をつけて。旭様も」
「ああ」
翌日の昼過ぎ。昨日のことがあったせいか、結局店を閉めるまでにお梅が茶屋に姿を現すことはなかった。仕入れに向かう旭と父を見送る際、少しだけ外に顔を覗かせて様子を窺ってみるが、やはりお梅の姿はどこにもない。
「桜餅は作れそうか?」
「どうにかやってみますね。もし失敗したら、そのときは処分を手伝っていただけると助かります」
「分かった」
表情こそ変えていないが、旭は心なしかどこか嬉しそうに頷いて見せた。
失敗は少ない方がいいのだが、こんなにも期待に満ちた顔をされるとそれはそれでやりにくい。失敗作として普通の大きさの桜餅も作っておくべきだろうかと思いつつ見送った旭の背中は、人混みの中に道を作って歩いていく。そのことを少し寂しく思いながら茶屋へ戻ろうとしたそのとき、不意に背後に人の気配を感じ取った。人目を避けて暮らしてきたせいか、そういったものには人よりも敏感になっているのである。客でなければ冷やかし、もしくは麻一郎が私に石を投げに来たのだろうかと思いつつ振り返って、それが杞憂であることを理解した。
「お梅さん」
名を呼ばれたお梅は、嬉しそうに目を細めて笑って見せた。