第一話 暮れの旭 後編
「はぁ……陰依山なぁ」
「知っているのか?」
「いいや、見たことも聞いたこともねぇ」
旭に尋ねられると、父は悪戯を成功させた子どものように笑ってみせた。そんな父と旭の前に湯飲みを置くと、旭はやはり興味深そうに湯飲みを持ち上げた。
私が暮らしているのは、表通りに面した表長屋の二階。母に捨てられた私を引き取った父と二人で暮らしている。父とはいっても育ての親であるために血は繋がっておらず、歳も親子にしては随分と離れていた。最近は体も衰え、髪にも白髪が混じってきたが、そんな白髪を「お前と同じだ」と笑ってくれる、温かい父である。
そんな父は突然家にやってきた熊のような大男を見て大層驚いたようだったが、その大男は私の恩人であると説明すると、快く家に迎え入れてくれた。
「俺ぁ寿五郎だ。娘が世話になったみてぇだな。俺からも礼を言わせてくれ」
「礼を言うのはわしの方だ。一晩世話になる」
「一晩なんて水くせぇこと言ってんじゃねぇよ! こんなとこでよけりゃ、一晩でも何晩でも泊まっていってくれ!」
「同じことをお彩にも言われた」
そういえばそんなことを言ったような気がする。何だか恥ずかしくなって俯くと、父は嬉しそうに笑いながら「そうかい」と答える。
「やっぱり親子ってことで、似てくるんだろうな。……そういやお前さん、背中に太刀背負ってるが、お侍さまか何かかい」
尋ねることも全く同じである。血の繋がりがないとはいえ、長いこと生活を共にしていると、父の言う通り、言葉遣いが似てくるのかもしれない。
「いえ、旭様は……」
言い終えるよりも先に、きょろきょろと家の中を見回す旭の姿が目についた。物珍しげにあちこちを見る客人を怪訝そうに見つめる寿五郎をよそに、旭はあるものを指差す。
「お彩、これは何だ」
旭が指差す先にあるものを見て、思わず苦笑いを浮かべつつ答えた。
「それは蒲団というものでございます」
「お彩、これは」
「囲炉裏のことですね。魚を焼くものでございます」
「お彩、あれは何だ」
「箱膳でございますよ。食事をするためのものでございます」
「そうか」
何に使うものかを聞いてもなお、興味深そうに箱膳や布団を見つめる旭。寿五郎はそんな旭の背中を見つめた後、私を見つめて呆れたような乾いた笑いをこぼす。
「……お侍さまって訳じゃあなさそうか」
「ええ。江戸を目指して各地を渡り歩いていたようですが、何をしている方なのかまでは……」
「江戸を目指して、なぁ……」
江戸を目指して旅をするなど、余程余裕のある者しかできない娯楽であるが、旭の姿を見るに、そういった娯楽のために江戸に来たわけではなさそうである。
「旭、お前さん何で江戸に来たんだい。お伊勢参りって感じじゃあなさそうだが」
やはり同じことを思ったらしい父の問いに、旭は箱膳に目を落としたまま答えた。
「伊勢参りとやらは知らぬが、わしは友の願いを叶えるために江戸へ来たのだ」
「友?」
「ああ。夜烏という男で……お彩、このぼやっとしたのは何だ」
「行灯でございますよ」
「そうか」
名前が分かっても尚、旭は行灯の中で揺れる炎を興味深そうに眺めている。陰依山と言っていたが、旭は今まで行灯もないところで暮らしていたのだろうか。
「旭だの夜烏だの、随分変わった名前が多いんだな。お前さんの周りは皆そうなのか?」
「陰依山では夜烏以外と言葉を交わすことなどなかった。他の名は知らぬ」
「堂々と言うこっちゃねぇだろ……」
旭の言葉に苦笑いを返しつつも、私も旭を笑える立場ではない。寧ろ、友人らしい友人がいないという点では、旭よりも深刻だろう。
「ところで、そのご友人の願いというのは?」
友の願いを叶えるために江戸に来たというならば、恐らく江戸でしか手に入らない品があるということだろう。それならば私でも役に立てるかもしれないと思い尋ねてみると、旭は漸く行灯から私たちの方へと目を向けて答えた。
「鬼と人とが手を取り合える世を作りたいのだ」
「……鬼でございますか?」
「鬼だ」
旭は力強く頷く。
鬼というと、浮かぶのは人を喰う鬼と、人の皮を被った鬼くらいのものだが、どちらも人と手を取り合えるとは思えぬ者たちである。
「あの……人を喰う、鬼でございますか?」
「そうだが、少し違う。人が鬼を恐れず、鬼が人を喰わず、双方が手を取り合う世を作りたいのだ。夜烏は……」
「旭」
旭の声を遮る父の声は、今まで聞いたことがないほど低く、沈み込んでいた。思わず父の方を見遣り、その鋭い目つきに息を飲む。
「お前さんの友人の夢を笑うつもりはねぇが、その夢は諦めろ」
「何故だ。鬼は人を喰う者ばかりではない」
「世間知らずなお前はそう言えるだろうな。だが俺たちは、今までずっと鬼に怯えて生きてきたんだよ。鬼に親を殺された、鬼に娘を奪われた、そんな奴が、この江戸にはわんさかいる。鬼が出なくなったのは鬼奉行ができてから。つまりはここ十年そこらの話だ。漸く安心して暮らせる世になったんだよ。そんな奴らの目の前で、お前はその夢を説くのか?」
父の気迫に押されているのか、それとも何と言うべきか分からないのか、旭はただ沈黙する。
「身内を殺した奴らと手を取れと、何も知らねぇ奴に言われることほど腹立たしいことはねぇだろうよ」
父はそれだけ言うと、残った茶を飲み干し、蒲団へ向かった。これ以上話を続ける気はないようである。
「明日も早いぞ。早く寝ろ」
それだけ言うと、父は蒲団へ潜り、私たちに背を向けた。部屋の中で揺らめく行灯に照らされる父の背中はひどく小さく見える。
「……申し訳ございません」
「構わぬ。分かっていたことだ」
江戸に住む者は、誰もが鬼に怯えて生きている。父のその言葉に嘘はないが、父は江戸にいる誰よりも鬼を嫌い、憎んでいるように思える。父が何故そこまで鬼を嫌うのかは、未だに分からないままだ。
「お彩も鬼は嫌いか?」
「……嫌いというよりも、恐ろしいです」
「そうか」
旭は気を悪くした様子はない。というより、何を考えているのかやはりよく分からない声で答えた。
「……ですがもし、人が鬼を恐れず、鬼が人を喰わず、鬼と人とが手を取り合える世が、本当に実現するなら……」
所詮は夢物語と分かっている。しかし、もしもそんな奇跡のようなことが実現するとしたら、私を虐げる人間も少なくなるかもしれない。この目を、鬼のようだと言われることもなくなるかもしれないのだ。そう思うと、旭の夢を無碍にすることはできなかった。
「きっと、今より生きやすい世になると思います」
鬼にとっても、人にとっても、私にとっても。
そんな思いを込めた言葉に返ってくるのは、大地を揺るがす低い声。けれど、今まで会った人間の中で誰よりも優しい声だった。
「必ず叶えよう」
「ええ。きっといつか」
「必ずだ」
まるで子どものように答える旭の様子がおかしくて思わず笑い声をこぼせば、旭は不思議そうに首を傾げた。
「私たちも、もうそろそろ休みましょうか。旭様は蒲団をお使いください。旭様の蒲団はそのうち用意しますので」
「わしは床で構わぬ」
「いけません。恩人を床に寝かせる者がどこにいますか」
「慣れぬ蒲団で寝るよりいい」
「ですが……」
反論するより先に旭は背中に背負った二本の太刀を腕に抱え、壁にもたれかかる形で床に座り込んだ。真っ赤な鞘が剥き出しになった赤い太刀と、黒い袋に入った青い太刀である。どうやら本当に、蒲団で寝るつもりはないようだ。ほんの少しだけ、私と父が寝静まった後、旭が斬りかかってくることを想像したが、旭があの小柄な男にかけた言葉を思い出し、その心配はないことを悟る。
説得を諦めて大人しく蒲団に潜り、行灯を消した。
「おやすみなさい」
「ああ」
暗がりの中聞こえた声を確かめ、目を閉じる。様々なことが立て続けに起こったせいで目が冴えて眠れないかとも思ったが、やはり疲れが溜まっていたのか、すぐに意識は深く沈み込んでいき、やがて父や旭の息遣いすらも聞こえなくなった。
終わりの見えない静寂を打ち破ったのは、どすんという地震のような音と父の叫び声。咄嗟に体を起こし、訳も分からぬまま辺りを見回すと、何か恐ろしいものを見たように尻餅をつく父の背中があった。何事かと思いその視線の先にあるものを見やるが、父の前にいるのは寝ぼけ眼を擦る旭である。一体何があったのかと尋ねようと旭に目を移し、父の叫び声の理由を悟った。
「……どうしたのだ。寿五郎」
眠たげに欠伸をし、眼を擦る旭の額から覗くのは、黒々とした二本の角。そして、眠たそうにゆったりと開かれた瞳は、私の瞳とよく似た赤をしていた。
天をも覆う巨大。太い四肢。額から覗く角。黒く染め上げた白眼に赤い双眸──それはまるで、あの化け物のようで。
「鬼……?」
思わず口からこぼれた震え声。旭は不思議そうな面持ちで自らの額を撫でると、そのまま困ったように後頭部を掻き始める。
桜舞い散る春の日の夜、私は旭に出会った。人と鬼とが手を取り合う世を作るという、夢物語のような夢を語る──赤目の鬼に。
これより先は夢物語。人間のような鬼と、鬼のような人間が織りなす、夢のような夢を叶えるまでの物語だ。




