第二話 角なき鬼 壱
「鬼……?」
漏れ出た震え声を聞き、困惑したように頭を掻く旭が何やら言葉を発するより先に、父がはっとしたように立ち上がった。その行動が次に何を呼ぶのかを悟り、咄嗟に旭に向かって叫ぶ。
「旭様、お逃げくださいっ!」
叫ぶ私の目の前で、父は枕元に置いてある脇差に手をかけていた。動く気配のない旭を背に庇い、父と旭の間に立ちはだかる。たとえ鬼であろうと、私の恩人であることに変わりはないのだ。私は旭が何者であるかという事実よりも、この目で確かめた真実のみを信じたい。
血走る父の目を受け、手足が震え出すのを感じつつも、旭を庇うように手を広げた。
「お彩……そこ退け」
「……旭様、下へ」
「だが」
「お早く」
階段へ向かうよう促すと、父は静かに刀の柄に手をかける。ただならぬ気配を感じ取ったのか、旭はようやく腰を浮かせた。かと思うと、不意に私の体が持ち上げられる。何故か、目の前に天井がある。
「へ……?」
どうやら旭に担がれているらしいと分かる頃には、旭は既に階を降り始めていた。揺れる天井と怒り心頭に発して鬼のような形相で追いかけてくる父を代わる代わるに見つめ、訳がわからないまま声を上げる。
「あっ、旭様、何を⁉︎」
「逃げている」
「そ、そうではなくて……とにかく下ろしてください!」
「分かった」
旭は短く言葉を返したかと思うと、その言葉通り、私をそっと床に下ろした。足裏の土の感覚に嘆息する間も無く、遅れてやってきた父は脇差を抜き、その切っ先を旭へと向けている。再び旭の前に立とうとするが、旭の太い手によって防がれてしまった。
「旭様、早くお逃げください!」
「逃げぬ」
父の脇差が旭の目を目掛けて振り回される。刀が左目を隠す前髪を掠め、黒髪がはらりと散るが、それでも旭は動じず、言葉を続けた。
「わしはただ、寿五郎と言葉を交わしたいだけだ」
こちらを見つめる赤い瞳が揺れ、父が振り回す脇差を捉える。私を制する右腕が動いたかと思うと、瞬き一つする間に、父の脇差の切っ先は旭の親指と人差し指につままれて静止していた。父がどれだけ動かそうともびくともしない。そしてまた一つ瞬きをすると、ぱきんと音を立てて脇差の切っ先が砕けた。
「…………」
「寿五郎、わしが交わしたいのは言葉であって刃ではない」
旭は父を蹴飛ばすでも投げ飛ばすでもなく、静かに腕を下ろし、呆然とする父に語りかけた。すると父ははっとしたように折れた脇差を旭に突きつける。
「おっ、鬼と話すことなんざねぇ! 表出ろ! 鬼奉行所に突き出してやる!」
「鬼奉行所とは何だ」
「お前みたいな鬼を退治する奉行所だよ! 鬼は鬼奉行に首を切られる決まりだ!」
「何故退治されるのだ。わしは何もしておらぬではないか」
「お前が鬼だからだよ! 鬼は人を喰う生き物だろうが!」
「わしは人を喰わぬ」
「鬼の言うことなんざ信じられるか!」
「で、ですが、旭様は私を助けてくださいましたし……私たちを喰うつもりなら、とうに喰われているはずです!」
「俺たちを油断させるために決まってんだろうが!」
「旭様はそんなことを考えられるお人ではありません!」
「お人じゃねぇよ鬼だよ!」
「たとえ鬼でも私の恩人です!」
父と私の押し問答を他人事のように見つめる旭。脇差が折れたことで今すぐ斬られる心配はなくなったが、それでもいつ父が鬼奉行を呼びに駆け出していくか分かったものではない。依然として剣呑な状況は続いているというのに、旭は呑気にもあちこちを見て回り始めた。
「あっ、おい! 何してやがる!」
「お彩」
父の言葉を無視し、こちらを見つめる旭。その手が指差すのは、仕込んでおいた菓子である。桜の葉に包まれた餅と餡子。この季節ならではの菓子だ。
「これは何だ?」
「それは……桜餅でございます」
「桜餅」
「ええ、茶屋をやっておりますので……あ、茶屋というのは、お茶や茶菓子を出すところでございます」
「だから出て行けってんだろうが!」
斬りかかることは諦めたものの、やはり旭を追い出すつもりらしい父が旭の着物の袖を引くが、旭は微動だにせず、袖を引かれていることを全く意識させないほど自然な動きで桜餅を指差した。その拍子に、父は床に転がって呻き声を上げる。
「菓子というと……これは食べるものなのだな」
旭の言動は、まるで今まで何も食べ物を口にしていないかのようである。流石にそれでは生きていくのもままならないだろうとも思ったが、旭は鬼だ。もしかすると鬼というのは、物を食べずとも生きていけるものなのかもしれない。
「……よければ、お一つどうぞ」
「いいのか」
「ええ」
旭は慣れない手つきで桜餅を摘み上げ、繁々と眺める。そして髭の中から大きな口が現れたかと思うと、桜餅の半分を含み、そのままもごもごと動いた。
「いかがですか?」
つい気になって尋ねると、刀が掠めたことで露わになった旭の左目が大きく見開かれる。そのまま旭は私の問いに答えることなく、残りの桜餅を一度に口へ放り込んだ。
「……美味い」
桜餅を飲み込んで暫しの沈黙の後に呟かれた、驚いたような、惚けたような旭の一言に、今の剣呑な雰囲気すらも忘れて思わず舞い上がる。人前に姿を見せられないこともあり、これまで面と向かって「美味い」と言われたことなどなかったのだ。
「左様でございますか」
思わず頰が綻ぶのを感じつつ、綻びついでに気になっていたことを尋ねてみる。
「ところで旭様は、今まで何を食べてこられたのですか?」
「何も食っておらぬ。口にしたのは桜餅が初めてだ。そもそも鬼というものは、何か物を食わずとも生きていける」
「でしたら、何故鬼は人を喰うのですか?」
「それは……」
「頼もう」
旭の声を遮り、割り込んできた知らない声。茶屋の入り口を見やると、そこに立っていたのは緑の着物に身を包んだ小柄な男。常に睨んでいるかのような目つきの悪い目、鶺鴒差しにされた刀を見て、思わず悪寒が走った。
そこに立っていたのは、昨晩、私を鬼と詰った男であったのだ。
「……矢張りここにおったか。鬼め」
私を睨み付けるその目はあまりに鋭く、刀無くして人を殺せそうなほどであった。その気迫に思わず後ずさると、私の前に父が立ちはだかる。
「おう、今立て込んでんだ。何だか知らねぇが後にしてくんな」
「邪魔をするな。此処で会ったが百年目、今日こそその娘に化けた鬼の首を取ってくれる」
「……鬼だと?」
男の言葉に、父の声色が再び深く沈み込んだ。父は大の鬼嫌いだが、それ以上に私が鬼と言われることを何よりも嫌うのである。理由は未だ分からず、その雰囲気から聞くことも憚られてきた。
父は今にも男に掴みかかりそうな形相で男に詰め寄る。決して大柄ではない父を前にしても尚、男は相手を見上げる形で其処に立っていた。
「人の娘捕まえて鬼たぁどういう了見だ。俺の娘に何かしようってんなら承知しねぇぞ」
「下郎は下がっていろ。目障りだ」
「下郎はどっちでぇ、脇差しか差せねぇ身分で偉そうぶりやがって」
普段ならば刀を持っている相手に楯突くような無茶はしないのだが、気が立っているせいか、父は喧嘩腰で男に詰め寄る。間に入ったほうがいいのかもしれないが、元凶の私では火に油を注いでしまうかもしれない。もしくは叩っ斬られるのが関の山だろう。しかし、私が原因の言い争いを放っておくのも気が引ける。ここは矢張り、間に入るべきだろう。そう思って静かに言い争いを続ける父と男の間に入ろうとしたそのとき、私の前に旭の背中が立ちはだかった。
「お彩は鬼ではないぞ」
「お前は黙っとけ!」
「引っ込んでいろ!」
父と声を揃えて旭を睨みつけた男だが、旭の赤い瞳と額の角を見ると、言い争うのも忘れてぼんやりと旭を見つめた。
「鬼……?」
あまりにも突然目の前に現れた鬼に唖然とする男は、今朝の私と同じように呆然として呟く。その様子に気付いたのか、旭は額の角に触れ、頷いて見せた。
「ああ。わしは鬼だ」
「……矢張り繋がりがあったか鬼共め!」
鬼のような人間と、誠の鬼を前に、男は腰に差した脇差の柄に手をかける。しかしそれを抜くことはせず、そのまま暫し硬直する。かと思うと、不意に私を一瞥し、次に旭を見た。
「……三日後の日暮れ、昨晩相見えたあの場所へ来い」
「何故だ」
「此処は江戸、人が住まう街だ。悪鬼羅刹を退治するのは当然のこと。俺が二匹まとめて退治してくれる」
「悪鬼羅刹とは人を喰らう化け物のことを指すのだろう。お彩は人だ。わしは鬼だが、人を喰うつもりはない。退治される謂れなどないぞ」
昨晩聞いたような男の言葉を旭が跳ね返すと、男は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「鬼の癖に腰が抜けているのだな。大方、その鬼の娘に匿われているのだろう。貴様が来なければ、貴様と其処な娘が鬼であると触れ回るぞ」
「おい、うちの娘が何したってんだ。こいつとは何も関係ねぇ」
「黙っていろ。貴様には関わりのないことだ」
食ってかかった父を押し除け、男は旭に詰め寄った。昨晩の怯えた様子は影もない。
この男は、今度こそ本気である。
「……わしは、鬼と人とが手を取り合う世を作るという友の願いを叶える為に江戸へ来た。退治されるわけにはいかぬ」
「ならば」
「だが」
男の言葉を遮り、旭は言葉を続ける。
「お前とは、言葉ではなく刃を交わすべきのようだな」
旭が発するのは、昨晩のあの恐ろしい声。桜餅を頬張ったときの声とは似ても似つかぬ、あの自然の息吹が再び舞い戻っていた。
「旭様、何を……」
「漸くやる気になったか。必ず来い」
男は旭の答えを確かめると、踵を返し、茶屋を後にした。その刹那、一言ぼそりと呟かれた一言が、耳に吸い付く。
「……化け物め」
恐らく旭に向けられた言葉。しかし、その言葉は私の頭に絡みついて、暫く離れることがなかった。