第三話 梅を望んで渇きを止む 陸
誰も何も言わず、ただ道を急いだ。静まり返る夜道に響くのは、夜道を駆ける私たちの足音と、旭が背中に背負った刀のぶつかり合う音のみ。しかし暫くすると、別な音が割り込んできた。何度も投げつけられてきた、人間の怒鳴り声である。
「出て行けって言ってんだろうが! 奉行所に突き出されてぇのか!」
暗がりでよく見えなかったその声の正体が、近付くにつれて明らかになっていく。どうやら声の正体は扉を挟んで老婆と言い争っている男のようだ。そしてその老婆というのは、やはりお梅である。言い争いの相手である男──こちらは麻一郎だ──が無理に閉めようとしている扉をこじ開けようと試みていた。
「麻一郎、開けておくれ。おっかあが分からないのかい」
「……あれか」
「ええ」
やはり、お梅は麻一郎の元へ向かっていたのだ。嘗ての夢の残り香を頼りに、もう一度夢の続きを見ようと、偽りの家族の元へ。
しかし隠が消された今となっては、お梅と麻一郎を結び付けるものはない。お梅が麻一郎との関わりを取り戻そうとするたび、突きつけられるのは残酷な現実のみということだ。
「麻一郎……お願いだから開けておくれ、もう一度……もう一度でいいから、おっかあと呼んでおくれ……」
「勝手なことを言うな!」
お梅が縋るように扉の向こうの麻一郎に語りかけると、麻一郎は乱暴に扉を開け、お梅を突き飛ばした。
「お梅さん!」
「麻一郎!」
思わず駆け寄る私には目もくれず、お梅は固く閉ざされた扉を何度も叩き、息子の名を呼んだ。しかし扉が再び開かれることはなく、夜道にお梅の悲しげな声だけが響く。
「ああ……麻一郎……」
お願いだよと繰り返すお梅の背中をただ茫然と見つめ立ち尽くしていたが、扉を叩き過ぎて腫れていくお梅の手のあまりの痛々しさに、思わずお梅の肩に手を置いた。
「お梅さん、これ以上は……」
しかしその手はすぐさまお梅によって振り払われる。叩き落とされたという方が正しいかもしれない。嘗て私の頰を撫で、可愛い子だと笑ってくれたあの手が私の手を打ち、愛おしそうに細められていたあの目が憎々しげに私を貫いたのである。
その鋭さに思わず立ちすくむ私に背を向け、お梅は夜道に消えていった。行き場のない手は宙を彷徨い、やがて体の横へと下ろされる。
「……お彩、大丈夫か」
心配げに尋ねる父に頷き、気付かれないようにため息をついた。隠に操られている間の記憶がないのかとも思ったが、麻一郎のことを覚えていたのならそういうわけでもないのだろう。
見知らぬ人間から知らぬ間に嫌われている辛さは何度も味わってきた。けれどそれが見知った人間からとなると、さらに堪えるものがある。似た境遇にあった頃があったからといって、お梅の孤独を取り除こうとしたのは、さすがに無謀だったのだろうか。旭のように、私も誰かを救いたいと願うのは、烏滸がましいことだったのだろうか。
「お彩」
いつもより少しだけ優しいような声に顔を上げれば、そこには心配げにこちらを見つめる旭の顔がある。言葉は少ないが、恐らく父と同じことを尋ねたいのだろう。そのことに気付いてなお、その隠れた問いには答えることなく、今作れる笑みを旭に向けた。
「……帰りましょうか」
旭はやや何かを言いたげにしていたが、結局何も言うことなく、ゆったりと歩みを進め始めた私の隣を静かに歩いた。
どれだけお梅の体を傷つけないまま隠を引き剥がしたとしても、隠を引き寄せてしまうお梅自身の陰を除くことができなければ、本当の救いにはならない。人より人の痛みが分かる私は、人の痛みを敏感に感じ取ることはできても、それを取り除くすべを持ち合わせているわけではないのだ。今回のお梅の件で、私自身の無力さを痛感させられた。
けれど、根がなければ花は咲かない。つまり、根が残ってさえいれば、いつか花は咲くのである。咲かせてみせよう。いつか必ず。旭が守った木の根が花を咲かせるその日まで、見守り続けよう。隠を祓うと決めたとき、既にそう決意を固めていたのだから。
夜風に靡く髪に紛れ、どこからかやってきた夜桜の花びらは、何となしに伸ばされた私の手をいとも簡単にすり抜けて何処かへと去っていく。どこからやってきたのかと空を見上げれば、そこには歪に輝く月と夜桜という、息を飲むような景色が広がっていた。
お梅がこれを見ていたなら、何と言うだろう。もう一度、私に笑いかけてくれる日が来るかは分からないが、お梅なら「綺麗だねぇ」と笑ってくれるような、そんな気がした。