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白黒世界に紅をさす  作者: 海月海
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第三話 梅を望んで渇きを止む 漆


 数日後の昼下がり、ついこの間訪れた廃寺の辺りにお梅の姿を確かめた私は、丸められたその背に声をかけ、振り返ったお梅に軽く頭を下げた。顔を上げてみれば、お梅は鬱陶しそうに私から目を逸らしている。


「……何しに来たんだい」


「元は旭様の食べ過ぎを防ぐためのものなのですが、折角ですので食べて欲しくて持ってきました」


 手に持った風呂敷を広げると、そこには旭が気に入ってくれた桜餅よりもひとまわり小さな桜餅がある。桜色の餅に包まれた餡は大きさ以外変わらないために作るのは難しくなかったが、包む葉を考えるのに苦労した。


 椿や木蓮などの葉を試してみたが、どれも苦味が強かったり硬くて餅を包むのには向いていなかったりと桜餅にはなりそうになく、どうしたものかと悩んだときにお梅の名を思い出し、梅の葉で包むことを思いついたのだ。


 桜の葉とは違って馴染みがない葉ではあるが、爽やかな味は案外餡の甘さとも合い、旭も気に入ってくれた。それでもやはりいつもの大きさの桜餅の方が好きなことに変わりはないようだが、小さな桜餅は子どもやお年寄りが食べやすいという利点があり、何よりお代を払えない誰かへ贈るものにも適しているだろう。


 まだ試しに作ってみただけだが、少しずつ改良していけば茶屋の茶菓子として出せるはずである。


「あ、もしお邪魔でしたら、桜餅だけ置いていきますが……」


 食べ物を前にしても依然として疑わしげに私を見つめるお梅にそう声をかければ、お梅は忌々しげにため息をつき、私を睨みつけた。


「そんな得体の知れないもんを食えっていうのかい」


 そう吐き捨てたかと思うと、お梅は道端に腰を下ろした。優しかった頃のお梅は見る影もない。隠に取り憑かれていたためとはいえ家族を得ることができたお梅には、他人に優しくできるだけの余裕があったのだろう。自分の生活もままならない中、私から食べ物だけを奪って逃げないだけまだましなのだと思い始めた矢先、お梅が言葉を続ける。


「……まずあんたが食べて見せない限りは食べられないじゃないか」


 それはつまり、と私が口にするよりも先に、お梅は早くしないかいと催促してくる。


 私には毒味の役目があるので、お梅の隣に腰を下ろして桜餅を渡し、まず一口頬張って見せた。梅の葉の爽やかな香りと餡の甘さが絡み合ってちょうどいい。私が桜餅を食べて見せたのを確かめたお梅は、私に倣って一口桜餅を頬張る。その仕草は茶屋で見せた姿そのもので、思わず頰が綻んでしまった。


「何だい。にやにやして」


「いえ。お梅さんがお梅さんのままで、少し安心しました」


「何を言い出すかと思えば……あんたも相当見る目がないね。会った頃のわしを期待されても迷惑だよ。これ以上はやめとくれ」


「期待なんてしていませんよ」


 私はただ、自分が見てきたものを信じているだけなのだ。他人に対する期待など、もうほとんど擦り切れてしまったから。


「初めて会ったとき、お梅さんが私の顔に手を伸ばしたでしょう。あのとき、てっきり殴られるものと思って身構えたくらいです。でも、お梅さんは優しく撫でてくださいました」


「……あのときは家もあって家族もいた。偽りだったとしても、あのときのわしは確かに普通の暮らしを送れる側の人間だったのさ。そうじゃなきゃ、あんたみたいなのに情けなんてかけるわけがないだろう」


「でも、今もこうして私と言葉を交わしてくださっているではありませんか」


 そう言われるとお梅は面食らったように目を丸くする。


 お梅が私に優しくしてくれたのは、お梅に取り憑いた隠が私へ乗り移るためだった。その事実を何度も確かめ、噛み砕き飲み込んでようやくここへやってきたのだ。たとえそうだとしても、お梅の苦しみを取り除く手伝いができるならそれで構わないと、半ば嘗てのような関係を築くことを諦めるような形で。


 けれどお梅は、私が思っていた以上に変わらないままでいてくれた。他人に期待することをやめた私にとって、それがどれだけ嬉しいことだったか、お梅は知らないのだろう。


「私を白髪赤目と罵る人々の多くは、住む家を持ち家族もいる普通の人々です。それでもお梅さんは、一度だって私の見目が他と違うことを理由に追い返すことはしませんでした」


 人に気を配る余裕などないはずなのに、お梅は私を蔑むことなく接してくれた。私に優しくする理由がなくなった今でも、こうして隣で桜餅を食べてくれている。


「辛い環境の中、他者に優しくあれる人は強く聡い人です。弱者と呼ばれる者に対しても、等しく接することができるなら尚更」


「……わしはそんな大した人間じゃないよ。強く聡い人間が、盗みなんかするものかい」


「たとえお梅さんが盗人でも、私がお梅さんに救われたのは本当のことですよ」


 お梅の言葉にすぐさまそう返せば、お梅は面白くなさそうに頭をかき、ため息をついた。


 お梅が家無しの盗人であることも、私がお梅の夢を終わらせる原因を作ったことも事実だ。だがそれは、私がお梅に救われたこと、私にもお梅を救えるかもしれないことを嘘にできる事実ではない。


「……お前さんみたいなお人好しを見てると、妬む気すら失せちまうね」


 お梅はため息をつくようにそう呟き、困ったようにきひひと笑って見せた。茶屋で見せてくれたあの笑みと同じ、何でも許せてしまうようなその笑顔に笑い返し、どちらからともなく桜餅を頬張った。


 掌に収まるほど小さな桜餅は、梅の葉の爽やかさだけを残して、一斉に私たちの掌から消えていく。それから暫くはどちらも言葉を発することはなかったが、やがてお梅が腰を上げ、ぼそりと呟いた。


「……もう此処には来ないでおくれ」


 何故。そんな言葉が口から飛び出すことはなく、ただ言葉になり損ねた音だけが宙を彷徨った。少し前にあるお梅の背中を見つめても、その答えは返ってこない。


「……どうして」


 意を決して口にした言葉も、続く言葉を見失って地に落ちた。


 そんな様子は何もなかったために気付かなかったが、何か気に障ることをしただろうか。白髪赤目の娘に付き纏われるのはやはり迷惑だったのだろうか。麻一郎との思い出を思い出させる私とは、もう顔も合わせたくないのだろうか。


 ぐるぐると勝手に回り始める思考を遮るように、お梅は答えて見せた。


「お前さんみたいな娘に、いつまでも施しを受けるつもりはないよ」


「施しなんて、そんなつもりは……」


「そもそもね」


 私の言葉を遮ってなお、お梅がこちらを向くことはない。けれど目の前にある背中に語りかけることもできず、ただお梅の言葉を待った。


「……わしはあの大きい桜餅の方が好きなんだよ」


「……桜餅?」


 何故そんな言葉が出てくるのかと思わずその言葉を繰り返せば、お梅がまだ分からないのかと言わんばかりに鼻を鳴らすのが分かった。


「気が向いたら、またあの茶屋に行ってやるってことさ。今度はきっちりお代も払ってやるとも。……だからね」


 そう言い終えたとき、漸くお梅の目がこちらへ向けられる。暮れなずむ夕暮れの空のような、優しくも悲しい瞳。


「もうこんなところに来るもんじゃないよ」


 こんなところ。その言葉を否定できないくらいにこの辺りは荒れ果てていて、廃寺や荒地ばかりが目についた。こんな場所に娘が一人でいては危ないと、お梅なりに気遣ってくれたのだろう。


「……約束ですよ。いつか必ず、来てくださいね」


「ああ」


 お梅がしっかりと頷いたのを確かめて立ち上がり、来たときと同じように軽く頭を下げてお梅に背を向けたそのとき、背後からかけられた声に思わず足を止めた。


「気を付けて帰るんだよ」


 気を付けて、なんて、父以外から言われたのは一体いつぶりだろう。緩む頬を抑えないまま振り返り、満面の笑みで答えた。


「茶屋でお待ちしておりますね」


 するとお梅は少しだけ呆れたような笑みを浮かべて、いいからさっさと行きなと口にした。言葉こそ素っ気ないものの、あまりに優しいその声に応えるようにもう一度頭を下げ、今度こそ元来た道を戻っていく。


 空き家を通り過ぎ、荒地の脇を抜け、廃寺のそばを駆け抜けて大通りへ出ようという頃、ふと空き家の陰に妙な人影を捉えた。縦に長いので人影とも思ったが、よく見てみればその人影は人よりもよほど大きく、人というよりは熊のようである。とうとう江戸にも熊が出たのかと思いつつそろそろと近付いていくと、それが杞憂であることに気付いた。思えば私は、江戸に住む熊のような体躯の男を一人だけ知っているのである。


「旭様」


 私に声をかけられると、旭はぎょっとしたような顔で私を振り返り、それからほんの少しだけほっとしたように私の名を呼んだ。


「お梅には会えたか」


「お陰様で。ところで、旭様は何故此処に?」


「茶屋の桜餅がなくなった故、一休みだ」


「一休みするには、茶屋から少し離れた場所にあるように思うのですが……」


 此処へ来るためには、大通りの狭い脇道を抜け、さらに茶屋とは反対方向へと伸びる寂れた道を歩かなければならない。旭は何故そこまでして──と考えて、漸く納得した。


「……逃げてこられたのですね?」


 私がそう告げると、旭は──私の目の前にいる、恐ろしいほどに整った顔立ちの男は──力なく頷いて見せる。


「……江戸の娘は、恐ろしいな」


 仮にも江戸の娘である私としては、旭の言葉を否定したいところなのだが、ここ数日の旭の様子を見ているとそんなわけにもいかず、ただただ苦笑いを返した。



「おっ、帰ったな、色男」


「……寿五郎」


「へへっ、悪りぃ悪りぃ」


 連れ立って帰ってきた私たちを見て嬉しそうに声を上げた父に対し、旭は恨めしげに唸る。だが、父はそんな恐ろしげな形相の旭を物ともせず、へらへらと笑って見せた。


「お前のお陰で、店はいつにも増して繁盛してるよ。売り切れなんて久々だ」


「……お彩、桜餅をくれ」


「はい、桜の葉の方ですね。お茶も淹れますか?」


「頼む」


 ため息をつくようにして答えた旭はその場にしゃがみ込み、ぐったりとうな垂れた。


 こう言っては何なのだが、顔立ちが端正だとこんな仕草さえも様になるというものだ。旭はきっと嫌がるだろうから口にはしないものの、父の言う通り、驚くほどの変わりようである。


「にしてもまさか、髪と髭をいじっただけでこんなになるとはな」


「……聞き飽きた。顔が落ち着かぬ。娘が寄ってくる」


 元々無口な旭だが、よほど疲れていると見えて、口にするのは短文ばかりだ。


 雑草のように伸び散らかった髪に髭、それに熊のような体躯を持った旭が店先にいては客が寄り付かないと悲鳴を上げる父に押し切られ、旭が父に髪と髭を整えられたのが数日前のこと。渋る旭を説得する材料として桜餅を作っていた私は、髪と髭を整え終えて出てきた旭のあまりの変わりように思わず呆けてしまった。


 伸び放題の髪と髭を取り払ったことによって、切れ長の瞳と太い眉、薄い唇に筋の通った鼻が露わになり、若々しく見えると共に近寄りがたさもなくなったようである。今の旭の顔を見た人は、逃げるどころか思わず目で追ってしまうだろうと思うほどの変わりようだったのだ。


 だが、それはそれで新たに生まれる悩みもある。旭が髪を切り髭を剃ったすぐ後から、旭目当ての若い娘たちが茶屋に押しかけてきたのだ。お陰で茶屋は閑古鳥とは無縁なほどに繁盛しているが、旭は若い娘のことがすっかり苦手になってしまったようである。


「いいじゃねぇか。両手に花どころか両腕に花だって余るぞ」


「……寄ってくるのが花ならば静かでいいのだがな」


 言いつつ旭は恨めしげに父を見つめた。


 此処は茶屋だが、お客の目当ては茶でも桜餅でも団子でもなく、旭である。茶や茶菓子を届ければ呼び止められ、名を聞かれたりしなだれかかられたりと忙しない。江戸の娘というと私くらいしか知らなかったであろう旭には、色男に目がない江戸の娘たちの扱いは手に余るのだろう。


「どうぞ」


 湯呑みと桜餅の載った盆を差し出すと、旭はまず茶を一口飲み、それから幸せそうに桜餅を頬張った。見た目こそ変わったが、桜餅を頬張る幸せそうな姿や正直な物言いは何も変わらなくて、思わず安堵してしまう。


「どうかしたか?」


「はい?」


「妙に嬉しそうだった」


 気付かぬうちに頬が緩んでいたのだろうか。そのことを指摘されると途端に恥ずかしくなってしまい、照れ隠しにとお代わりはいるかどうかを尋ねると、旭は何でもない顔で頼む、と口にし、桜餅を平らげた。


 春は出会いと別れの季節。私と旭が出会い、お梅がひとときを共にした家族と別れた季節だ。日々の目まぐるしい変化は旋風の如く新たな幸せを呼び寄せ、或いは大切なものを奪い去っていく。今手元にある幸せも、いつの日か突然に消えてしまうかもしれない。今ある日々をどれだけ大切にしたところで、失う悲しみから逃れることはできないけれど、いつか思い出したときに笑えるような日々を積み重ねていきたいと思う。


 吹き込む風は春の香り。柔らかな桜の香りに紛れて、少しだけ梅の爽やかな香りが頰を撫でていったような気がした。





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