第二話 角なき鬼 肆
「……これは一体どういうことだ」
翌朝早く、茶屋に押しかけて来た萩之進の第一声は、そんなものだった。萩之進の言う「これ」が分からず、隣に佇む旭や父同様に首を傾げかけたが、萩之進の頭上で跳ねる黒い物体を見て漸く理解する。
掌いっぱいの大きさの饅頭だ。いや、ここまで大きければもはや饅頭とは言えないだろうが、その巨大な饅頭が、まるで生きているかのように萩之進の頭の上で飛び跳ねているのである。よく見ると、青い点が二つ、目のようについているのが分かった。これは一体、何なのだろう。
「……猫では、ございませんね」
「当たり前だ阿呆。こんな猫がいてたまるか」
「あ、阿呆……」
流れるように飛び出した罵倒に驚いていると、旭は不意に萩之進の頭の上で跳ねる物体を右手で掴んだ。その瞬間、ぎえっというような鳴き声が聞こえた気がする。見た目に反し、鳴き声が可愛らしくない。
掴んだ物体を握ったり離したりする旭。そのたびに、旭の手の中のそれは呻き声のような声を上げた。旭はそれを手の中で握りながら黙って見つめ、何でもないことのように言う。
「鬼だな」
「はぁ⁉︎」
「お、鬼?」
だが、旭の手の中の鬼とやらに角は見当たらない。どこもかしこもつるりとしていて、鬼というよりおはぎに近いような形をしていた。
「これは隠でありながら姿を持ち、鬼でありながら角を持たぬ、隠と鬼の狭間に位置する鬼だ。明けの紅で吐き出させたために半端なまま出て来たのだろう」
明けの紅というのはあの赤い太刀の名であると旭は教えてくれた。青い太刀は暮れの藍というらしく、どちらも変わった名の刀である。
「鬼は人の怒りや悲しみを食う。隠であれば取り憑いて力を得るが、鬼になれば人に取り憑くことはできぬ。鬼が人を喰うのはそれが理由だ。人ごと喰えば手っ取り早く力を手にできる」
「明けの紅……つったか、あの太刀で祓えねぇのか?」
「できぬな。だが、此奴は今のところ人を喰える大きさではない。隠ではなくなった以上、人に取り憑くこともできぬだろう。心配は要らぬ」
「おいおい、放っておけってのか。此奴は鬼だろ?」
「わしも鬼だが」
「お前はもさもさ桜餅食ってるだけだからいいんだよ。此奴は見るからにほら……凶暴じゃねぇか」
父の言う通り、旭の手の中で毛を逆立てた犬の如く暴れる鬼は凶暴そのもので、今にも旭の手に噛みつきそうである。
旭が父に認められたのは、鬼を祓い、人に役立つ鬼だと明らかにして見せたからだ。小さい鬼とはいえ、これほど凶暴なものを父が見逃すはずがなかった。
「今の此奴が噛み付いたところで犬や猫と変わらぬ。力を蓄え、人に仇なす鬼となったときには祓うまでだ」
旭はそう言うと、鬼を握っていた手を開いた。その瞬間、鬼は呪縛から解き放たれたように萩之進の元へと跳んでいき、萩之進に追い払われると私の方へと跳んできた。
私の手に擦り寄る姿は鬼とはいえ猫のようで愛らしく、触った感じも餅のようで気持ちがいい。微かに聞こえる「みっ」という鳴き声も、まるで子猫のようだ。九郎兵衛のような鬼ともなれば祓う必要が出てくるかも知れないが、この大きさならばその心配はないだろう。
「おはぎのようで可愛らしいですね」
「おはぎとは何だ」
「ついたもち米を餡子で包んだ菓子でございますよ。ちょうどこのような見た目をしているのです」
菓子の話題に目を輝かせた旭だが、ふと何かに気がついたように萩之進の方を見やる。
「お前、名は何と言ったか」
「……野守萩之進だ」
「萩……」
萩之進の名をもじり、旭は鬼の方に目を移した。旭に見られていることを感じ取ったのか、鬼は再び犬のような唸り声を上げ始める。同じ鬼とはいえ、旭とは相容れないようだ。目の色が違うからだろうか。
そんなことには構わず、旭は萩之進の肩に乗った鬼を指差した。
「おはぎはどうだ」
「おはぎ?」
「この鬼の名だ。名がなければ呼びづらいだろう」
「鬼に名だと? 馬鹿馬鹿しい」
旭の案に、萩之進は面白くなさげに鼻を鳴らし、肩に乗ったおはぎを鬱陶しげに追い払う。
「此奴のことはいい。こんな雑魚を斬って鬼奉行になったところで、恥晒しにしかならんしな。……それよりも」
瞬間、萩之進の目に鋭い刃が宿った。人を殺めそうなその瞳は、数日前にこの茶屋に来たときと同じものである。
「祓うべきはお前だ。旭鬼」
「旭だ。旭鬼ではない」
「どちらでも構わん。俺が此奴の正体を知るためだけに此処に来たと思っているのか」
旭の訂正を一蹴し、萩之進は鞘を握った状態で脇差の側面を旭に突きつけた。
「今は貴様に刀を折られたせいで、貴様を斬ることは叶わんが、刀が再び手元に来た折には、この手で貴様を斬る」
「待ってください、昨晩、貴方は旭様に助けられたはずです! それが何故……」
「助けろと頼んだ覚えはない。いいか、覚えていろ」
旭の前に立ちはだかった私を押し除け、萩之進は旭に詰め寄った。その肩では、そんな萩之進に同調しているのか、おはぎが旭を威嚇する。
「俺は必ず、貴様を斬る。首を洗って待っていることだ」
剣呑な雰囲気の中、お互いにお互いを睨みつける二人の男。片方は本物の鬼だが、もう片方も鬼にも劣らぬ気迫で旭に詰め寄っている。
角なき鬼の静かな戦いの火蓋が、今ここで切って落とされたように思えた。