第二話 角なき鬼 弐
百歩譲って旭が人を喰わない鬼だとしても、旭が人に仇なす鬼でないと分からない限りは家に泊めることはできない。寝場所ならよそを当たれ。
これが父との押し問答の結果得られた妥協案であった。とはいえ、旭は外から来た身。泊めてくれる知り合いのあてなどあるはずがなく、取り敢えず私の知り合いの中で、旭を泊めてくれそうなところへ案内することにしたのである。茶屋を閉めた後の人気のない夜道を、再び人の姿となった旭と歩くことになるとは。
「お彩」
「何でしょう」
旭の声に振り返ることなく答える。視線は辺りに人影がないかを確かめる為にあちこちへ向けられており、旭の声に振り返る余裕などなかった。
「あの男は鬼奉行なのか?」
旭の言葉に、思わず前へ進めかけた足を止めた。
鬼奉行所。それは江戸に出没する鬼を退治するべく発足された奉行所であり、江戸において鬼退治を行う者は殆どが鬼奉行所の人間であると言ってもいいほどだ。鬼奉行所の人間の特徴としては、夜道に武器を携えて出歩き、常人とは異なる奇妙な格好をしているというものがある。着流しを纏っていたあの男も、そう考えると鬼奉行所の人間とも考えられるが──。
「……あの方は、鬼奉行様ではございませんね」
「何故だ」
「あの方が仮に鬼奉行様だとして、刀を使われる方だとすれば、太刀と脇差を差しているはずなのです。ですが、あの方が差していたのは脇差のみ、太刀を差すことが許されていない証です。恐らく、出世のために鬼を狩ろうとしている方かと」
「鬼を狩ると太刀を差せるのか?」
「鬼奉行所に入るためには、何らかの手段で鬼を一匹狩る必要がありますから。鬼奉行所は特殊な武器の携帯やかぶき者の格好も許可されていますし、腕に自信がある方が鬼を狩ろうとするのは珍しくありません。ほとんどは鬼に喰われて終わりですが……家柄ではなく己の力を持ってして入ることができる奉行所とあって、どなたも凄腕揃いだと聞いています」
それもあって、鬼奉行所の人間は決して多くはなく、数人しかいないと言われている。刀、弓、薙刀の他に外国の道具を使う者もいると聞くが、夜に活躍する奉行所であるため、実際のところはよく分かっていない。何にせよ鬼の証として知られている赤目である私は、できるだけ関わりたくない相手である。あの男のように言いがかりをつけられてはたまったものではない。
鬼や鬼奉行の姿がないことを確かめ、足早に夜道を歩く。旭も私の隣を歩いているが、私よりも体が大きいせいか、その足取りはゆったりとしたものであった。
こうして言葉を交わす分にはこんなにも穏やかな人なのに、何故。
「……旭様は、争いを好まない方だと思っておりました」
控えめにそんな言葉を吐き出せば、旭は怪訝そうな顔をこちらに向ける。
「……昼間にあの方が来たとき『お前とは、言葉ではなく刃を交わすべきのようだな』とおっしゃっていたではありませんか。父に追い出されそうになったときにはそのようなことをおっしゃらなかったのに、何故でございますか?」
「お前の言う通り争いは好まぬが、あの男とは一度刃を交わさなければ言葉を交わすことすらできぬ」
「確かにあの方は、是が非でも旭様と斬り合いたいようでしたが……」
「あの男がわしと斬り合いたいかどうかはさして問題ではない。あの男は少し、妙な感じがするのだ」
妙というと、どこが妙なのだろう。あの男はどこもかしこも妙なせいで、旭があの男のどこに引っかかりを覚えているのかはよく分からない。
「鬼の勘というやつだ。よく当たるぞ」
何というべきか分からずに沈黙を守っていると、旭は私が旭の言葉を疑っていると思ったらしくそう付け足した。
「……ですが、出世のために鬼を狩ろうとしている方だとすれば、少なくとも素人より腕の立つ方ということになります。剣術の心得はおありなのですか?」
「案ずるな。あのような棒切れで鬼は斬れぬ」
「ぼ、棒切れ……」
「鬼があの程度の細い棒切れを恐れぬのは道理だ。お前こそ、鬼が恐ろしくはないのか」
「え?」
思わぬ一言に、足を止めずに旭を振り返る。私とて鬼は恐ろしい。夜道を歩いているのは、昼間に人間に出会すより、夜道で鬼に出会す方が珍しいためである。勿論それだけではないが、ここでは言わずにおく。
「共に来ると言っていた寿五郎の誘いを断っていただろう。それに、わしが鬼だと知っても、寿五郎ほどわしを追い出そうとはしなかったではないか」
つまり旭は、私が夜道を歩いていることと、私が鬼を恐れていないことを不思議に思っているらしい。夜道の送り迎えをしてくれる知り合いがいるという嘘までついて父を振り切ってきたのは、確かに旭にしてみれば不自然だったのだろう。しかし、今ここでその故を話すのは憚られた。
「……ええ、確かにそうかもしれません。それについては、着いてからお話しいたします」
「着いてからとは言うが、一体何処へ……」
その言葉は続かなかった。隣にいる私が、突然足を止めたためである。
「お彩、どうした」
私が足を止めたのは、旭の背ほどもある一枚岩の前。旭の問いかけには答えず、辺りに人の気配がないことを確認し、その一枚岩に顔を近づけた。
「九郎兵衛様、お彩でございます」
小さな声でそう語りかけ、暫し待ってから岩にそっと手を当てる。すると岩は固く私の手を跳ね返すことはせず、水のように滑らかになって私の手を飲み込んだ。それを確認し、隣の旭に目をやる。
「旭様、どうぞ」
私と岩とを代わる代わる見つめ、そっと岩に手を突っ込む旭。私が岩の向こうに体を通すと、旭もそれに倣って岩の向こうへと足を踏み入れた。
暫しの静けさと冷たさを経て、岩の向こうに広がるのは、赤い大鳥居。その脇に生える木々は、まるで大名行列を前にした農民のように鳥居を避けるようにして並んでいる。
どこか厳かな雰囲気を放つ鳥居を潜り、その先にある社へと足を踏み入れると、社の本殿では黒い着流しを着た男が寝転がってくつろいでいた。
しかし、大あくびをしながらこちらへ向けられた目は鋭く、童ならば腰を抜かしてしまうだろう。もっとも、この社に童が足を踏み入れることなどありはしないのだが。
「……お前はまた、妙な縁を連れてきたな」
発せられた低い声に立ち止まり、軽く頭を下げた。
「申し訳ございません、九郎兵衛様。急ぎの用でして、ひとまず話を……」
言葉を遮るように吐き出されたため息に顔を上げた頃には、九郎兵衛は既に姿を消していた。もしやと思い旭を見やれば、九郎兵衛と旭はお互い伸び放題になった前髪が触れそうなほどの近さで睨み合っている。否、睨み合っているように見えるが、恐らく旭の方は突然詰め寄ってきた九郎兵衛を怪訝に思っているだけかもしれない。
「……てめぇ、朝か」
静かに一言、九郎兵衛は呟いた。
旭ではなく、朝。この二人が顔を合わせるのは今が初めてのはずだが、九郎兵衛の口調はどこか、旭を知っているかのようである。
「旭だ」
「旭?」
「わしの名だ」
九郎兵衛は旭の名を聞くと、面白くなさげに旭を見つめたのち、興味を失ったように飛び退き、旭に背を向けた。その背中を見つめながら、旭は静かに口を開く。
「……お前が鬼を恐れぬのは、他の鬼との関わりがあったからだったのだな」
流石に同類を見分ける力は鬼の方が長けている。旭の言葉に素直に頷き、九郎兵衛に目をやった。振り返った九郎兵衛の額には、旭と同様に角が二本生えているが、その瞳は満月に照らされた夜闇の如く青く、噂される鬼とは違った瞳の色をしていた。それに応えるように、旭も角を生やし、目を赤く染める。
「……朝の赤目か。お彩、此奴はどうした」
「昨晩、助けていただいたのです。その恩を返すために家にお泊めしていたのですが、故あって、家に置けなくなってしまいまして……」
「大方、お前の親父に其奴が鬼だって感づかれたってところか」
「ええ……ご存知の通り、父は大の鬼嫌いですから」
「鬼が好きな人間というのはなかなかいないものだろう。仕方のないことだ」
旭のものでも九郎兵衛のものでもない声に振り返ると、鳥居のところに白い着流しに身を包んだ男が立っていた。夜道でも目立つ白髪は私と同じだが、その目は普通の人間と同様に黒い。私のように生まれつきではないようだが、若白髪にしては頭全体が白くなっている。
「弥四郎様……夜分遅くに失礼いたします」
「夜分遅くにも何も、お前はいつも夜にしか来ねぇじゃねぇか」
「あ」
つい口にした謝罪の言葉に対して発せられた九郎兵衛のもっともな言葉に、思わず言葉を詰まらせる。その様子に、少し困ったような笑みを浮かべる弥四郎。
「も、申し訳ございません……昼間はどうしても、人目がありますので……」
「いや、こんなところでよければいつでも来るといい。それに夜ならば、黒のまじないも効きやすいだろう」
「めんどくせぇ……白が送ってやりゃあいい話じゃねぇか」
静かに笑みをたたえた弥四郎に言われると、九郎兵衛は面倒そうに顔を歪めて答えた。
九郎兵衛は弥四郎のことを白、弥四郎は九郎兵衛のことを黒と呼ぶ。鬼の九郎兵衛と人の弥四郎がこうして親しげにあだ名で呼び合っていることを知っているから、旭が鬼だと知っても、それほど恐ろしいと思わずに済んだのかもしれない。
「話はおおよそ聞いていた。そちらの旭殿を暫くこちらにお泊めすればいいのだな」
「申し訳ございません。そうしていただけると助かります」
「鬼となると木賃宿を使うわけにもいかないだろう。此処なら黒のまじないで普通の人間や鬼は入れないようになっているし、賢明な判断だ」
九郎兵衛は人にはできないような妙な術を使う。たとえばこの社を隠したり、先程のように瞬き一つする間に近づいてきたり。私が夜道を歩くことができるのも、九郎兵衛のまじないの存在があるからであった。
「ところで旭殿、お彩は貴殿に助けられたと申しておりますが、お彩は鬼にでも捕まっていたのですか?」
「いや、鬼奉行ではない人間の男たちに鬼だと言われていたところに声をかけたのだ」
「なるほど……人間に」
にこやかに旭の言葉を繰り返した弥四郎は、笑みを崩さぬまま九郎兵衛に目をやったが、その瞳は私たちが此処に来たときの九郎兵衛の瞳の如く鋭い。その目を向けられた九郎兵衛は、歩み寄ってくる弥四郎を見ながら、気まずそうに目を逸らした。
「黒、またまじないを解いたのか?」
「いや、解いたっていうか、解けたっていうか、な?」
にこやかに、静かに、しかし鋭く向けられた問いに、九郎兵衛はやはり弥四郎から目を逸らし、困惑した笑みを浮かべつつ答える。
「……まじないとは何のことだ?」
「九郎兵衛さまより力の弱い鬼や人間の目から、私の姿を隠すまじないでございます」
「お前が夜道を歩けるのはそのまじないがあるためか」
「ええ、聞いたところによると、九郎兵衛さまはかなり強い力を持つ鬼らしいのですが……」
その強い力を持つ鬼の九郎兵衛は今、人間の弥四郎に詰め寄られ、脂汗を浮かべながらじりじりと後退している。
普段はそのまじないのお陰で人目を機にすることなく夜道を歩けるのだが、時折そのまじないがかかっていないことがあり、昨晩もどうやらそうだったようである。
そして、そのことが分かった途端、弥四郎は普段の温厚な態度が嘘のように、それこそ鬼のような恐ろしさで九郎兵衛を責めるのだ。これまでにもこんなことは何度かあったが、実際に言いがかりをつけられたとあって、今回はいつにも増して怒りを露わにしている。
「どうせまた眠りこけていたんだろう?」
「ね、眠りこけてたんじゃねぇよ……ただ少し、うたた寝してたっつーか……少し気が緩んだっつーか……」
目を白黒させながら言い訳を並べ立てる九郎兵衛を前に、弥四郎は笑顔で赤い札を手にした。長四角の薄い木の板で、表面に何やら陣のようなものが彫られている。
「とっ、兎に角、わざとじゃねぇんだって! な! 次から気つけるからその物騒なもんしまっ……」
「問答無用っ!」
普段からは想像もできないような鋭い声と共に、弥四郎が手にした札が九郎兵衛の額目掛けて突き出された。──しかし、九郎兵衛の姿は既になく、札は宙に向けられただけである。
「白、てめぇ……俺が教えてやった鬼祓いの術をそんな風に使いやがって……」
声を振り返ると、私の背後に隠れるように腰をかがめる九郎兵衛の姿があった。弥四郎は呆れたようにため息をつきつつも、それ以上九郎兵衛に札を叩きつけようとする気はないようである。
「弥四郎は鬼祓いの術が使えるのか」
「簡単なものだけですよ。この札を黒に叩きつけたところで少々痛みが続く程度なので、あまり強くはありません」
それでも鬼への対抗手段を持っているというのは十分に凄いことだと思う。前に一度、弥四郎も鬼奉行所が一隅なのかと尋ねてみたことがあったが、自分のような貧弱体質には到底務まらないお勤めだと言われてしまった。男にしては弥四郎の体は細く、その言葉を否定しきれないのが辛いところだ。
「……黒、そろそろお彩にまじないを。あまり遅くなると父上が心配されるだろう」
「へいへい……わぁったよ」
面倒そうに頭をかく九郎兵衛がまじないをかけようとしたそのとき、旭がお彩、と声を発した。
「どうなさいました?」
「三日後の日暮れ、わしが呼ばれたあの場所に寿五郎と共に来てはくれぬか」
「呼ばれた、と言うと、昼間のあの方に呼ばれた場所でございますか?」
「そうだ」
迷いのない旭の言葉に、やや眉をひそめる。それは何というか、あまりにも無謀な気がしたのだ。
「……父と共に?」
「そうだ。来るだけで構わぬ」
「……父には剣の心得などないはずですし、助太刀は難しいかと思うのですが」
「助太刀を頼みたいわけではない。見ているだけで構わぬのだ」
見ているだけで構わない。つまりはあの男との斬り合いを父に見せたいのだろうが、鬼が人より強いのは明白だ。見せたところで何かが変わるとは思えない。
そこまで考えて、ここに来るまでの道のりの中、旭が口にした言葉を思い出した。
──「あの男からは少し、妙な感じがするのだ」──
「……何をなさるおつもりなのですか」
あの男が妙だというのなら、今まで一度も人に刃を向けなかった旭が斬り合いに臨むということこそ妙である。一体旭は何を考えているのかとざわめく胸を沈めるように、旭は「大したことではない」と口にする。そしていつもと変わらぬ様子で、その「大したことではない」ことの内容を打ち明けた。
「明日の夜、鬼を倒すのだ」




