第三話 梅を望んで渇きを止む 伍
街外れにうまい茶屋があるから来てみないか。そんなことを言われてお梅に手を引かれるまま家を出てきたはいいものの、その街外れの茶屋とやらには一向に着く気配がなく、周りを取り囲むのは荒地ばかりになってきた。おまけに空模様は鬼の刻の到来を知らせている。私一人ならば九郎兵衛の笛でどうにかなるが、さすがにお梅を残すわけにはいかないだろうとそう思って、先ほどからずっと声をかけているのだが──。
「お梅さん、日が暮れてきましたよ。茶屋はまた明日にしませんか?」
そう声をかけても、私の手を引くお梅が足を止めることはない。それどころか、私の声が聞こえていないかのようにずんずんと歩き続ける。
「お梅さん、もうじき鬼の刻になります。出歩くのは危ないですよ」
聞こえないのかとも思い、少し声を張り上げてみるが、それでもやはりお梅がこちらを振り返ることはない。
何だか、妙な感じだ。曲がっていたはずの腰は伸びているし、足取りもしっかりしている。先日はお梅の足を確かに支えていた杖も、今はほとんど意味を成していなかった。そんなはずはないと分かってはいるものの、まるでお梅がお梅でなくなってしまったような、そんな違和感を覚えてしまう。
「お梅さん……?」
「お彩!」
聞き慣れた、けれど出会ってから今までの中で最も張り上げられたその声に驚き、思わず足を止めて振り返ると、そこには血相を変えてやってくる父の姿があった。それから暴れ牛の如き速さでこちらへ駆けてくる旭の姿も。
「旭様、何故……」
「お彩っ! 後ろだ!」
言葉を遮る父の声で後ろを振り返ろうとしたそのとき、不意に何者かに勢いよく手を引かれ、お梅から引き剥がされるようにして倒れ込んだ。そのまま地面にぶつかるかと思われたが、私の体は私の手を引いたらしい何かに抱き止められ、その場に静止する。
何が起こったのかも分からず顔を上げれば、そこには髭だらけの旭の顔がある。見慣れたその顔に安堵するのも束の間、旭の額に太い角が二本生えていることに気がついた。目は赤色を帯び、旭はその姿を鬼へと変えている。
何故その姿に。そう尋ねようとした私の言葉は、背後から聞こえてきた猿のような金切り声に吸い込まれた。恐る恐る後ろを振り返れば、そこにいるのは私の知るお梅ではなかった。
黒く染め上がった白眼の中央にて光る鮮やかな勿忘草色を揺らし、口元に残忍な笑みをたたえる老婆。その口から漏れ出す笑い声は確かにお梅のものであるが、お梅の笑いはこれほど悪寒を呼び起こすものではなかったはずである。
「……鬼、だったのですか。お梅さんは」
「隠に取り憑かれているだけだ。老婆では体の自由が効かず、お前に乗り移ろうと近付いたのだろう」
私に近付いたのは、ただ新しい体が欲しかったからで、優しくしてくれたのも、笑いかけてくれたのも、私を油断させるためでしかなかったというその事実には少々胸が痛んだが、お梅に隠が取り憑いていたということは、旭の刀でお梅を助けることができるということでもある。
私を抱えていた腕を解いて後ろへ下がらせると、旭は背中に背負った明けの紅を手にした。太刀を縦に持ち、萩之進のときと同じように握り締めた旭は、まっすぐお梅を見据えたまま、静かに息を吐き出す。そうして静かに、術の名を口にした。
「明けの紅──紅梅」
それと同時に太刀を握っていた旭の左手が真っ直ぐ下に下ろされると、太刀の鞘は光り輝く赤から、ややくすんだ赤に色を変えていく。どこか梅干しにも似た色の術だと思いつつその背中を見つめていると、不意に数日前の旭の言葉が脳裏をよぎった。
──「鞘の色が濃くなれば刀も重くなり、術も強くなる」──
萩之進に取り憑いた隠を吐き出させるのに使った術は、確か退紅というものだったはず。退紅は紅梅よりも少しくすんだ灰色がかった赤であり、濃い薄いでいえば恐らく紅梅よりも薄い色になるのだろう。そんな術でも、太刀をぶつけられた萩之進は勢いよく吹き飛ばされ、その後気を失った。そんな萩之進は後日元気に文句を言いに来たが、果たしてお梅はどうなのだろう。萩之進に振るわれたものよりも重い刀で、萩之進よりも脆いお梅は、耐えられるのだろうか。
考えている間にも、旭は太刀を振り上げ、今にもお梅に襲い掛からんとしている。旭とお梅を見比べ、どうするべきかを散々思案したのち、旭の着物の袖を掴んだ。
「あっ……お、お待ち下さい!」
いざ隠を祓おうとしたところを止められ、旭は不思議そうにこちらを振り返る。私とてお梅に騙された身とはいえ、知り合った何の罪もない人間が怪我を負うかもしれない状況を見逃すことはできなかったのだ。
「そのように強い術を使っては、お梅さんが怪我をしてしまいます! 隠に取り憑かれているとはいえ、体はお梅さんなのですから……どうにかなりませんか?」
「……どうにかと言われても、あの強さの隠を祓うにはこの術しかない。鬼の強さは目の色の濃さで見分けるが、勿忘草には紅梅をぶつけねば倒せぬのだ」
「ですが、退紅で萩之進様が吹き飛ばされたというのに、それよりも強い術なんて……」
「ここでやらねば、さらに隠を肥え太らせることになるのだぞ。そうなれば隠はお梅の身を食い破って外へ出る。それこそ怪我では済まぬ」
身を食い破って外へ。まるで蛹から蝶が出てくるような表現だが、それは決して脅しではないのだろう。ここで隠を倒さなければ、隠はさらに力を増し、役目を終えた蛹の如くお梅の体を破って鬼となる。そうなればお梅を助けられないどころか明けの紅で倒すことができなくなってしまい、手の施しようがなくなってしまうのだ。
「ですが……」
分かってはいても、旭を止める手を離すことができない。何とか傷つけずに隠だけを外へ出す方法はないかと思案するも、己の無知が明らかになるばかりで、解決策らしいものは何一つ思い浮かばなかった。
「それの何が悪い」
突然聞こえたお梅の声に顔を上げるが、声色も口調も、お梅とは全く異なっている。どうやら隠がお梅の口を借りて言葉を話しているらしかった。
「この女は、元よりこの辺りに住む盗人だった。家族もなく家もなく、孤独を抱き死んでいくだけだったこの女に、まじないで家族と家を与えてやったのだ。その対価として体を借り、最後には食い破るだけのこと。そのことの何が悪い。野山の獣とてこのような関係は築いているぞ」
「……ってことは、麻一郎がその婆さんを母親だと思ってたのは、此奴の仕業ってことか」
「此処は江戸だ。野山とは違う。理をねじ曲げ体を奪おうとするならば、ここで祓うまでだ」
萩之進を震え上がらせたあの地鳴りのような声を聞いても、お梅はその顔色を青ざめさせることをしない。むしろ挑発的な笑みを浮かべ、旭の言葉を鼻で笑って見せた。
「祓って何になる? 俺を引き剥がしたところで、この女を待つのは終わりのない孤独と飢えだ。人の街たるこの江戸で、手を取り合い生きる他人の姿から目を背けながら生きるのがどれだけ惨めかも知らず、お前はそれでこの女を救ったつもりになるのか?」
人に乗り移り、その身を引き裂いて鬼となる隠は、確かな悪。けれどそれを祓うことが必ずしも善ということにはならなくて、祓った先にあるその人の人生にも救いをもたらすことができなければ、それはきっと善にはならないのだろう。
祓わないことは悪である。けれど祓うことも善ではない。その相対するようでよく似通った場所にある二つの事実の狭間で、私の心は鬩ぎ合っていた。お梅が抱える苦しみが私もよく知るものであったから、なおさら。
ここは江戸、人の街。それ故に、心身を蝕むものは飢えだけではないのだ。それは人が感情を持つ以上、切り離せない痛み。隠を祓えば、その代わりにお梅の手に戻るのはその痛みだけなのだ。
「野山の獣ならば心を潤すのは満腹感だが、此処では違うのだろう。生涯孤独だったこの女の最期を幸せな夢で彩ってやることこそ、この女にとっての幸せであり救いではないか。この女を救ってやるつもりなど端からないが、無理に引き剥がすよりはましな生き方ができるはずだぞ」
己を苛む飢餓を凌ぐために盗みを繰り返せば、そのたび孤独は深まっていく。そんな日々の中に見えた一片の光。それがお梅にとっては偽りの家族だったのだろう。私が今を生きる理由がそうであるように、今のお梅を生かしているのは家族の夢なのだ。それを失ってお梅の手元に残るのは、元あった孤独よりもずっと残酷な夢の残り香。
それならば隠の言う通り、最期に幸せな夢を見せたまま終わらせた方が、今のお梅にとっては幸せなのかもしれない。だが──。
「…………」
旭を止める手を離した私に対し、お梅は面白くなさげに鼻を鳴らした。
夢を終わらせ、終わりなき絶望に突き落とすくらいなら、今のまま終わらせた方がいいのではとも考えた。けれど、それではきっと、駄目なのだ。
「……己のつまらぬ罪悪感から逃れるために、この女を見殺しにするのか」
「……いいえ」
隠を祓うことで、お梅が終わりのない絶望に突き落とされることを知っている。けれどここで諦めてしまえば、もうあの笑顔を見ることは叶わなくなってしまう。
「……根がなければ、花は咲かないのです」
口にしたのは、いつか旭が発した言葉。お梅と麻一郎を水に浮かべた枝に例え、枝を長く浮かせるためには重たい根を切り落とすべきだと言っていたお梅に、旭がかけた言葉だ。
「葉がなければ、桜餅は作れないのです」
根を切ってしまえば、確かに楽になるだろう。けれどそれは悲しいことだ。咲き誇る桜も、生い茂る青葉も、江戸を埋め尽くす紅葉も、降り積もる雪も見ないまま朽ちることを仕方ないと割り切ってしまうのは、嫌なのだ。
「梅の実がなければ、梅干しは作れないのです。……それと、同じことでしょう」
花も葉も実も、根があってこそ育つもの。孤独の苦しみや季節が移り変わったことへの喜びは、命あってこそ感じるものだ。根を張り花を咲かせ葉を茂らせて漸く、結ばれる実があるのだ。それを知らぬまま根を切り落とすことが、お梅にとっての幸せとは思いたくない。いつかお梅が笑える未来が来ると、信じたいのだ。そしてできることなら、その隣に立ち、共に笑うのは私でありたい。
「お梅さんの幸せはお梅さんが決めることです。貴方が勝手に見せた夢の代償として、明日にでも実を結ぶかもしれない木の根を、切り落としていいはずがありません」
声が震える。角を持たないとはいえ、目の前にいるのが鬼であることに変わりはないのだ。お梅の瞳に宿る勿忘草色は、油断なく私に向けられている。ごくりと息を呑んで続けた言葉は、やはり震えていた。
「……返してください」
けれどそれは、お梅の抱える闇から目を背けないと決めた私の強さの証でもある。
「その体は、私の大切な人のものです!」
声を張り上げそう告げると、私の肩に誰かの手が置かれた。振り返ってみれば、その手の主は父である。
「よっしゃ、よく言ったぞお彩。そういうわけだ旭。早いとこあの婆さんの体から隠を追い出してやれ。あの婆さんには、桜餅二つ分のお代をきっちりもらわなきゃならねぇからな」
「分かった」
「あっ、旭様!」
父の言葉を聞くが早いか、旭は紅梅色に染まった明けの紅を片手にお梅へと突進していく。もしもあれがお梅の体に当たったらと思うと気が気でないが、隠を祓うことに関しては旭を頼るしかない。私にできるのはせいぜいお梅を傷つけずに隠を祓う方法を考えることなのだが、うまい案など思い浮かぶはずもなく、太刀と杖をぶつけ合いながら戦う二人の様子をただ見守ることしかできない。
「あの婆さんも盗人なだけあって身軽だな。旭の太刀を軽々かわしてやがる」
父の言う通り、お梅は旭が振り回す太刀を難なくかわし、さらに旭の隙をついて杖を突き出す余裕まであるようだ。時折覗く旭の目には、僅かに困惑が窺えた。お梅が繰り出した杖を弾き返し、私たちを背後に庇うようにしてお梅から距離を取った旭は、お梅を見据えたまま小さくため息をつく。
「あの婆さん、そんなに強いのか?」
「お梅がと言うより、お梅に取り憑いた隠が厄介だ。夜の青目はその名に夜を宿す鬼。日暮れと共に訪れる鬼の刻に力を増すが、朝の赤目のわしは普段通りの力しか出せぬ」
「つまり、今は旭様よりもあの鬼の力の方が強いということなのですか?」
「力自体はわしの方が上だが、気を配る相手が多い故、思うように刀を振るえぬ」
「気を配る相手……?」
旭の言う相手が思い当たらず首を傾げるが、お梅は旭の答えを待たずして杖で旭に斬りかかろうとしてくる。だがあくまで杖は杖、鞘に収まっているとはいえ太刀を相手にしてはあまりにも不利なはずだというのに、隠はまったく逃げる気配がない。
「あの隠が逃げぬのは、次に乗り移る人間の狙いをお前に定めているからだ。お前に乗り移れば、寿五郎やわしが手出しできぬと踏んでいるのだろう」
「隠ってだけあって小賢しいな。そんなら、俺はあいつがお彩に近付かねぇようにしとけばいいってことだな」
「ああ」
今までも何度か旭がしてくれたのと同じく、私を背に庇うように父が立ちはだかった。気を配る相手というのはどうやら私のことだったらしい。戦いの最中も気にかけてくれるのはありがたいが、私のせいで旭の気を散らしてしまっていたのかと考えると少し申し訳なくも思えた。
「お彩」
「何でしょう」
突然名を呼ばれたことに驚きつつ顔を上げると、旭はお梅の杖を押し返し、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
「どの程度ならお梅の体は耐えられる」
「どの程度……」
「耐えられるつっても……相手は婆さんだし、使うのは紅梅ってやつのまま変わらねぇんだろ? せめて刀の重さを変えねぇ限り、怪我は免れねぇだろ」
私の代わりに父が答えると同時に襲いくるお梅の攻撃を旭は弾き返したが、それ以上のことをする様子はない。私に止められたことを気にしているのだろう。
旭としても、隠を祓うためとはいえお梅の体を傷つけるのは忍びないようだ。私もあれだけの啖呵を切ったのだから、旭に任せきりにするわけにはいかない。考えなければ。紅梅を使わず、お梅を傷つけずに隠を祓う方法を。
「……私がわざと隙を見せて、その隙を突こうと出てきた隠に明けの紅をぶつければ、お梅さんに明けの紅をぶつけずに済むのでは……」
「いいわけねぇだろ! 何言ってんだ!」
唯一思い浮かんだ方法を口にすると、すぐさま父に却下された。流石にこれは無茶だろうかと思ったが、ここまで食い気味に否定されるとは思わなかったために、やや驚かされる。
「ですが、それ以外に方法なんて……」
「いくら何でもそいつは駄目だ! お前が怪我して桜餅作れなくなったら旭が泣くぞ!」
「……寿五郎、わしとて桜餅が食えなくなった程度では泣かぬ」
お梅の攻撃を跳ね返しつつ旭が不満げに否定するが、心なしかいつもより声が小さいような気がする。旭が泣くかどうかはさておき、旭や父を悲しませてしまうならこの方法を使うわけにもいかないだろう。思えば、小さい桜餅を作るという約束もまだ果たせていないのだから──。
「……あ」
「何だ、どうした?」
いつか交わした会話の中に解決の糸口が垣間見えた気がして、思い出しかけた記憶を手繰り寄せていく。そうだ、数日前、旭の食べ過ぎを防ぐために、大きい桜餅の半分の大きさしかない小さい桜餅を作るという約束をしていたのだ。
小さい桜餅は二つあれば大きい桜餅と同じ量になる。つまりそれは、弱いものでも積み重なれば強いものと同じだけの力を持ちうるということだ。それが分かれば、解決法を導き出すことは容易い。
息を吸い込み、ぶつかり合う杖と太刀の音に負けじと叫んだ。あの言葉を出せば、旭はきっとこちらに気付くはずである。
「旭様! 桜餅です!」
「桜餅?」
「小さい桜餅が二つあれば大きい桜餅と同じ量になるように、弱い術を何度もぶつければ、紅梅と同じ効き目になるはずです! それなら多少ぶつけても、大きな怪我には至りません!」
太刀が軽くなろうとも旭の振るう太刀であることに変わりはない。本当に怪我をしないかは分からないが、最も平穏にお梅の体から隠を追い出すにはこれしかないだろう。
私の言葉を聞いたらしい旭は、お梅の杖を避けつつ太刀を縦に握り、術の構えをとった。
「明けの紅──薄桜」
ため息をつくように術の名前を口にした旭は、太刀を握る左手を真っ直ぐ下に下ろす。その瞬間、太刀の鞘は白に近い桃色にその色を変えた。右手に太刀を携え、旭は杖を振るい襲いかかるお梅を待ち構える。振り下ろされた杖は手で防ぎ、隙だらけの脇腹に太刀を叩きこんだ。
術が弱いせいか、萩之進のように太刀を一度叩き込んだだけではお梅の体から隠が吐き出されることはないが、気を配るべき相手が一人減ったことで余裕が出てきたのか、旭も容赦なく攻め込んでいく。
振り回される杖を太い腕で弾き、足や腹、腕に太刀を振るい、確実に隠の力を削いでいった。傍目にはどれだけ隠がお梅の体から引き剥がされているのかは分からないが、全く効いていないということはないようで、旭の攻撃が速さを増していくたび、お梅の杖さばきは確かに鈍っている。
「なぁ、あの婆さん、弱くなってきてねぇか?」
「ええ、このままいけばきっと……」
うまくいきます、と口にしようとしたそのとき、杖を振るうお梅の腕が突然静止し、お梅の頭から黒いもやのようなものが染み出してきた。お梅はそのまま歯車を失ったからくり人形の如く倒れ込み、旭に受け止められる。出てきたもやのようなものは暫くお梅の体の上を彷徨っていたが、すぐに私へ狙いを定め、こちらへ突進してきた。
「明けの紅──紅梅」
やや遅れて旭が太刀の色を変えたが、旭がこちらへ来るよりも、隠が私に乗り移る方が早い。何かを防げるとはとても思えないが、お守りの簪を手にし、妖しく揺らめく隠の姿を見つめたそのとき、旭の叫びが耳朶を揺るがした。
「屈め!」
普段はありえないような旭の大声を聞いて咄嗟に父と共にその場に屈むと、そのすぐ後に聞こえてきたのは隠の叫び声。断末魔と言った方が正しいような、そんなおぞましい声だった。何が起こったのか確かめようと顔を上げると、隠は既にその身を夜に溶かし、どこかへと消え去っている。
ぼんやりと夜空を見上げる私の隣に横たわっている明けの紅を背中に背負い直し、旭は私と父に手を差し伸べた。旭の額にもう角はなく、その目もいつもの通りの黒目に戻っている。
「終わったぞ」
「……何が、起こったのですか……?」
「隠を祓ったのだ」
「いえ、そうではなくて……旭様のいる場所からでは、刀は隠に届かなかったと思うのですが」
「ああ、届かなかった」
旭の手に自分の手を重ねると、お梅に襲われそうになった私をすんでのところで引き戻したその手は、力強く私を引き上げてくれた。
「では、どのように?」
「刀を投げたのだ」
「……投げ……えっ⁉︎」
人の背よりも大きなあの太刀を、投げたというのだろうか。決して刀に詳しくない私でもいいもであろうことが一眼でわかる太刀を見やる。これを投げたとなれば江戸中の鍛冶屋が卒倒しそうなものだが、と考える私をよそに、旭は何でもないような顔をして付け加えた。
「その方が早かった」
「そ……そうですか」
兎に角それで助かったのだからいいかと思い力なく言葉を返した私の隣で、父が不意に声を上げた。
「どうかしましたか?」
「……あの婆さん、どこ行った?」
「え?」
父の言葉で先ほどまでお梅がいた場所を見てみるが、そこにお梅の姿はない。まるで最初からお梅などという人物はいなかったかのように忽然と、お梅は姿を消していたのだ。
「住処へ逃げたのか?」
「そんならいいが、万一お前の姿を見て鬼奉行を呼ぼうなんて考えてたとしたら一大事だぞ」
鬼を見て逃げた。或いは鬼奉行を呼びに行った。どちらも考えられなくはないが、私にはどちらでもないような、お梅が別の場所へ向かっているような気がしてならないのだ。旭や父の言葉と比べて確証はほとんどないが、何故か妙に確信が持てる。
「とにかく日も暮れてるし、俺たちも早く帰らねぇと」
「……あの」
早くも家へ戻ろうと提案するる父の言葉を控えめに遮ると、旭と父の目がこちらへ向けられた。まだ何かあるのかというような顔である。
「……お梅さんは、恐らく住処に逃げたわけでも、鬼奉行所に行ったわけでもないと思うのです」
「では何処へ行ったのだ」
旭にそう尋ねられても、すぐに答えを告げるのは憚られた。旭の問いに対する私の答えが正しいものであるという確信はある。けれど、できれば違っていて欲しいとも思っていたから。
「念のため確認したいのですが、隠の術というのは、隠が消えれば解かれてしまうのですよね」
「ああ」
「……そうですか」
旭の言葉にそうこぼし、ため息をつくように先程の旭の問いに答えれば、父と旭は驚いたように目を見開き、それからほんの少しだけ悲しげな眼差しで私を見つめた。