第二話 角なき鬼 参
いよいよ訪れた約定の日──端に橙がにじみ、鬼の刻が近付いていることを知らせる江戸は、やはりまだ人通りが多い。家の陰からそっと様子を窺う私の肩に手を置き、父はやや厳しい顔で私を見つめた。瞳の奥に宿る光が鋭く私を縫い付ける。
「いいか。俺が帰るまで大人しく待ってるんだぞ」
「ええ。お気をつけて」
心配と、ほんの少しの罪悪感を抱えつつ、父の背中を見送った。
数日前の晩、旭にはああ言われたものの、それを素直に父に打ち明けたところで納得するはずはない。そこで、どうしても旭の様子が気になるので、呼ばれた通りあの場所に行ってみたいと言ってみたのだ。旭の元へ行くと言って聞かない私を見れば、父は自分が代わりに様子を見に行くと言うに違いないと思い、実際そのようになった。父を騙すのは気が引けるが、それでもやはり旭の言葉は気になるのだ。
結局、昨日は旭の「鬼を倒す」というのがどういうことなのかを聞くことはできなかった。鬼を倒すとはいっても、旭もその鬼であるし、それは同族殺しになる。人間のように奉行が目を光らせていることはないだろうが、鬼が鬼を倒すというのはどうにも妙な話であるように思えた。
とはいえそれも、旭に言われた通り、あの場所へ行ってみれば分かることだ。日が暮れて人がいなくなるのを見計らい、そっと外へ出る。そのときいつもの癖で懐から取り出した笛を吹こうとして、そのまま笛を懐に仕舞った。
懐から取り出した小さな黒い笛は、九郎兵衛から渡されたものである。社から家に着いたとき、あるいは家を出るときに吹くと、九郎兵衛の術が発動するのだ。社へ行くときに限らず、夜道を一人で歩くときにはいつも吹いていたため、癖になっていたのだろう。今回は父と落ち合うため、この笛を使うわけにはいかない。つまりそれは普段よりも鬼奉行に警戒しなければならないということだ。そして鬼にも。
風呂敷で頭を包み、懐の簪を確かめた。小さく息を吐き、家の戸を閉じて夜道を駆けていく。
月は丸い。どこも欠けることなく、最も月らしい形をしている。そのお陰か、今宵の江戸は普段より幾分か明るいように思えた。呼び出されているのは数日前に私と旭、そしてあの男が相見えた場所。だが、既に日が暮れているところを見るに、恐らくは目より耳の方が先に旭たちの居場所を捉えるはずである。
その刹那、刀がぶつかり合う音が微かに聞こえてきた。近い。やはり既に始まっていたようである。物陰に隠れつつ音に近付いていくと、男の脇差と旭の太刀が斬り合いを繰り広げているのが見えた。男の脇差は鞘を取り払い、数日前と同じくその牙を剥き出しにしているのに対し、旭の赤い太刀は鞘に収まったまま脇差を受け止め、青い太刀は依然鞘と袋に守られたまま旭の背中に背負われている。男と共にいた赤い着流しと青い着流しの男は、やや離れた場所から二人の斬り合いを見守っているようだ。しかし、その表情には僅かな戸惑いが窺える。
「……やはり、妙ではないか」
青い着流しの男が言う。赤い着流しの男は答えこそしなかったが、小さくため息をついて頭を掻いた。
「あのように乱れた剣、萩之進殿のものとは思えぬ」
萩之進というのは、あの小柄な男の名だろう。萩之進と旭の方を見やると、どうやら勝負は互角のようだった。しかし、言われてみれば確かに青い着流しの男が言うように、萩之進の剣にはやや乱れが見られるような気がする。それだけではない。旭の方は全く呼吸を乱していないというのに、萩之進は一晩中戦っているかのように息を荒くしている。この差は何なのだろう。鬼か人かという違いか、それとも、何か別の理由があるのだろうか。
「刀は牙を抜かれた刃だ。そのようなもので鬼は倒せぬぞ」
「黙れ!」
萩之進の振るう脇差を、旭は顔色一つ変えることなく太刀で受け止めた。そのたびにまるで鋼同士がぶつかり合うような音を響かせる太刀には傷一つない。
旭は我武者羅に振るわれる萩之進の刀を受け止めるばかりで、自ら反撃に出ようとはしない。押されているのかとも思ったが、あれはどこか、何かを待っているようである。
「……だとしても俺は、やり遂げねばならんのだ」
滴る汗は男の足元に雨のような点を作り、吐き出す息は獣のよう。
「そのためにも……ここで朽ちるわけにはいかん!」
ここで、朽ちる。
その言葉に対して覚えた違和感と共に、蘇るのは初めて相見えた際の萩之進の言葉。──漸く見つけたぞ、と萩之進は言った。人目を忍んで夜道を歩く私を、探していたかのような口ぶりで。
あの男は一体、何に急き立てられて私を探していたのだろう。白髪に赤目の私を鬼と謗ったあの男は、何を焦って私を探しているのだろう。
噛み付くように刀を振るう萩之進。再び旭に弾かれるが、すかさず低い姿勢から刀を突き上げた。しかし旭の手から太刀は剥がれず、腹目掛けて振るわれた太刀を、萩之進はまるで鼬のような素早い動きでかわす。そして再び斬撃を放つが、やはりそれも防がれた。
刃を交わすべきという言葉の通り、旭は言葉を発することもせず萩之進の剣を受け流している。旭のその剣はまるで素人のものだが、逆にいえば萩之進の剣が素人にも防がれてしまうほど乱れているということであった。
繰り広げられているのはもはや斬り合いなどではない。萩之進による一方的な斬りかかりと、旭による受け流しである。旭は一体何を目的としてこれを続けているのだろうかと思案を巡らせた刹那──旭が口を開く。
矢張りか。
確かにそう口にした旭の視線を辿っていくと、その先にいるのは萩之進である。──否、萩之進でありながら、それは萩之進ではなかった。萩之進の形をした、何かであったのだ。
思わず叫び出しそうになる口を咄嗟に塞ぎながらも、その光景から目を逸らすことができない。
苦しげに呻き声を上げつつも、萩之進は旭に刀を向ける。爛々と輝くその目は、白眼を黒く染め上げ、灰みがかった空色を宿していた。赤でこそないが、その瞳には覚えがある。
数日前の朝に目にした、恩人の瞳。鬼のような人間から私を助けた鬼だけではなく、その鬼のような人間もまた──鬼であったとは。
明らかに人に仇なす鬼を目の前に、顔見知りの姿を探そうと辺りを見回すが、父の姿はどこにもない。物陰に隠れているのかとも思ったが、満月によってできた影すらも見当たらず、あるのは赤い着流しと青い着流しの男、萩之進、旭、そして私の影だけである。一体、父は何処に行ってしまったのだろうと考えを巡らせる中、辿り着く結論はただ一つ。
「お彩」
「え?」
よくない方へと回り始める思考に、旭の声が割り込んだ。突然近付いてきた声に顔を上げた刹那、鋼がぶつかり合う音。思わず悲鳴を上げる私の眼前に立ち塞がった旭の背の向こうでは、鬼となった萩之進が旭に食らいつこうと刀を振るっていた。その刀を押し返し、旭は顔だけをこちらに向ける。
「寿五郎は駄目だったか」
旭が言っているのは、父がここにくることを拒んだのかということだろう。だが、父は確かに此処へ向かうと言っていたはずであるし、考えられる父の行き先はただ一つ。
「父は恐らく、鬼奉行さまを呼ぶ気でございます」
「わしを退治させるつもりなのか」
何でもないことのように言い放つ旭に、早く逃げるように伝えようとするが、それよりも先に萩之進が旭に襲いかかる。
「旭様、早くお逃げください!」
「逃げぬ」
私の叫びに短く言葉を返し、旭は再び刀を弾き返した。
「このままでは、人の手で人が殺められるぞ」
「人……?」
人というと、この場にいるのは戸惑いを隠せず立ち尽くす赤い着流しと青い着流しの男、それから私のみである。鬼奉行が退治するのは鬼であって人ではないはずだというのに、一体どういうことなのだろう。
そんな問いを抱えたまま旭の背中を見つめていると、不意に岩壁のような背中が動いた。
「あの萩某という男は鬼ではない。あれはまだ人だ。角が生えておらぬだろう」
言いつつ、旭は萩之進を指差す。灰色がかった薄い青目は明らかに鬼のものだが、確かに額を見る限り、角のようなものは生えていなかった。
まだ鬼ではない。つまり今の萩之進は鬼になりかけているということなのだろう。
「あの男からは微かだが陰の匂いがする。あの男そのものが鬼なのではなく、あの男の中に潜む何かが鬼のようなものであるだけだ」
「鬼のようなもの?」
「ああ」
野犬のような雄叫びの向こう、戸惑いを隠せずに立ち尽くす赤と青の着流しの男たち。彼らの着流しは、鬼の瞳の色によく似ていた。
「隠という、姿を持たない鬼がいる。あの男に乗り移って体を操っているのはそれだ。隠は人の体で成長し、姿を持てるだけの力を蓄える。そうして人の体を食い破って外へ出てくるのだ。寿五郎が言うように、隠の宿主の首を落とせば、宿る隠ごと殺せるが……」
小さく、旭はため息をつく。いや、軽く息を吐き出したのだ。それはどこか、術をかける際の九郎兵衛の仕草に似通っているように思える。九郎兵衛が術を使えるのだとすれば、旭もきっとそうなのだろう。
「それをせずに、隠を消す術があるのですか」
確信を持って投げかけた疑問に、旭はしっかりと頷いて見せる。
思えば旭は、父の脇差はいとも簡単に折って見せたというのに、萩之進の脇差は弾くばかりで一向に折ることをしなかった。もしかすると、その術を使う機会を窺っていたのかも知れない。
手にした赤い太刀の鞘、鍔の下の部分を右手に持ち、その拳のすぐ下を左手で持つ。旭の軸と太刀の向きを合わせるこの構えは、旭の術の構えの姿勢なのだろう。そのまま旭は静かに目を閉じたが、その隙を突いて萩之進が襲ってくる様子はない。それどころか、獣のような低い姿勢をとる萩之進の手は、静かに震え始めていた。
あの晩と同じく、まるで自然の息吹を前にした小動物のように、萩之進の本能は旭の前に平伏しているのだ。
静かに吐き出された息の主は、その額に黒い角を生やし、異形のものへと姿を変える。そして刀を握る手に力を込め、低く、唸るように口にした。
「明けの紅──退紅」
まじないの言葉が吐き出されるのと同時に、太刀を握っていた旭の左手が真っ直ぐ下に下ろされ、太刀の先が弧を描いた。旭の左手が撫でた太刀の鞘は鮮血のような赤から、灰色がかった赤に姿を変えている。
纏う色を変えた鞘に包まれた太刀を再び持ち直し、旭は静かに萩之進を見つめた。
「……鬼は名に夜を背負い、闇を率いる者。体がない分、鬼より厄介やもしれぬな」
桜餅を食べていたときの、あの穏やかな子どものような雰囲気は影もない。今、私の目の前にいるのは、紛れもなく鬼なのだと感じさせられた。ここからでは角は見えず、目も見えない。鬼たる特徴は何一つ見えないというのに、その声の気迫は明らかに人のものとは思えなかったのだ。
「だが、わしは旭。名に朝を背負い、光を導く者だ」
その色を変えた太刀を萩之進へ突きつけ、旭はそのまま地面を蹴って突進していく。迫りくる巨体にやや動揺を見せた萩之進だが、鬼奉行を志す者とあって覚悟を決めたのか、脇差を片手に旭に斬りかかった。しかし、旭の言葉通り、牙を抜かれた刃で鬼が斬れるはずもない。振り下ろされた脇差は父の脇差同様、旭の指につままれてその役割をあっさりと終えた。
「体を返してもらおう」
丸腰状態で無防備に晒された萩之進の腹に、旭の振るう太刀が容赦なく食い込んだ。その瞬間、何かが弾けるような音が響いたかと思うと、萩之進の体は何やら口から黒いものを吐き出し、そのまま勢いよく後方へ吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。激しくむせ返る萩之進の瞳は既に人のものへと戻っており、それを確認した男たちが慌てて萩之進の方へと駆け寄る。咳き込んでいるのを見るに、息はあるようである。自分を斬ろうとした男とはいえ、目の前で人が死ぬ事態を回避したことに、ほっと息をついた。
鬼を倒すという旭の言葉の意味が、ようやく理解できた気がする。人による人殺しをさせないために、旭は鬼による鬼退治を行う。それも、旭の言う「人と鬼とが手を取り合える世」の実現のために必要なことなのだろう。
「これで……もう大丈夫なのですか?」
「ああ」
短く答えると、旭は再び右手で太刀の鐔のすぐ下を持ち、左手で太刀の反対側の端を握る。先程太刀の色を変えた際とは逆の構えで太刀を握ったかと思うと、左手を上に持ち上げ、拳をぴったりと右手にくっ付けた。すると不思議なことに、太刀の鞘の色はあの艶やかな赤に戻ったのである。
九郎兵衛もそうだが、鬼というのは何とも不可思議な術を使うものだと思いながらその様子を見ていると、不意に旭が萩之進の元へと近付いていく。意識はあるもののぐったりとした様子の萩之進は、地べたに腰を下ろしながらも旭を睨み付けた。
「……お前は、何なんだ」
問いの意図が読めないのか、旭は首を傾げて暫し考え込んだのち、短く答える。
「……鬼殺しの旭だ」
鬼殺し──?
萩之進の顔がそう訴えかける。私に名を名乗ったとき、旭は陰依山の旭と言っていたはずだ。私も鬼殺しの旭という名は初耳である。
「好きなものはお彩の作る桜餅だ」
何を思ったのか、誇らしげにそう付け足す旭。
聞きたいことはそうではないというように、萩之進は態とらしくため息をつく。だが、苛立たしげな態度を見せる萩之進から、旭に斬りかかろうという意思はもう見えなかった。
萩之進に名を名乗ると、旭は用が済んだというように踵を返してこちらへ向かってくる。しかしその途中、私とすれ違う数歩前で立ち止まった。
「……どうかなさいましたか?」
「……寿五郎」
呟いた旭の視線の先を振り返れば、確かにそこには父が立っていた。脇差こそ差していないが、その目は鋭くこちらへ向けられ、刃以上の鋭さを持っている。
そういえば、絶対に家から出るなと釘を刺されていたのだった。元よりこのつもりだったとはいえ、それは旭が鬼を退治するところを父に見せ、旭が人に仇なす鬼でないことを明らかにしようと思ったためである。私に嘘をついてまで鬼奉行を呼びに行った父を説得することはもはや不可能であり、その父と今ここで鉢合わせるというのは、どう考えても最悪の事態だった。もし家を追い出されることになれば、そのときはまた弥四郎に迷惑をかけてしまうだろうかという思考を、父のため息が遮る。
「もうじき、鬼奉行が来る」
父は静かに言った。続く言葉を、ただ待つ。
「……さっさと帰るぞ」
ぶっきらぼうに言い放ったかと思うと、父は私に背を向け、家へと歩き始めた。そんな父の背と旭を代わる代わるに見つめ、どちらを選ぶべきかと戸惑っていると、不意に父が足を止めた。
「何やってる。帰るぞ」
「ですが……」
意を決し、恩人を見捨てるわけにはいかないと何度目かの説得を試みた私の言葉を、父の声が遮る。
「旭」
呼ばれたのは恩人の名。父は旭に背を向けたまま、ぼそぼそと小声で言葉を続けた。
「……首を落とされたくなけりゃ、お前もさっさと来い」
さっさと来いと、父は言った。確かに、旭に向かって。
思わず旭を見上げれば、旭は表情を変えないまま、父のいる方へと足を進めた。私もすぐにその後を追う。旭が素直についてくるのを見ると、父はほんの少しだけほっとしたようだった。
「いつからいたのだ」
「お前があいつを刀で吹っ飛ばすより少し前にな」
つまり、父は旭が鬼になった萩之進を人間に戻すところを見ていたということになる。人に仇なす鬼でないと分からない限り、旭を家に泊めることはできないというあの言葉に嘘はなかったらしい。
「……もっと早く、お前と会えてりゃあな」
ぼそりと呟かれた言葉に、旭が聞き返す。
「何だ」
「いいや、何でもねぇよ」
父はそう言ってあの無邪気な笑みを浮かべて見せた。
聞きたいことはたくさんある。あの術のことだとか、隠のことだとか。けれど今は父と旭が肩を並べて歩いていることに安堵して溢れ出てくるあくびを噛み殺すのに忙しい。尋ねるのは、明日で構わないだろう。
目覚めれば、すぐそばに旭がいる。そんな日々が、漸くまた始まろうとしているのだから。