第三話 梅を望んで渇きを止む 肆
「聞き忘れていたのだが」
「何だよ」
藪から棒にそんなことを言い出す旭にやや驚かされつつ尋ねると、旭は何でもないことのように答えてみせる。髭をたっぷり蓄えたその口から飛び出したのは、実際に何でもないことだった。
「仕入れとは何をするのだ」
「ああ、団子やら桜餅を作る材料を仕入れるんだよ。その材料を扱ってるやつのところに行って、材料を必要な分買い付ける。荷物が多いもんで、なかなか運ぶのに手こずるんだが、お前がいりゃあ文字通り百人力だな」
「いくらわしが鬼だとしても、人百人分の力があるとは限らぬのだが」
「いや、ものの例えだけどよ……すっぱり否定しねぇところがおっかねぇな。お前なら本当に百人分の力くらいありそうじゃねぇか」
旭の言葉に苦笑いを返したそのとき、ふと気付いた。お前、というのは旭を示していて、鬼を示しているわけではない。人百人分の力がありそうなのは旭だからであって、鬼だからではないのだ。俺はきっと、未だにどこか鬼と旭をうまく結びつけられずにいるのだろう。
正直、未だ自分が忌み嫌う鬼という存在が間近にいる自覚があまり持てず、ふとしたときに旭の鬼らしいところを目の当たりにしては驚かされる日々だ。鬼を憎む気持ちは依然として俺の心の中に燻っているが、どうにも旭といると調子が狂うというか、俺の知る鬼とはあまりにもかけ離れた穏やかな姿に拍子抜けしそうな勢いである。一度は鬼である旭を追い出したりもしたが、あの一件をきっかけに日常に旭を迎え入れてみると、少なくとも俺の日常に旭の姿は意外と馴染んでいて、それ故に鬼という異物の象徴と結びつかないのだろう。
「……そうか……お前は、鬼なんだよな」
「それがどうかしたのか」
言葉の意味が読み取れないというように、旭は首を傾げながらこちらを覗き込む。どこまでも世間知らずな此奴と話していると、予想外の受け取り方をされることも多々あるが、これはただの独り言だ。此奴に伝わらないのも道理である。
「いや、随分と人間臭い鬼もいたもんだと思ってな」
「臭いがつくほど人と触れ合った覚えはないが……」
「ものの例えだよ。お前は随分江戸に馴染んでると思ってな」
「そうか」
何気なくそう言うと、旭は存外嬉しそうに言葉を返す。表情を変えずにここまで感情を表すとは、不器用に見えてその実、此奴は案外器用なやつなのかもしれない。
「そら、着いたぞ。あそこだ」
家紋が入った小豆色の暖簾を潜って現れた中肉中背の男の姿を確かめて手を挙げると、相手は笑顔で手を挙げ返してから、俺の隣を歩く旭の姿にぎょっとした様子で俺と旭を代わる代わるに見つめ始める。それを見た旭は何を思ったのか、俺と同じく男に向かって手を挙げた。
「寿五郎、あれは」
「あいつは壮三郎。桜餅の材料の仕入れ先だよ。お前が大好きな桜餅の材料の殆どを担ってるのはあいつって言ってもいい」
「そうなのか」
桜餅と聞くと、旭はやや声を弾ませて答えた。桜餅のことになると目の色が変わるのは相変わらずだが、果たして壮三郎にそれが伝わるかどうか。仕入れの前に逃げ出されてしまっては元も子もない。
「おう壮三郎。近頃どうだ」
「どっ、どうもこうも……いつも通りだけどよ……お前こそ何か変わったこととかあったんじゃねぇのかい」
言いつつ壮三郎は恐る恐るといったように旭を見上げた。その目には明らかな不信感が滲んでいるが、俺のように刀を取り出さないだけまだ上出来だろう。近況を聞くよりも先に旭のことを話した方がよさそうだ。
「ああ、此奴は旭って言ってな、いろいろあってうちにいるんだ。こんななりだが、悪い奴じゃねぇよ」
「何があったらこんな熊みてぇな男を家に置くことになるんだよ……」
熊どころか本物の鬼なのだが、流石にそう言うわけにもいかず、適当に苦笑いで誤魔化した。そんな俺に対して、壮三郎は眉間に深い皺を刻んで旭を見つめている。否、睨み付けていると言ったほうが正しいような、そんな鋭い目だ。
「……旭、ってのか。お前さん、家は」
「今はお彩と寿五郎の家に住んでいる」
「その前は? 寿五郎の家に住まわせてもらう前は、どこに住んでたんだよ」
まるで旭を疑っているかのように問いただす壮三郎。本当ならばここは咎めるべきと分かってはいるが、そういえば陰依山というところから来たという以外、旭が江戸に来る前のことは俺も知らない。人と関わりがあったとは思えないが、それにしても此奴の世間知らずな言動は俺からしても不可解である。果たして此奴が江戸に来る前まで何をしていたかというのは確かに疑問であった。
「少し前までは陰依山というところにいた」
「陰依山? 聞いたことねぇな。そこでお前さんは何をしてたんだ」
そこで旭は初めて沈黙する。考え込んでいるのかと思い旭を見上げれば、それよりも先に答えが降ってきた。
「……何も」
「は?」
「何もしておらぬ」
「……何もって、そんなわけねぇだろ。本当は何してたんだ。物盗りか、それとも引剥ぎか? その人相じゃ人に言えねぇようなことしてたんだろう」
「おい壮三郎、お前さっきから何言ってんだ」
「何って、お前こそこんなやつを家に置いてて何とも思わねぇのか。どこで何してたかも分からねぇ奴なんだぞ」
問い詰める壮三郎に対し、旭はだんまりを決めこんでいる。どうやら話したくないようだと踏んで止めに入れば、壮三郎は旭の目の前だというのに声も潜めずそんなことを言い出した。
「いや、此奴はそんな奴じゃねぇよ。確かに少し見た目はあれだし、どこで何してたかは分かんねぇけど……」
たとえ同じ家に住む者同士であっても、今までどこで何をしていたかを全て明かす必要はない。俺にだって言いたくないことや言えないことの一つや二つや三つや四つくらいはあるし、何ならもっとあるかもしれない。その全てを打ち明けずとも、結べる縁は確かにあるのだ。
「……此奴はそんな奴じゃねぇ。桜餅を片っ端から食っちまうってのは困りもんだけどよ、盗人だとかそういうやつじゃねぇんだって」
「何処の馬の骨とも知れねぇ奴を家に置く理由なんざ脅されてるくらいしかねぇだろうが。何か弱みでも握られてんじゃねぇのか」
「陰依山の馬の骨って言ってたろ。ちゃあんと何処の馬の骨か知れてる奴だ。心配いらねぇよ」
そもそも脅されているとすればこんなところまでのこのこやってくるようなことはしないはずだと付け加えて笑い飛ばすが、それでも壮三郎はまだ旭を訝しんでいるようで、眉間に刻んだ皺を緩めようとしない。少し追求されると此奴が鬼であることをうっかり話してしまいそうで避けていたが、これは話せる事情だけでも話さなければ納得してくれないだろう。
「……何で此奴をうちに置いてるのかって聞いたな。いろいろ説明が面倒なんで誤魔化しちまったけどよ」
念のため話しても構わないかどうかを目で旭に確かめてみるが、旭は不思議そうにこちらを見つめるばかりで、どうやらよく分かっていない様子である。話すといっても当たり障りない部分だけであるし、別に話しても構わないだろう。
「此奴をうちに置いてんのは、此奴が娘の恩人だからであって、別に此奴が勝手に居座ってるわけじゃねぇんだよ」
「恩人?」
「ああ。うちの娘が江戸に来たばかりの此奴に助けられて、寝床を探してるっていうからうちを貸してる。そんだけだ。何度も言ってるが、お前が疑ってるようなことは何もねぇよ」
そう言われても尚信じられないというように旭を見上げる壮三郎だが、俺が嘘をついている気配がないことを悟ったのだろう。仕方ないというようにため息をつき、軽く頭を下げた。
「そうか……悪かったな。恩人疑うような真似しちまって」
「まったくだな。昨日も此奴は麻一郎とかいう奴に文句言われたって言ってたぞ。麻一郎の母親に連れられて家まで行ったら、おっかあに何すんだって水ぶっかけられて追い返されたんだとよ。見かけがこうだからって酷いもんだな」
「文句を言ってきたのは麻一郎だが、水をかけてきたのはお染だぞ」
「まぁ細かいことは気にすんなって」
「そりゃあ災難だったな。だが、そいつはたぶん人違いだ。麻一郎な訳がねぇ」
壮三郎は俺の言葉をまるで本気にしていないかのように笑い飛ばす。そこにいたわけでもないのに何故そんなことが分かるのだろうか。旭を疑ったことといい今といい、少し思い込みが激しいような気がする。
「何でそう言えるんだよ」
「何でって、其奴のことは俺もよく知ってるんだよ。多少びびりなところはあるが、逆に言えばこんな熊みてぇな男に歯向かう度胸なんてありゃしねぇってこった。それに第一、それが本当に麻一郎だとしたら、お前らの話と合わねぇんだよ」
「合わねぇ? どこがだよ」
「麻一郎の母親が、家に其奴を連れて行ったってところだよ。そんなことはありえねぇ。何てったって」
むきになる俺を宥めるように笑みを浮かべ、壮三郎は続く言葉を口にした。
「麻一郎の母親は、十数年前に流行病で死んでるんだからな」
「……一体全体、どういうことだかまるで分かんねぇや」
両手いっぱいの荷物を抱えて歩く帰り道、壮三郎から聞いた話を思い出して呟くと、隣からは唸るような声が返ってくる。
「麻一郎の母親はもう死んでいると言っていたが、麻一郎はお梅のことを『おっかあ』と呼んでいたぞ。あれは母親を表す言葉なのだろう」
「ああ。同じ名前の別人ってことがないなら、少なくとも麻一郎にとって、あの婆さんは自分の母親ってことだ。何かの拍子におかしくなっちまったとかそういうことなんだろうが……そこに付けいるあの婆さんも婆さんだな。お彩には悪いが、これ以上関わらねぇように言っておかねぇと」
お梅に懐いていたお彩のことを思うとあまり気が進まないが、客とはいえ得体の知れない人間を茶屋に招くわけにはいかない。それならばまだ萩之進の方が素性が知れている分、多少は信用できるというものだ。
見えてきた茶屋にお梅の姿を探すが、腰が曲がったあの老婆の姿はどこにもない。あの老婆といえど、閉まっている茶屋に押し入るような無茶はしなかったらしいと分かり、内心ほっとため息をついた。
「お彩、帰ったぞ」
空の端々に橙色が見え始めた事に気付き、やや急ぎ足で家へ戻るが、そこにお彩の姿はなかった。茶屋は早くに閉めているし、もしかすると二階にいるのかもしれない。
「寿五郎、これはどこに運べばいい」
「ああ、此処に置いといてくれて構わねぇよ。おおい、お彩、帰ったぞ」
二階に向けて呼びかけるが、やはり返事はない。お彩に限って寝ているということはないだろうが、万一倒れているというようなことがあれば一大事である。何となくざわつく胸を押さえつつ階段を上るが、やはりお彩の姿はない。
「……お彩?」
注意深く周りを見回しながら階段を降りていくと、周りにばかり気を取られたせいか、最後の数段を踏み外してしまい、前のめりに躓いた。それでも、心配げに声をかけてくれるのは旭のみである。
「お彩」
縋るように名を呼んでも、あの黄色い着物を着た娘が姿を現すことはない。白髪に赤目はただでさえ目立つし、自分の娘ならば見逃すはずがないのだ。それなのにお彩は、俺の娘は、一向に姿を現さない。
戸の向こうに広がる橙は、鬼の刻がすぐそばまで差し迫っていることを俺に知らしめる。今までも鬼の刻に出歩くことはあったが、そういうときにはきちんと俺にその旨を伝えていた。どこかに出かけているのかとも思ったが、気にし過ぎなくらいに人目を気にするお彩が一人で外に出たとは考えにくい。だとしたらどこに、と宛てもなく彷徨う俺の思考を遮る、足音。
「お彩!」
思わずそう叫びながら外へ飛び出すと、そこに見えたのは緑の着流しに貧相な木刀。それからおはぎのような黒くて丸っこい物体だった。
「俺をあの娘と見間違えるとは、とうとうその老躯にもがたが来たようだな」
「……何だ、お前か」
「何だとは何だ。この寂れた茶屋にわざわざ茶を飲みにやって来てみればその態度か」
明らかに落胆する俺を見ながら憎まれ口を叩く萩之進。いつもならその生意気な面を引っ叩いてやるくらいの気概は見せるものだが、今はそんな気すらも起きない。
「……今日はもう店仕舞いだ。帰んな」
「店仕舞い? 何だ、とうとう店を畳むのか」
「ちげぇよ……旭と一緒に仕入れに行くために閉めてたんだよ」
萩之進を適当にあしらいつつも、俺の頭を駆け巡る関心ごとはお彩がどこに行ったかという一点のみである。
元々あまり外に出たがらないせいで、お彩が行きそうなところなど見当もつかない。江戸中を探し回るにも時間がないし、旭を連れていれば鬼の刻も平気かと思ったが、鬼と共に出歩いて鬼奉行に出会すことを考えると恐ろしい。
だが、そんな中をお彩は一人で歩いているかもしれないわけで、と考え込む俺をよそに、萩之進はいつまでも好き勝手に喋り続ける。悩んでいる暇があるならさっさと此奴を追い出してお彩を探しに行った方がいいだろうかと思い始めたそのとき、萩之進の一言が不意に耳に引っ掛かった。
「ふん、あの娘といいこの鬼といい、年寄りの手伝いをして人間気取りか」
「……今、何て?」
「は?」
「今何つった?」
「聞こえなかったのか。人間気取りと……」
「馬鹿、その前だ!」
胸ぐらを掴みそうな勢いで詰め寄ると、萩之進は怪訝そうな表情を浮かべながらも答えた。
「あの娘といいこの鬼といい、年寄りの手伝いをして人間気取りかと言ったのだ。一度で聞け阿呆」
「娘ってのはお彩のことだよな。年寄りって、婆さんのことか」
「……ああ、ついさっき、向こうの廃寺の辺りを歩いているのを見た。あのような不気味な場所に近寄る者など、それこそ鬼としか思え……」
「助かった! 今度来たときゃ茶くらい出してやるよ!」
萩之進の言葉を最後まで聞かずに駆け出すと、背後から追い風の如く萩之進の怒鳴り声が聞こえてきた。人の話は最後まで聞けと言っているようだが、今はそれどころではない。鬼の刻が来る前に、何としてもお彩を連れ戻さなければ。
「寿五郎。何故急いでいるのだ」
「鬼の刻が近いからだよ! 日が沈むと鬼が出るんだ! それまでに連れ戻さねぇと……」
日が沈めば出てくるのは鬼だけではない。お彩を鬼と誤解し襲いかねない鬼奉行もうろつき始めるだろう。そんな中を老婆と娘が出歩くなど危険なはずで──。
「……なぁ旭。あの婆さん、鬼ってことはねぇよな」
ふと脳裏をよぎった予感を口にすると、隣を走る旭は暫し黙考した後、答えた。
「いや、お梅から陰の臭いは……」
しなかった、と続けられるはずの言葉は何故か途中で打ち切られ、旭は不意に何かに気付いたように足を止める。
「何だ、どうした?」
「……こちらだ」
「は? 何言ってんだ、廃寺はこっちだよ」
「いや、こちらだ。微かだがこちらからお彩の匂いがする」
まるで犬のような旭の言葉に半ば呆れつつ足を止め、旭が指差す方を見やる。廃寺へ続く道から外れた人気のない一本道だが、果たして本当にこの先にお彩がいるのだろうか。
「まぁお前が言うならそうなんだろうな。そんなら日が暮れる前にさっさとお彩を連れ戻すぞ」
「……日が暮れる前というのは無理だろう」
考える暇があるならば今は早くお彩を連れ戻さなければと意気込み、旭に続いて一本道を駆けていくと、俺の前を走る旭は何やら意味深な言葉を吐き出した。
「どういうことだよ。確かに茶屋からは随分離れちまったけどよ……鬼の刻っていっても、お前がいりゃあ多少何とかなるだろ?」
「そうではない。この先から、お彩とは別の臭いがするのだ。……どんどん濃くなっている」
「別の匂い? あの婆さんのものじゃねぇのか?」
「違う」
俺の言葉を即座に否定しながらも、旭は何の匂いがするのかを教えようとはしない。俺も必死に匂いを辿ってみようとあちこちを嗅いでみるが、旭が立てた土埃の臭いに紛れてよく分からない。そもそも俺は犬ではないのだから、匂いが嗅ぎ取れないのも仕方がないことなのだが、と、そこまで考えて、旭にしか嗅ぎとれない臭いがあることを思い出した。
人よりもずっと優れた五感を持つ此奴が、取り分け他の生き物よりも敏感に感じ取る臭い。
「……旭、お前……何でそんなに急いでんだよ」
違ってくれと願う俺の心を知ってか知らずか、旭は答えようとしない。いつの間にやら旭は俺よりもずっと早い足取りで道を駆けていて、それが俺の問いの答えであるような気がした。仮に俺の予感が外れているのだとすれば、此奴がこんなに焦っているはずがないのである。
旭は背中に背負った明けの紅と暮れの藍を乱暴にがちゃがちゃと揺らしつつ、唸るようにして答えた。
「陰の臭いがする」