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白黒世界に紅をさす  作者: 海月海
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第四話「いつか雨の夜に」弐


 春といえど、夜明け前はまだ肌寒い。肌を打つ冷たい風に身を震わせながら、桶を片手に井戸へと急ぐ。本当なら大きな桶で一度に汲み上げてしまいたいが、他の人も使うものであるし、あまり重たいと家まで持っていくのも難しくなってしまうのだ。旭の力を借りようかとも考えたが、茶屋を訪れる娘たちの相手で疲れているであろう旭をこんな朝早くに起こすのも忍びなく、結局私が来ることにした。


 先日のお梅のこともあり、一度ならず二度までも旭に助けられ、受けた恩は既に返しきれない。鬼と出会した際には旭に頼らざるを得ないが、水汲みならば私にも出来るはずである。人目もなく鬼と出会す心配をする必要もないことを考えれば、少しの寒さを乗り切ることなど容易く、これは旭の力を借りるまでもないことだと自分に言い聞かせ、桶を片手に井戸へと急いだ。


 暫くして井戸に辿り着くと、まず井戸の底に水が溜まっているかどうかを確かめるべく井戸を覗き込む。この井戸はあまり深くないため、薄暗い中でもかろうじてどの程度の水が入っているかは分かるのだ。どうやら桶一杯分くらいの水は十分にありそうなことを確かめ、水を汲もうと蹲み込んだのと、後ろから回された腕が私の首をからめとるのがほぼ同時。


「……あ」


 どうやらまずいらしいと確信したのは、みっともなく開いた口が塞がれた直後。それからすぐに、耳に届く声。


「いいか。騒げば首を圧し折るぞ」


 思っていたよりもずっと幼い声に安堵する間も無く、そんな幼い声が述べた言葉の恐ろしさに慄いた。


「……お前、俺のような鬼を知らないか」


 隠ではなく鬼、そして俺のようなという言葉からして、私の口を塞いでいるのは隠に取り憑かれた人間などではなく、間違いなく鬼なのだと確信する。


 腕から逃れようともがけば、鬼は口を塞ぐ手を離し、私の首に巻き付けた腕の力をより強めた。私と変わらないような細腕のどこにこんな力があるのだろう。


「知っているんだな? それなら答えろ。黒い髪に目の色は空、一本角の鬼はどこにいる」


 どれだけ聞かれようとも、私が知っている鬼は旭と九郎兵衛くらいだ。二人とも角は二本持っているし、一本角の鬼など知らない。だが、答えようと腕を叩いても、首を締め上げる力は強まっていくばかりだ。そもそも知らないと答えたところで無事に帰してくれるかも分からないが、とにかく答えないことには命はない。とはいえ首を絞められている今、声を出すどころか息をするのが精一杯だ。一向に答えようとしない私に苛立ちを募らせたのか、鬼の声はどんどん厳しくなっていく。


「答えろ。答えなくても首を圧し折るぞ」


 息ができない苦しさが増していくたび、頭の方もぼやけてくるようである。指先に力が入らなくなり、頭の天辺が冷たくなっていく。


 そもそも夜明け前に何故鬼がいるのだろうと考えて、夜明け前だから鬼がいるのだという至極真っ当な理由に気がついた。鬼の刻は真夜中だけではない。夜が明けて日が昇って初めて、人の刻がやってくるのだ。肌寒さとは違う冷たさを感じてから漸く己の迂闊さを呪うが、首を締め付ける力が弱まることはなく、半ば諦めるように目を閉じかけた、次の瞬間。


「ぐえっ!」


 聞こえた呻き声とともに私の首に巻き付いた腕の力が緩み、支えを失った体は後ろへと倒れ込む。詰まっていた息が突然解放されたせいで何度か咳き込むが、やや間を置くと落ち着いてきた。ほっと息を吐き、恐らく私がよく知っているであろう人物を振り返る。


「……ありがとうございました、旭、さま……?」


 しかし、そこにいるのは思っていたよりもずっと小柄な人影。空を覆うには背丈が足りず、人を驚かすにも威厳が足りない。私がよく知る人物とはかけ離れたその姿に呆然としていると、頭上からは不機嫌を隠しもしない声が降り注ぐ。


「礼を言う相手すら違えるとは、貴様のその赤い目は節穴か何かなのか」


 野守萩之進。嘗て旭に助けられておきながら、恩人であるはずの旭を斬ると宣い、弱点を探ると言いつつ度々茶屋を訪れている変人である。私が鬼ではないと知れてもなお、こうして私を蔑むような言動を繰り返していることもあって、私としてもあまり関わりたくはない相手なのだが、どうしてこう関わりたくない相手ほど関わらざるを得なくなってしまうのだろうか。


「何だその顔は」


「……いえ、ありがとうございます。萩之進様」


「勘違いするな。貴様を助けたわけではない」


 つきかけたため息をすんでのところで飲み込み立ち上がる。礼を言う相手を間違えていると指摘されて言い直せば、返ってくるのはこんな言葉。果たしてこれは「気難しい」で片付けていいものだろうか。結果的に助けられたとはいえ、何となく複雑である。


「……でしたら、何故こちらへ」


「俺の肩に乗っているこれが、近くを通りがかった際に騒ぎ出したのだ。同族の臭いでも感じたかと思い駆けつけてみたところで、いたのは斬るまでもない雑魚だったがな。とんだ駆けつけ損ではないか」


 萩之進が不満げに吐き捨てている様が愉快なのか、おはぎは萩之進の肩の上で楽しげに飛び跳ねている。鬼ではあるものの害はなく、今回に至っては助けられてしまった。助けるつもりはなかったと宣う萩之進はともかく、おはぎには礼を言っても構わないだろうか。


「おはぎちゃんはお団子なら食べるでしょうか。お礼をしたいのですが」


「おい、礼をする相手を違えるなと何度言えば分かる」


「助けるつもりはなかったのでしょう?」


「俺が貴様を助けるつもりがなくとも、貴様が俺に助けられたと思っているならば礼はするべきだと思うが」


 つまり、助けようと思って助けたわけではないが、結果的に助かったなら礼をしろということなのだろうか。


 筋が通っているようで、その実何一つ通っていない話だが、それでも助けられたこと自体は事実である。今回のことを後々から引き合いに出されても面倒であるし、少々釈然としないが、ここは素直に聞いておくべきだろう。


「……私は茶菓子くらいしかお出しできませんが、何を御所望ですか」


「団子」


 てっきりそんなものでしか礼ができないのか、などという言葉を想定していただけに、思いの外素直なその言葉には驚かされた。もしや、表に出さないだけで、萩之進は案外茶菓子の類が好きなのではないだろうか。旭のように好物が分かっていれば、ある程度は接しやすくなるかも知れない。


「萩之進様はお団子がお好きなのですか?」


「答える筋合いはない」


「…………」


 苦手な相手ではあるが、少しでも歩み寄ろうと会話を振ってみればこの有様。今日だけでも、私の中の萩之進に対する苦手意識は随分と高まったような気がする。相変わらずこの男のことはよく分からないが、この男とは一生どころか死んでも分かり合えそうにないということだけははっきりした。


「お彩」


 聞き慣れた声に安堵しながら振り返ると、頭のあちこちに寝癖を目立たせたままの旭がこちらへ向かって来ていた。大方、鬼が発するという陰の臭いを辿って駆けつけてくれたのだろう。


「鬼の気配がして来たのだが……」


「鬼でしたら、萩之進様が何とかしてくださいましたよ」


 不本意ではあるが助けられたことは事実であるため、素直に起きたことを伝えると、萩之進が私の後ろで鼻を鳴らすのが分かった。得意げなのか、それとも不満げなのか、知り合ったばかりの私には分かりかねる。


「お彩もそうだが、萩も随分鬼との縁が強いのだな」


「あまり嬉しくありませんね……」


 旭や九郎兵衛、おはぎのような鬼はともかく、今回のような鬼と度々遭遇してしまうのは困り物である。私がどれだけ旭に迷惑をかけまいとしても、鬼に襲われれば結局頼らざるを得ない。これではいつまで経っても旭への恩を返せないままだ。


「お前は何もされなかったか」


「少し首を絞められたくらいで、特に何もされていませんよ」


 その瞬間、旭は怪訝そうに眉根を寄せ、ちらりと萩之進の方を見やる。


「……萩、江戸の人間にとって首を絞められることは日常茶飯事なのか」


「そんなわけがあるか阿呆。この娘の頭がおかしいだけだ」


「子どものしたことですし、何よりこうして無事に生きておりますので、特に騒ぐほどのことではありませんよ」


 石を投げられるだとか、水をかけられるだとか、そういうことは何度もあった。江戸の人間にとってそれが日常茶飯事でないことは私も知っているが、私にとって首を絞められる程度のことは日常の中で向けられる悪意の延長上にあるものでしかない。相手が子どもなら尚更、何かされたと騒ぎ立てるほどのものではないと思ったのだ。


 しかし、旭は何か言いたいことがあるのか、何やらこちらをじっと見つめたまま黙り込んでいる。かと思うと口を開き、旭にしては少し長い言葉を述べた。


「……生きているか否かは重要だが、それで全てが丸く収まるほどこの世が単純でないことくらい、わしとて理解しているぞ」


 普段はあまり難しいことは言わない旭の口から出た言葉をうまく消化できず、何と言ったものか迷っているうちに、旭はそばに伸びている鬼の襟を掴んでつまみ上げた。


「もうじき夜が明ける。一度持ち帰るぞ」


 そして低い声でそれを告げたのち、片手に鬼を掴んだまま背を向けて家へと歩き出した。私は構わないが、萩之進はそれでいいのだろうか。家に着いてから何かと騒ぎ立てられては迷惑であるし、今ここで確かめておいた方がいいだろう。


「萩之進様も、それで構いませんか」


「勝手にしろ。鬼奉行に手柄をくれてやるのも癪だ」


 萩之進は彼らしい捻くれた理由を吐き捨て、旭の後についていく。残る気がかりといえば父くらいのものだが、鬼といえど見た目は童であるし、旭もいる。旭のときのように脇差を持ち出してくることはないだろう。


 結局空のままの桶を片手に、旭と萩之進の背中を追いかける。


 家へと戻る道すがら、旭が言葉を発することは終ぞなかった。



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