第三話 梅を望んで渇きを止む 弐
翌朝。表で桜餅を頬張る旭の側に、小さな影が忍び寄った。影は盆の上に載った旭の桜餅に手を伸ばしたが、その手が届くよりも先に、旭が盆を持ち上げる。すると、その手を伸ばした影の主──昨日の老婆は、驚いたような顔を見せたかと思うと、きひひと笑って見せた。
「おやおや、また見つかってしまったのかい」
「どうぞ」
盆に載せた茶と桜餅を差し出すと、老婆は嬉しそうに目を細め、旭の隣に腰掛けた。今日は萩之進の姿がないせいか、茶屋はいつもより穏やかな雰囲気である。
「そういえばお前さん、名は何と言うんだい」
「お彩と申します」
「お彩か。いい名だねぇ」
うんうんと噛み締めるように頷いたかと思うと、老婆は旭にも同じ問いを投げかけた。顔色一つ変えずに旭が名を答えると、老婆はほんの少し怪訝そうに旭の名を繰り返し、やはりいい名だと旭の名を褒めた。
「お前は何というのだ」
「わしはお梅。名もこの通りじゃし、梅干しを作ることくらいしか楽しみがないもので、梅婆と呼ばれとる」
「梅干し?」
「梅の実に塩をまぶして干したものです。酸っぱいですが、美味しいですよ」
「お前さんは梅よりも桜の方が好きそうじゃの」
お梅はそう言って笑った。お梅の笑いは独特だが、何だか何をされても許してしまうような不思議な笑い方である。
「……お梅は梅が好きなのだろう。何故わしの桜餅を盗るのだ」
「さぁ、腹が減っているせいかもしれんね」
昨日ここに来たときも、お梅は同じようなことを言っていた。梅干しを作ることしか楽しみがないと言っていたし、物乞いをしているというわけではなさそうだが、それにしても何故こんな老婆が腹を空かせて茶屋の桜餅を盗んでいるのだろうか。
「……どうして、お腹が空いているのですか?」
差し出た問いかもしれないと思いつつ尋ねてみると、お梅は不意に真顔になり「そうだねぇ」と口にする。
「……近頃、一緒に住んでるせがれが、飯を少なく盛るせいかねぇ」
ぽつり、溢されたのは、思っていたよりもずっと深刻な事実。せがれとは、と尋ねる旭の声がなければ、言葉を失ったまま何も言えずにいただろう。
「せがれというのは息子さんのことですよ」
「あの子は悪くないんだよ。わしを厄介払いしたがっているのは、お染の方でね。お染は最近うちへ嫁に来たんだが、家を狭くするばかりのこんな死に損ないの穀潰しには、さっさと死んで欲しいんだろう。それならそうと言ってくれれば、姥捨山でも何でも行ってやるのにねぇ」
お梅はそう言ってから、この足じゃあ無理だがねと笑った。
「息子さんは何も言わないんですか?」
「せがれはお染に頭が上がらないんだよ。わしの飯を盛るたびお染に怒鳴られては縮こまっているような子でねぇ。わしが死ぬよりもお染の方が怖いから、わしの飯を少なく盛るんだよ」
腰が曲がって、足取りもおぼつかない老婆と共に暮らすのは、確かに面倒なのかもしれない。だがそれは、お梅に飯を与えさせまいとしていい理由にはならないはずである。お梅は姥捨山でも何でも行ってやるとは言っているが、空腹には耐えられず、こうして盗みを働いている。
盗みはよくないことだが、決してやりたくてやっているわけではないのだ。お梅の息子は、お染は、そんなお梅の姿を見て何とも思わないのだろうか。自分を育てた人間のことを、どうして庇わずにいられるのだろうか。私と違って、実の母親がそばにいるというのに、何故。
「お前さんは優しい子だからねぇ、何故そんなことができるのか、検討もつかんだろう」
「……はい」
江戸の闇を知っている。本当は優しい人が、私にだけ牙を剥くことを知っている。けれどそれは私の見目がおかしいせいなのだと思っていた。そんな私を「優しい子」というお梅は優しい人であると分かっているから、そんなお梅が腹を空かせて盗みを働かざるを得ない現状が、悲しかったのである。
「……両端が同じ太さの枝がある」
「はい?」
「謎謎さ。どちらの端が根で、どちらの端が先かを確かめるためには、どうすればいいと思う?」
励まそうとしてくれているのだろうか。
枝というのは、根は太く、先が細くなっている。しかし、両端が同じ太さであるなら、見て確かめることはできない。土に挿して根を張った方が根だろうか。だが、それではたとえ先を土に挿しても根は生えるだろうし、何より時間がかかる。お梅が言いたいのはそういうことではないのだろう。
私が暫し考え込んでいると、お梅は笑って、そういうときはね、と切り出した。
「水に浮かべるんだよ。先よりも根の方が重いだろう。沈んだ方が根さ」
「……あ、確かに! 凄いです!」
先人の知恵は偉大だ。たとえ体が動かなくなっても、時を重ねた者は聡い。体の衰えの代わりに、老人は知恵を得ているのだ。
感動を分かち合おうと旭の方を見やると、旭はまだよく分かっていないというように首を傾げていた。やがて諦めたのか、桜餅を口に運ぶ。
「それと同じなんだよ」
「同じ?」
振り返ると、お梅は悲しそうに笑っていた。
「根は重く、枝の先を沈めてしまう。せがれは先で、わしは根だよ。より長く浮かぶために、お染は根を切り落としたいのさ」
「そんなことは……」
ない、と言いかけて、ふと己の境遇を思い出した。
そんなことは、本当にないのだろうか。だとしたら何のために、母は私を捨てたのだろう。
根か先かで言えば、私は先だ。だが、母は私を切り落とした。白髪に赤目の私と共に生きることはできないと、切り落としたのだ。己のために。
「…………」
そんな母を、許せはしない。私とて望んでこの髪とこの目を持って生まれたわけではないのだ。だが、それは母も同じだと知っているから、母を責めることもできない。母とて、生みたくてこんな子を生んだわけではないのだろう。
仕方のないことだと、お梅は言いたいのだ。己が生きるために親を捨てることが、仕方のないことだと。老いることも、老いた者を疎ましく思うのも、誰かのせいではないのだと。
だからこそ、今何を言うべきかが分からない。割り切ってそんな現実を受け入れたお梅の手前、お梅の息子やお染を責めることもできず、かといってお梅がこうして腹を空かせていることを仕方ないと割り切ることも、私はできないのだから。
何と言えばいいのだろう。私は、何を言うべきなのだろう。
「枝は根がなくば育たぬではないか」
悶々と迷う私の視界が、その一言で開けた気がした。
その言葉の主は、相変わらず桜餅を貪っている。盆の上にあったはずの桜餅は、もうなくなっていた。
「枝も木も、根が腐れば育たぬ。花を咲かせず実をつけず、葉を茂らせることもしない」
春の江戸には、桜が咲き乱れている。薄桃色の花びらが空に溶け、春の香りを届けてくれる。人々の目を楽しませる桜も、根がなければそのように咲き誇ることはしないだろう。
「花も実も、葉も、必要とする者がいるのだ。そのためには根がいる」
「おやおや、葉なんてどうするんだい。花や実はいいが、誰も葉なんて必要としちゃいないよ」
お梅が意地悪く笑うと、旭は空になった盆を持ち上げて答えた。
「葉なくして桜餅はできぬだろう」
何を言っているのかと言わんばかりに言う旭を、お梅は豪快に笑い飛ばした。盗みに失敗したときとも、意地悪を言うときとも違う、元気の出る笑いだ。
「世辞は嫌いかい。わしが葉であるというのは否定しないんだねぇ」
「お梅さんの名前は梅なのでしょう。梅といえば、普通は花や実のことを言うではありませんか」
「……そうだねぇ。それもそうだ」
「……聞いてみてはどうでしょう」
思い切って言葉を紡ぐと、お梅は不思議そうに首を傾げて見せた。その様子はどこか旭に似ている気がする。見目に似合わず、可愛らしい仕草だ。
「何故そんなことをするのか、聞いてみないことには何も分かりません。何か事情があるのかもしれませんし、仕方のないことと諦めるのは、それを確かめてみてからでもいいと思うのです」
すると、お梅は私の言葉には答えず、ただ沈黙する。手元の桜餅には手をつけないままだ。
「……話してくれるかねぇ」
「それは分かりませんが、とにかくやってみてはいかがですか?」
「…………」
私の言葉に、お梅は暫し黙り込む。何かを考え込んでいる様子でもあった。家族が自分を疎ましがっているのか、直接聞くというのは幾つになっても勇気がいることなのだろう。
しかし決心したのか、お梅は静かに頷き、そうさねぇ、と口にした。
「……それならお前さん、一つ頼みがあるんだが」
「何でしょう?」
「ついてきておくれ」
「……はい?」
飛び出した思わぬ一言に驚く間もなく、お梅は立ち上がり、私の手を取った。そしてそのまま私の手を引き、どこかへと連れて行こうとしているようである。
「え、お梅さん、どちらへ!」
困惑しながら尋ねると、お梅は振り返らないまま答えた。
「わしの家さ。わし一人だと心許なくてねぇ、ついてきておくれ」
「で、ですが……」
力自体はあまり強くないため、振り払おうと思えば振り払えないことはないものの、先日旭にああ言った手前、振り払うわけにもいかない。足取りもおぼつかず目もよく見えないお梅の手を振り払って転ばせてしまっても大変だ。
だが私が行ったところで事態が好転するとはとても思えず、むしろ嫌な予感しかしない。何とか説得しようと試みるが、果たして何と言えば納得してもらえるのか分からずに困っていると、お梅に掴まれた腕と肩に、誰かの手が置かれた。ごつごつとした大きな手は、明らかに父のものではない。
「……旭様」
振り返った旭の顔は、髪に覆われていてよく見えない。突然足を止めた私を怪訝そうに振り返ったお梅の驚いたような表情から察するに、穏やかな顔ではないのだろうが、一体どんな顔をしているのだろうか。
「おや、ついてくる気かい」
旭は答えないが、お梅の言葉を否定することもない。それを確かめたお梅は、静かに私の手を離し、杖をつきながら歩き始めた。その背中を、旭は何事もなかったかのように追う。その様子に違和感を覚えつつ、私も旭とお梅の後を追った。
旭の隣を歩きながら、再びそっと旭の表情を窺ってみる。読めない人だとは思っていたが、今日はいつにも増して無口な気がしたのだ。出会ってあまり経っていないし、元々あまり話さない人なのかとも思ったが、先日の様子からするに、旭は聞かれたことには答えるし、分からないことがあればすぐに尋ねてくる。お喋り好きかといえばそうではないが、人と話すことが嫌いというわけではないと感じていた。
だが、今の旭は誰からの言葉も拒んでいるような、そんな雰囲気を纏っているのだ。先ほどまで桜餅を頬張っていたのと同じ人物とは思えないその姿が何だか恐ろしく感じられて、控えめに旭の名を呼ぶと、旭は相変わらずの無表情をこちらへ向けた。
いつも通りの旭である。
「どうかしたのか」
「いえ……いつにも増して静かでいらっしゃるので、何かあったのかと」
「…………」
その瞬間、旭の表情がほんの少しだけ曇るのが分かった。だが、私から目を逸らすことはせずに、旭は答える。
「……少し、気が立っているだけだ」
気が立っている。穏やかな旭にしては珍しいことだ。旭が腹を立てることなど一つしか思い至らないが、それについては昨日折り合いをつけたはずである。それなら何故、と思っていると、何処かから話し声が聞こえてきた。
「……おい、あの娘だ」
「気持ち悪い」
「何だあの髪は」
「赤目だぞ」
「鬼の目だ」
「…………」
昼間に外を出歩くのは、思えば随分と久方ぶりなように思える。いつも出歩くのは夜であるし、九郎兵衛の笛のお陰で人に見つかることもあまりなくなった。いつの間にかそれに慣れてしまって、父以外の誰の目にも触れないようにして歩くことが当たり前になっていたが、思えば私を取り巻く環境というのはこんなものだったのである。
こうして二人のそばを歩けているのも、たまたま旭が私の見た目が奇異であると知らなかったからで、たまたまお梅が私を見ても驚かなかったからだ。以前はそれすらもなかったのだから、それを考えれば今はずっと恵まれた環境にいるといってもいい。
分かっていても、いざこうして悪意のない敵意の前に立つと、足がすくみそうになる。風呂敷を握る手に力が籠る。自分の足ばかりを見つめて歩くようになる。
人々が白髪赤目の私を恐れるように、私も黒髪黒目の人々が恐ろしいというのが何故分からないのだろう。私よりよほど数も多く、力も強いというのに、何故。
「お彩」
沈みかけた思考を、旭が断ち切った。名を呼ばれて顔を上げれば、いつも通りの旭の顔がある。
「何でしょう」
そう返しつつ向けた笑みに自信がない。けれど、旭と話していれば周囲の声は聞こえなくなるかもしれないと思い、続く言葉を待つ。
「来年は何をする」
「……はい?」
「来年の話だ。春が過ぎ夏を迎え、秋を飛び越え冬を凌ぎ、そうしてまた春を迎えたそのとき、お前は何をする」
「ええと……来年ですか」
来年、私は何をしているのだろう。明日のことも分からないというのに、突然来年の話をされても困ってしまう。一年という長い月日を超えた私は、一体どこにいるのだろう。今のまま江戸で暮らしているかもしれないし、もしかすると江戸以外の場所へと向かっているかもしれない。
けれど江戸以外の場所へ行くとなると、決してもう若いとはいえない父と共にというのは考えにくい。恐らく私一人だろう。江戸が私の居場所というにはやや無理があるかもしれないが、それでもこの場所に大切な人々が住んでいるのは確かである。それを捨てるというのは、決していいことがあったとは思えない。
来年の私が何をしているかは分からないが、今と同じ平和な日々が続いていることを願ってやまない。これ以上私を取り巻く環境が良いものにならずとも、せめてこれ以上悪くなることがないように。
「そうですね……今と同じように、茶屋で桜餅を作って過ごしていたいと思います」
考え抜いた末に自分の考えを簡潔に述べると、旭はやや不満げというか、納得いかないような顔でこちらを見つめている。何か気に障ることでも言ってしまっただろうかと思い謝ろうとすると、それよりも先に旭が口を開く。
「これはわしの知人の友人から聞いた話なのだが、鬼は来年の話をすると笑うらしい」
「鬼が?」
「ああ。出来もしない先の話をすると、鬼といえど腹を抱えて笑うのだそうだ」
知人の友人の話となると、随分遠い関係の人間の話である。いや、他でもない旭の知人の友人なのだから、もしかすると人ではないのかもしれないが、何故突然そんな話が出て来たのだろうか。
「あの、何故そのようなお話を?」
考えてみても結局答えは出ず、控えめに尋ねてみると、旭はやや拗ねたような、うまくできずに落ち込むような、そんな表情を浮かべて見せる。
「……鬼が笑うならば、人も笑うだろうと思ったのだ」
来年の話をすると鬼は笑う。出来もしない未来の話をすれば、どれだけ恐ろしい鬼といえどあまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまうという言葉である。私の語る未来を出来もしないものと笑おうとしたとも取れるが、そうではないのだろう。
旭は笑わせようとしたのだ。人混みの中、たった一人で佇んでいるかのように俯いて歩く私を。空をも覆う巨体の持ち主が、たった一人の小さな娘のために、知恵を絞って考えていたのである。こんなに大きくて子どものような心強い味方がすぐ隣にいたというのに、私はどうして一人で縮こまるような真似をしていたのだろう。
気付いてみると誰にも気付かれないように背中を丸めていたことが馬鹿馬鹿しくて、娘一人のために旭がそこまで考えてくれたことが嬉しくて、思わず口から笑い声が溢れた。しかしこれでは本当に来年の話をすると私が笑うと勘違いされてしまいそうだと思い旭の顔を見上げれば、存外嬉しそうな旭の顔が目に飛び込んできてさらに笑いが止まらなくなってしまった。
来年の話をしてもしなくても、旭が笑うことなどないというのに、それでもどこか旭の表情からは喜びが滲み出していたのである。
「……おかしな方ですね」
漸く笑いがおさまってそう言えば、旭はやや不服そうにこちらを見つめる。
来年の今頃が、今よりも悪くならないことを願ってやまない。けれど、それはあまりに虚しい生き方であることも分かっていた。どうせ望むなら、馬鹿馬鹿しいほど大きく、鬼すら笑わせるほどに欲張りな願いを口にしたい。
「来年、やりたいことができました」
「何だ」
「またこうして、旭様と来年の話をすることです」
「わしと?」
「ええ。旭様と、父と、それから弥四郎様と九郎兵衛様も一緒に、来年の話をしたいです」
旭は笑わなかった。その代わり、穏やかな顔で「そうか」とだけ言葉を返してくれる。笑わないということは、そんな未来が馬鹿馬鹿しいほどに縁遠いものではないと思ってくれているということでいいのだろうか。人の顔色を窺うことに慣れているとはいえ、旭の表情はまだ読めないことが多い。来年は今よりもう少し、旭の感情を読み取れるようになっていたいとも思う。
「お梅さん、そろそろですか?」
「ああ、この辺りだよ。ここをもう少し行ったところで……」
「おっかあ?」
お梅の言葉と重なるようにして聞こえてきた声の主の姿を探すと、お梅の目の前に疲れた顔をした町人が立っている。おっかあという言葉から察するに、恐らくこの人がお梅の息子なのだろう。
「おや、麻一郎、どうしたんだい」
「どうもこうもねぇ! 一体どこ行ってたんだよ! また勝手に出歩きやがって!」
麻一郎というらしいお梅の息子は、お梅を見るなり驚いたようにそう叫んだ。口調こそ強いが、どうやらお梅を心配しているらしいその言葉は、お梅に早く死んでほしいと願っているとは思えない。周囲にお染らしき人の姿が見当たらないこともあるのだろうが、それにしても麻一郎の様子はあまりにも普通で、思わず旭と顔を見合わせた。
「お梅さん、これは一体……」
「……おっかあ、とにかく行くぞ」
呆気にとられて思わずお梅に尋ねるが、お梅が振り返るよりも先に麻一郎が私と旭に気付き、お梅をさっさと立ち上がらせた。
お梅を信じたいのは山々だが、どうも目の前の光景とお梅の言葉が一致しないような気がする。果たしてどちらを信じればいいのだろうか。
「あ、あの……」
「……何だってこんな奴らと」
意を決して発した言葉を遮るのは、容赦なく吐き捨てられたそんな言葉。私たちに聞かせる意図はなかったのだろうが、独り言のようなその言葉はしっかりと私の耳に届いてしまった。そして恐らく、旭にも。
こんな奴ら。私といたせいで、旭までそんな言葉を投げつけられている。その事実は、ただ心ない言葉を投げつけられるよりもずっと胸を締め付けて、私の呼吸を狭めた。少し前の安堵は何処へやら、足は再び鉛となり、喉はへどろを飲み込んだように詰まっている。これでは言い返すことはおろか、この場から去ることすらままならない。だが、このままでは旭まで私と同じような扱いを受けてしまう。言葉を返すか、旭から離れるか。私にできるのは、後者だ。
そう判断し、足を一歩後ろへ動かしたそのとき、響き渡る轟音が、風の如く私の横を駆け抜けた。何事かと思えば、麻一郎が閉じかけた戸を、旭が無理やりにこじ開けている。麻一郎の顎は外れそうなほどに落ちており、旭を遠巻きに見る人々の顔も似たようなものであった。
「なっ、なん、何だおめぇ、人ん家にかっ、勝手に入ってくんじゃねぇよぉ」
「入ってはおらぬが」
既に半泣きになりながら旭を追い返そうと試みる麻一郎には構わず、いつもの調子で答える旭。対する麻一郎の膝は笑っており、立っているのがやっとの様子である。旭は恐らく脅かすつもりも、怖がらせるつもりもなかったのだろうが、それでもあの巨体で迫られれば誰でも腰を抜かしてしまう。ここまでくると、麻一郎が少し気の毒に思えてきた。
「かっ、帰れ! 出て行け!」
「確かめたいことがあるのだ。それまでは帰れぬ」
麻一郎は必死に旭が押さえた戸を閉じようとしているが、どれだけ引いても戸はびくともしない。旭と力比べをするというのは、人の体ほどもある岩を動かすようなものである。大人しく旭の問いに答えた方が賢明だろうが、麻一郎にそれを伝えたところで、恐らく聞き届けられはしないだろう。
死を覚悟したように喚き始める麻一郎に、旭が静かに顔を近づけ、僅かに首を傾げたような気がした、その瞬間。
「てめぇらッ、うちの主人に何してやがるっ!」
どこからか聞こえてきた女の声に驚き振り返ると、何やら向こうからこちらへばたばたと走ってきている女の姿が見えた。釣り上がった目に固く結ばれた唇。薄紫の着物に身を包んだその女の手には、恐らく水汲みをしてきたと見えて、水汲み桶が──。
「旭様、避け……」
これから私たちに何が降りかかるのかを察知して旭の袖を掴むと、逆に旭の背中が視界に広がった。
この背中が目の前に広がるのは、何度目だろう。出会ったばかりだというのに、私は何度もこの背中に守られてきた気がする。
「旭様!」
私の視界に覆い被さる旭の背中。そして、私の声に覆い被さる、水の音──。