第四話「いつか雨の夜に」参
「あ」
見開かれた空色の瞳を見て、声を上げたのは鬼か私か。それが分からなくなる程度には鬼も驚いた様子で、顔を覗き込む私の額に頭突きをしそうな勢いで起き上がった。
「……お前」
「驚かせてしまって申し訳ありません。痛むところなどはありますか?」
訝しげに私を見つめ、何かを言いかけた鬼は、背後から近づいて来た旭の姿を確かめるなりぎょっとしたように一歩後ずさった。
「あの……」
「……お前、どういうつもりだ」
「はい?」
どういうつもり、とはどういう意味なのだろう。突然のことでうまく答えられずに固まっていると、鬼は苛立ったように少し語調を強めて繰り返した。
「鬼を使って俺を襲わせたかと思えば、殺しもせずに怪我の有無まで尋ねる始末。何のつもりだ。何が目的だ」
「ふん、鬼の癖に人に殴られて伸びるような軟弱者がよく吠えたものだ。殺されかければたとえ犬畜生でも抵抗する。この愚図で鈍間な娘は別のようだがな」
団子を口に含んでいても相変わらず悪態の限りを尽くす萩之進。ここまで来るといっそ尊敬に値すると思いながらも聞き流し、視線を鬼へと戻すと、鬼は怪訝そうな面持ちで萩之進を睨んでいた。
「殺されかけた? 俺はこいつが逃げないようにと首に腕を巻いただけだ。話を聞くため捕らえたのに、殺す馬鹿があるか」
あれが少し捕まえておく程度の力の込め方なのだろうか。お梅の件でも思ったが、鬼に人間の脆さを理解してもらうのはなかなか難しいことのようである。旭は思いの外早く理解してくれたが、見たところ人に慣れていない様子のこの鬼には何と話したものだろうかと思案していると、私より先に口を開いたのは意外な人物であった。
「……それならばお前は、お前が逃げぬようにとお前の角を折っても構わぬのだな」
角を折られる痛みでも想像したのか、鬼は小さく悲鳴を上げて自分の角を隠して後ずさる。鬼にとって、角を折られるというのはよほど重大なことのようだ。
「ばっ、馬鹿を言え、いかに図体がでかくとも鬼の角をそう簡単に折れる訳が……」
鬼が続けかけた言葉は、赤く染め上げられた旭の双眸に吸い込まれて消えていった。鬼の力の強さはその瞳の濃さで分かるというが、色の違いがあるとはいえど、濃さで考えるならば比べるまでもなく、鬼と旭では旭の方が上である。
圧倒的な力の差を前に震え上がる鬼に対し、旭はただ一言告げた。
「折る」
折れるか折れないかではなく、折る。有無を言わさぬ絶対的な断定の言葉に、角を持たない私ですら恐ろしさを覚えた。
鬼は暫し角を隠したまま呆然としていたが、やがてはっとしたように私を見やると、それからすぐ、気まずそうに目を逸らしながら小さく呟く。
「……悪かった。次からは加減する」
生意気で高圧的な物言いは萩之進に似ていると思ったが、彼がこのように素直に謝罪の言葉を口にするところなど見たことがない。それを考えれば萩之進と違って、この鬼は案外悪い鬼ではないのだろう。ただ少し、人間について詳しくないだけなのだ。
「人は鬼のように強くはないのです。お気をつけくださいね」
「ああ……それで、お前はあいつを知っているのか?」
先ほどのことがあってか、やや控えめに鬼は尋ねる。何度問われても同じこと。私は一本角の鬼に会ったことなどない。ここで嘘を言ったところで、失望させるだけだろう。
「残念ですが、存じ上げません」
「……そうか」
とはいえその事実は決して喜ばしいものではなく、鬼は気落ちしたように俯いた。先ほどとは打って変わってしおらしくなってしまった鬼に何と言葉をかけようかと考えを巡らせた結果、思い浮かんだのはある鬼の顔。私が旭の他に知る唯一の鬼である彼ならば、何か知っているかもしれない。
「……九郎兵衛様なら、もしかするとご存知なのではないでしょうか」
生まれも育ちも江戸であるが、人の私は人と鬼とを見分ける術を持たず、陰の臭いを嗅ぎ分けることができる旭は江戸に来てまだ日が浅い。その点、長く江戸に住んでいるであろう九郎兵衛ならいくらか希望が持てそうである。
「九郎兵衛?」
「はい。ええと……私の、知り合いの方なのです」
そうは言っても鬼なのだが、父がすぐそばにいるこの状況でそれを口にするのは憚られた。旭や連日に及ぶ隠との遭遇、さらには弱いとはいえ体を持つ鬼と顔を合わせる羽目になった父の顔は、怒りで赤くなるのを通り越して蒼白である。これ以上、父を追い詰めるようなことはできるだけ口にしたくない。
「よろしければご案内しますが、人に化けることはできますか?」
「……変化は得意だが」
「それなら昼でも大丈夫ですね。旭様、社への入り方は……」
「だが何故だ」
空気を切り刻むような声に振り返ると、そこにあったのは存外鋭い鬼の瞳であった。しかしそこに私に対する悪意のようなものは窺えない。
「何故とは?」
「何故そこまでする。そこまでの義理はないどころか、お前は俺に殺されかけたはずだ」
何を気にしているかと思えば、鬼の口からこぼれたのはそんな言葉。旭もそうであるが、鬼というのは案外、不器用なほどに義理堅いものなのかもしれない。
「確かに首は絞められましたが……私はこうして生きておりますし、何より貴方はきちんと謝ってくださったではありませんか」
私に悪意を向ける者は多い。しかし自らの行いを過ちであると考え、謝罪の言葉を口にする者はほとんど現れなかった。それを考えれば、この鬼を困らせる理由が私にないことは明らかである。
「……お前は」
「はい?」
何やら小さな声で言いかけた鬼に聞き返すも、鬼はただ静かに目を伏せて沈黙する。
「……何でもない」
何を言いかけたのか気にならないわけではなかったが、わざわざ蒸し返すほどのことでもないだろうと思い、深く追求することはしなかった。
「九郎兵衛様のところへ行く前に一つ確認したいのですが、貴方は何故その一本角の鬼を探しているのですか?」
もしこの鬼が復讐のためにその一本角の鬼を探しているのだとすれば、そのときはどうにかして誤魔化さなければならないかもしれないと思いつつ尋ねれば、鬼は意外にも何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりの顔でこちらを見つめ返した。
「俺にとって、あいつは己の半身も同然だ。探すのは当たり前だろう」
「つまり、家族のようなものなのでしょうか」
「そんな人臭いものではないが、人からすれば似たようなものだ。他の鬼ならともかく、俺たちは一本角だからな」
一本角。たびたび鬼の口から飛び出すこの言葉は、文字通り角を一本しか持たない鬼という意味なのだろうが、それ以外に何を意味するものなのかまでを推し量ることはできそうにない。ここは旭に聞くのが一番早いだろう。
「旭様、一本角というのは何か特別なのですか?」
「…………」
近くにいた旭に尋ねるも、返ってくるのは沈黙のみ。どうやら聞こえていなかったらしい旭の代わりに、鬼本人がその問いに答えてくれた。
「そいつは角が二本あるだろう。だが俺とあいつには一本しかない。本来であれば二本あるはずの角を分かち、異なる体を持つ鬼として生まれ落ちたのが俺とあいつだ」
「人間でいうところの兄弟といったところなのですね。探しているということは、いなくなってしまったのですか?」
「いなくなったというより、体を保てなくなったという方が正しい」
「体を?」
「鬼にとって角は力の結晶。一本失っただけでも多くの力を削がれる。一本角が角を失えば、体を保てなくなるのも道理だ」
「鬼が角を失うというのは、一体……」
どういう状況なのかと続くはずだった言葉は、険しい表情と硬く握りしめられた拳に吸い込まれてしまった。その手が震えを伴うことこそないものの、鬼は何か腹の底に押し込めた恐ろしいものを取り出すかのような声色で、私の問いに対する答えを吐き出す。
「砕かれたのだ」
砕かれた。折られたでも、失くしたでもなく。
「得体の知れない化け物に、砕かれた。……人ではない。恐らく獣でも。鬼だったのかもしれないが、西日と臭いのせいで赤鬼か青鬼かさえも判別がつかなかった」
「それで貴様は片割れを見捨てて逃げてきたというわけか」
「萩之進様」
「……構わん。概ねその通りだ」
萩之進の礼を欠いた言葉に構うことなく、鬼は懐から小さな布袋を取り出した。随分と薄汚れているのを見るに、大切に持ち続けていたものなのだろう。
「それは……」
「あいつの角の欠片だ。逃げた後に引き返し、どうにか拾い集めた。たとえ体を失い、隠になっていたとしても、この欠片さえあればあいつはまた体を取り戻せる。……そうして、恨み言の一つや二つを聞かなかれば、俺の気が済まんのだ」
私に兄弟と呼べる存在はいないが、それでも家族の真似事をしている身であれば、何となく鬼の気持ちも分かるような気がした。
たとえ鬼といえど、家族を想う気持ちに種族は関係ないということなのだろう。
「……見つかるといいですね」
「難航しそうだがな。人に取り憑いているやもと思い江戸へ来たが、そもそも江戸にいるかどうか」
「大丈夫です。私の元にはどういうわけか鬼や隠が集うようなので、旭様が祓ってさえいなければきっと見つかりますよ!」
私としては嬉しくないことだが、少なくともこの鬼の役には立てるだろうと思い慰めのつもりでそう口にすると、どういうわけか鬼は青い顔で私を見つめている。
「…………祓っ……」
「あっ、いえ! 旭様もまだ江戸に来て日が浅いですし、祓った隠の数というのもそれほど多くはないはずです……そうですよね、旭様!」
「…………」
遅れて自分の失言に気付き背後を振り返るも、旭からの返答はない。
何か難しい顔をしているのを見るに、考え事でもしているのかもしれない。疑問に思ったことがあればすぐに尋ねてくる旭にしては珍しいことだと思っていると、思考が明けたらしい旭は不意に立ち上がった。
こうして腰を下ろした状態から見上げると、旭の巨体はまるで大木のように思えてくるが、今さら恐怖らしい感情を抱かないのが少し不思議だ。
「……九郎兵衛なら或いは何か知っているかもしれぬ。案内してやるが、人を襲えばそのときは角を折るぞ」
「お、脅さなくとも襲わん」
小さいといえど鬼を警戒しているらしい旭に倣い、鬼は器用に額から伸びる角を引き込んで人間に扮してみせた。旭のような巨大でないことも相まって、そうしていればどう見ても人の子どもである。
案内するという言葉から旭も九郎兵衛のいる社への入り方は知っているようだが、知らない鬼の気配があると九郎兵衛も戸を開かないかもしれない。ここは私も旭と共に赴くべきかと考えかけたそのとき、それまで黙りこくっていた萩之進が声を上げた。
「その九郎兵衛とやらは鬼奉行の類なのか」
答えにくい質問である。人を襲わないとはいえ九郎兵衛は鬼であり、鬼奉行からは最も縁遠い存在だ。しかしそれを正直に伝えるわけにもいかない私は、はぐらかすほかないのだが。
「私の知り合いの方で……」
「ただの町人風情が鬼の行方を知るはずもあるまい。何者だ」
それを見逃す萩之進ではない。果たして何と誤魔化したものだろうかと思案していると、背後から低い声が降り注いだ。
「鬼だ」
「えっ、あ、旭様」
「人は襲わぬ鬼だ。付いてきたければ勝手にしろ」
それだけ言い残してさっさと出て行く旭と、それに続く鬼と萩之進。
必然的に、この場に残されるのは私と、顔面蒼白な父ということになるわけで。
「お彩……鬼って、どういうことだ」
「ええとその、違うのです! いえ、違うというわけではないのですが……旭様!」
どうしてくれるのかと消えた背中に呼びかけるも、旭が戻ってくることはない。
どうやら今後しばらく九郎兵衛の元には行けそうにもないと、父の眉間に刻まれた皺を見ながら小さくため息をついた。