第三話 梅を望んで渇きを止む 壱
一人、逃げた。
「朝の赤目というのは朝に生まれた鬼のことだ。日が出ている時刻に力が強まる。対になるのは夜の青目。夜に生まれた鬼で、月が光るような時刻に力が強まる」
二人、逃げた。
「明けの紅には朝の赤目の力が、暮れの藍には夜の青目の力が宿っている。己が持つ力と対になる力に触れれば、鬼の体は弾かれ、隠は消えるという仕組みだ。故に、わしは袋なしで暮れの藍に触れられぬ」
三人、逃げた。
「隠を祓うとき、わしは刀の力を吸っている。鞘の色が濃くなれば刀も重くなり、術も強くなる。その逆も然りだ」
とうとう四人逃げた頃、父が痺れを切らしたように旭の名を呼んだ。
「……旭、お前……いい加減その髪と髭をどうにかしねぇか」
「どうにかとは何だ」
「切るとか剃るとかだよ。髷は結えねぇにしても、多少整えた方がいいと思うぞ。髪と髭のせいで不気味に見えちゃあいるが、お前は整えりゃどうにか見られる顔になるだろ」
「江戸では頭の毛も整えなければならぬものなのか?」
「少なくともお前さんみたいな頭のやつはそうそういねぇな。それに……」
五人、逃げた。
ここまでくると、父のため息が深刻なものになってくる。
「……さっきから、お前を見た客が悲鳴あげて逃げてんだよ」
茶屋の表に腰掛け、桜餅を頬張りながら鬼について話す旭を目にした客は、軒並み鬼でも見たかの如く悲鳴を上げて逃げ出していた。実際に旭が鬼であることは違いないのだが、今の旭の姿は誰の目から見ても人のものである。
つまり、茶屋の近くを通りがかる人々は皆、人の姿をした旭に驚き、逃げ出しているのであった。お陰で茶屋の客足は途絶え、あまりの寂れ具合に閑古鳥すらも逃げ出しそうである。
「そのようなことはない。わしは今、人の姿をしているのだぞ。人を見て人が逃げ出すことなど……」
ありはしない、と言いつつ、近くを通りすがった人に目をやる旭。すると、旭と目が合った男は情けない悲鳴を上げ、自分の足に躓きながらほうほうのていで逃げていった。その背中を見送り、旭は手に収まった桜餅に目を落とす。
「……うまく化けているつもりなのだがな」
「たとえ人に化けようと、元が鬼なら恐ろしさは変わらんのだろう」
背中を丸めて落ち込んだ様子の旭を、ここぞとばかりに仁王立ちで見下ろす萩之進。その肩には、萩之進の言葉に同調して旭を威嚇するおはぎの姿があった。
先日、旭に助けられておきながら旭を斬ると宣言したこの男が、何故ここにいるのだろう。私のことを鬼扱いする気はもうないようだが、相変わらず私や旭への態度の悪さは健在であるし、私としてはあまり顔を合わせたくない相手である。
「……ところで、お前さんは何でここにいるんだ。旭を斬るのは刀が戻ってきてからなんじゃなかったのか」
「敵を知るために決まっているだろう。敵を倒すためには、敵の弱みを知る必要がある」
「お前さんが何しようと勝手だけどよ、うちは茶屋なんだ。茶を飲まねぇならさっさと帰んな」
「それなら団子を寄越せ。これで俺も客だろう」
萩之進はこともなげにそう言い放ち、旭の隣にたっぷり間を開けて腰掛けた。
嘗て私を鬼呼ばわりしたどころか刀を突き付けた相手とあって、父は不満げに唸っているが、ただでさえ客が来ない中となると、そんな相手といえど客を逃すわけにはいかない。
そんな父を尻目に、萩之進は得意げに鼻を鳴らしながら「どうした」と尋ねてくる。早くもてなせということだろう。その言葉には答えず私がいる家の中へと踏み込んできた父に、盆に載せた団子と茶を手渡すが、父はまだ怒りが治らないのか、忌々しげに顔を歪めていた。
「……あの野郎……茶でもぶっかけてやろうか」
「どうか堪えてください。さらにお客が来なくなってしまいますよ」
「へっ、あんな客、こっちから願い下げだっての!」
そう吐き捨てながら乱暴に萩之進の隣へ盆を置いた父は、ついでのように旭に尋ねた。
「旭、たとえばお彩が隠ってのに乗り移られたら、此奴みてぇに汚ねぇ言葉吐いたりすんのか?」
「宿主の人間を操って周囲から嫌われるように仕向け、宿主の怒りや悲しみによって力を蓄えるということならあるそうだ。その理で考えると、普段と異なる言動をすることもあるということだな」
「なら、此奴にまだ隠が取り憑いてるってことはねぇのか?」
「陰の臭いがせぬ。萩は元よりこういう人間なのだろう」
「……おい、何だその萩というのは。おい」
すかさず萩之進が食ってかかるが、旭はそれを涼しい顔で受け流した。
名が長くて覚えられないという訳で、旭は萩之進のことを萩と呼んでいる。弥四郎と九郎兵衛が互いを呼び合うときと似ているようだが、旭と萩之進はあの二人のように親しくはない。どちらかといえば、互いの名を覚えることすらも億劫な仲という感じだろう。
萩之進はともかく、旭はあまり萩之進を嫌っている訳ではないように見えたのだが、時折ほんの僅かに顔をしかめ、喧しいというように耳を塞いでいるのを見ると、どうやらそうではないらしい。執拗に旭を追い回して弱みを聞き出そうとする萩之進を、旭も疎ましく思っているようだった。
「お彩、桜餅はまだあるか」
不意に旭が立ち上がり、空になった盆を持ってくる。つい先程、桜餅を二つ渡したばかりなのだが、もう食べてしまったのだろうか。
「もうなくなってしまったのですか?」
「そのようだ。まだ一つしか食っていないと思ったのだがな」
「お前のことだ、知らねぇうちにぺろっと食っちまったんだろ」
「わしとてそのようなことはないぞ。一つ一つ大切に味わって……」
父の言葉にやや不満げに答えようとした旭の目が、不意に父の背後に向けられる。怪訝そうな表情を浮かべる父の隣を通り過ぎたかと思うと、旭は徐に何かを摘み上げた。犬や猫かと思う摘み方だが、旭に持ち上げられ、手足をばたつかせているのは人間であり、しかも老婆である。
「何をなさっているのですか!」
思わず声を上げて旭に駆け寄り、老婆を掴んでいる手を引き剥がした。老婆は驚いたように浅い呼吸を繰り返しているが、どこか怪我をした様子はない。
「大丈夫ですか?」
それでも念のため確かめようと声をかけ、頭や顔を隠す風呂敷を家の中に落としてきてしまったことに気付いた。しかし、老婆の顔は既にこちらへ向けられており、逃れようがない。
蔑みか、驚きか。兎に角よくないものが来るであろうと覚悟を決めた私の頰に、ざらざらとした手が触れた。
「かわいい子だねぇ」
驚いて目を瞬かせる私をよそに、老婆の左手は相変わらず私の頰を撫で続ける。よく見ると、その右手には桜餅が握られていた。旭はこれを見て老婆を摘み上げたのだろう。
「その桜餅……」
「……おお、お前さんのものだったかい。すまないねぇ……少し、腹が減ってしまってね」
人のものを盗ったことはよくないことだが、他でもない老婆のしたことだ。どういうわけか私のことを気味悪く思う様子もないし、このまま桜餅をあげたところで不都合はないだろう。
「……よければ、もらってください」
「おや、いいのかい。わしは銭など持っておらぬよ」
「構いませんよ。それより、もうこんなことはしないでくださいね」
「ああ、ああ、すまないねぇ。ありがとうねぇ」
老婆は細い目をさらに細め、杖をつきながら去っていった。その背中は丸く、足取りも危うい。そんな老婆のそばに付き添う人がいないというのは、なんとも心許ないように思えた。
「……情けをかけたつもりか。白人風情が」
「旭様、人間のご老人は萩之進様のように頑丈ではないのです。あのように扱ってはいけませんよ」
萩之進の吐き捨てた言葉を無視して向き直ると、旭は少々不満げにこちらを見つめていた。
分かっている。人の物を盗った者が許される道理はない。けれど私には、どうしてもあの老婆が哀れに思えて仕方がなかったのだ。満足に物を食べられない苦しみは私も知っているから、こんな私に哀れまれることこそ哀れだと思っていても、情けをかけざるを得なかったのである。
「……桜餅でしたらまたお作りしますので、今回はそれでお許しください」
「……必ずだぞ」
「はい。必ず」
念を押すような旭の表情が何だか可愛らしく思えて笑みを溢すが、そんな私に構うことなく、旭はどこか別のところを見つめている。
「旭様?」
何かあったのかと尋ねてみるが、答えはない。桜餅を盗られたことがそんなに不満だったのだろうか。気に入っているようだとは思ったが、まさかこれほどまでとは思わなかった。厳つい見目によらず、甘いものが好きなのかもしれない。今度は団子でも振る舞ってみようと意気込む私の隣で、旭は相変わらず、どこか一点のみを見つめていた。