表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

タイムカプセルを開けたら、未来からのメッセージが入っていた件

作者: 零月零日

『おーい、二十歳になったヒロ。元気か? 七十一歳になったヒロだぞ』


 老人が笑っている。


『お前はこれから、駅で運命の人と出会う。髪の綺麗な、お前くらいの背の女の子、サッちゃんだ。お前はサッちゃんに一目惚れする。だけどお前は、自分に自信がなくて、声をかけられずにただ見ているだけだった。見てるだけでいいと、諦めちゃった』


 老人の言葉はそこで一度止まった。

 そして、老人の目が左右に動き、唾を飲み込み、言いづらそうに声を出す。


『お前が諦めちゃったから、サッちゃんは、電車に轢かれて亡くなった』


 老人の目から、涙は流れなかった。


『お前はこれからずっと後悔する。だからヒロ、自信を持て。失敗を恐れるな。彼女に声をかけるんだ。約束だ、頑張れよ』


 大きく手を振る老人の映像がノイズと共に終わりを告げた。



 ホログラム投影だった。



 で。

「ヒロって誰だ?」

 俺こと明野翔は、一人困惑していた。




「いた。ヒロ、佐藤博」


 二十歳になったら開けようと、クラス全員の総意で作られたタイムカプセル。

 だが、土に埋めたら見つからないかもしれないからという理由で、当時学級委員長だった俺の家で管理することとなっていた。それを一人で開け、俺は卒業文集とにらめっこしていた。


 クラスにいた『ヒロ』は一人しかいない。


 集合写真の真ん中にいる、笑みを浮かべてピースサインを浮かべる「佐藤博」少年。

 写真というのはすごい。その存在を完全に忘れていた同級生のことを思い出させてくれる。

 佐藤博は、スポーツが得意なクラスの人気者だった。その記憶に間違いはないようで、卒業アルバムに映る彼は、笑顔でいかにもやんちゃ小僧といった感じで、じっとしている写真はない。

 驚くほど、俺と彼には接点がなかった。

 先ほどの映像の老人と似ているかと言われれば、正直分からない。

 だが、クラスで埋めたタイムカプセルの中から、ヒロ君あてのメッセージが出た以上、それはこの「佐藤博」くん宛以外有り得ない。

 例えそれが未来からのメッセージであったとしても。

 ただ。


「七十一歳のヒロ君、頼むからちゃんと自分が参加するイベントにそのメッセージは仕込んでくれよ」


 なんだよ、サッちゃんが死んじゃうって。

 こんなメッセージ、俺だけに託さないでくれ。

 投げ出したい。誰も覚えていなかったタイムカプセルの中身の伝言など。未来からのメッセージである確証もない、イタズラの可能性の方が高い何かなど。

 だが。


『おーい、二十歳になったヒロ。元気か? 七十一歳になったヒロだぞ』


 円形の装置のボタンを押せば、老人の痛々しい笑顔が、五十年の後悔が立体となって現れる。その後悔が、ただの音声として終わることを、俺は許せない。意外なことに、ヒロと俺の精神構造は似ているようだ。

 後悔なんてしたくない。

 無視できるはずがなかった。

 



『頼む、「佐藤博」を見つけてくれ。

 俺は無理だった。

 サッちゃんがヤバイ』

 

 そんなメッセージをSNS上に残すくらい、俺は切羽詰まっていた。本当にやばいのは俺だ。

 「佐藤博」が見つからない。

 そもそも、どうやって交友のないかつてのクラスメイトの連絡先を入手すれば良いのか。この個人情報保護が謳われる社会において。

 おまけに、高校生になった時に俺はこの街から離れていた。

 親戚の法事で同窓会に参加しなかった弊害もある。今もなお連絡を取り合うような、当時のクラスメイトがいない俺には荷が重いミッションだ。


 俺が「佐藤博」を見つけられなければ、一体どうなるのだろう?

 何も知らず、「佐藤博」はサッちゃんと出会うのだろう。

 出会って、恋に落ちて、声を掛けられず、諦めてーーそして、彼は五十年以上も後悔を続ける。

 卒業アルバムを見たせいか、かつてのヒロ少年の笑顔が思い浮かんでしまう。

 頑張ろう。



 連絡網という過去の遺物を引っ張り出し、フィールドワークが徒労に終わったその日。

 夕日が差し込む、帰りの駅のホームだった。

 その女性は、俺と同じくらいの背丈で。

 新月の夜のような黒髪がとても美しく。

 黄色い線の上にあるその細い体は、今にも線路に飛び込んでしまいそうな危うさがあって。


「おいおい、まじか」


 この駅に、ホームドアはない。

 ヒロはどこだ。

 ホームを見渡すが、二十歳と思わしき男性は、俺以外にいない。


「……っ!」 


 今日ではない? そんな確証はない。

 あのメッセージは俺宛だったのか? 俺に『ヒロ』なんて呼び名はない。

 声をかけるべきか? それは『ヒロ』がするべきことだ。

 脳裏に疑問と否定の嵐が巻き起こる。行動と正常な思考が帰ってこない。

 線路の先に、特急が見える。この駅には止まらない。

 ーーどうする?


 俺はヒロじゃない。彼女もサッちゃんとは限らない。彼女に飛び込むそぶりはない。彼女が轢かれるのは今日とは決まっていない。


 行動は決まった。


「すみません。東西線って、ここで合ってますか?」


 俺は自然と彼女の肩に手をやり、声をかける。

 ビクリと体を震わせた彼女は、それでもこちらを振り向いた。

 僅か後、電車が通り過ぎていく風が、彼女の髪を靡かせる。甘い香りが、怯えと困惑を秘めた切れ長の瞳が、未だ肩に置いた手から伝わる彼女の震えが。

 全てが俺の琴線を揺さぶった。


 彼女だ。


 俺のどうでも良い質問に彼女がなんと答えたかは、残念ながら記憶にない。

 ただそれでも、彼女は律儀に答えたからこそ、その続きは生まれた。


「あの、ーー君、名前は?」


 煩いくらいの胸の鼓動が時間を引き延ばし、その答えは、彼女の声は、暗闇に突如さした光のように、俺の世界を変えた。


「……さくら」


 俺は自然と笑みを浮かべていた。

 しばらくぶりに浮かべた笑顔が、彼女にどう見えていたのかは知らない。この後、通報されなかったのがその答えだろう。

 俺の心は澄み渡っていた。

 俺は答えを得た。


「俺が、ヒロだ」

「……は?」


 リスがバイオリンを弾き出したのを見たような、あっけらかんとする彼女に、俺は告げる。


「そして、君はサッちゃんだ」

「は??」


 君が、俺のサッちゃんになれ。

 俺は、『諦めちゃった』と言われたくない。




「すごく驚いたよ、ヒロ。十六年ぶりかな?」


 切れ長の瞳で俺を見つめ、笑みを浮かべるサッちゃんに対して、俺も下手くそな笑みを浮かべた。

 まずい事になった。

 駅近くの喫茶店、パフェを挟んで向かいにサッちゃんがいる。

 その向かいにいるのは・・・。


「ヒロは変わらないね。いつも突然話しかけてくる」

「ははは」

「別に褒めてはいないよ。気安く乙女の体に触れない方が良いと思うよ」

「……すみません」

「ふふ、そうやってすぐに謝れるところも変わってない」


 可笑しそうに笑うサッちゃん。俺も笑いたい。

 めっちゃ変わったよ。人が変わったってレベル。


「でも、嬉しかったよ。ヒロから声をかけてくれるなんて。下手くそなナンパにしか聞こえなかったけど。ヒロのセンスは、幼稚園の頃から変わらない。三つ子の魂百まで、だね」


 いつの間に憑依されたのだろう。


「そうだ、覚えている? 私が虫を観察していたら、ヒロは怖がって話しかけてこなくなったこともあったね。今もね、とびっきり可笑しな虫を観察しているんだけど、どう思う?」


 一体何を観察しているんですか? 虫ってのは、悪い虫のことですか? 目の前にいるちょっと震えているようなやつのことですか?


「バナナ好きだったよね。食べて」

「別にバナナは好きじゃないけど?」


 サッちゃんはバナナが好きなはずだろ!

 んん? と意味ありげに首を傾げながら、生クリームをたっぷりとつけてバナナを食べるサッちゃん。

 おい、七十一歳のヒロ。サッちゃんと知り合いだったなんて聞いてないぞ。

 俺は今、怪しまれている。ヒロの笑い声の幻聴も聞こえる。

 やはり俺はヒロではなかったのだ。


「お返しにポッキーをあげよう」

「……ありがとう」


 受け取った手は震えていたかもしれない。

 だが、ふと視線を上げ、何やら楽しそうにしているサッちゃんを見れば、不思議と心が満たされ、体の震えも収まった。

 もしもタイムカプセルを掘り起こしていなければ、彼女はここにはいない。

 この笑顔を、俺は見ることはなかっただろう。

 やり遂げた達成感と、すごく個人的な感情が口をつく。


「俺、今、すごく嬉しい」

「……そんなにポッキー好きだった? 残念、もう無い」


 思わずポツリと出た言葉は、しっかりと聞かれていた。

 俺は恥ずかしさから、リスのようにポリポリとポッキーを齧りごまかした。



 サッちゃんとの語り合いは星空が見えて終わりを告げた。

 二人で駅に向かい、奇しくも俺とサッちゃんの降りる駅は一緒で、彼女を家に送り届ける。


「今日はありがとう。付き合ってくれて」

「いいよ、こちらこそありがとう。パフェだけじゃなくご飯まで奢ってもらったし」


 ごちそうさま、と笑顔を浮かべる彼女に、俺はホッと息をつく。

 七十一歳のヒロ、俺はやりきったぞ。

 ここが私の家だから、と綺麗な家の前で、サッちゃんは笑った。

 そして。


「本当に。ヒロに会えてよかった」


 思わず、俺は息を飲んだ。

 彼女のその笑顔はあまりにも儚く、今にも泣き出してしまいそうで。

 俺は、ここでこのまま彼女と別れることがとても恐ろしくなった。


 ああ、そうか。

 最悪だ。彼女、本物のサッちゃんだ。

 ヒロを五十年にわたって苦しめるサッちゃんだ。

 出会って終わりでない。

 むしろ、ここからが始まりなのだ。

 そして、俺の達成感が告げる。彼女に悲しげな表情を与えた俺に。

 お前では、ダメだと。

 だからこそ、俺にはまだやるべきことがある。


「さくら」

「え?」


 驚いたようにこちらを振り返るサッちゃんに、俺は。


「……次の祝日、花見に行こう」


 ヒロに会わせようと、そう思った。

 

 

 ヒロは見つからない。

 待ち合わせ時間の30分前、俺とサッちゃんはばったり出会った。


「早いね。さすがヒロ」

「サッちゃんを待たせるわけには行かないから」


 俺の手にはバスケット。

 彼女の手にもバスケット。


「今日は長丁場になりそう。私、何も知らないもの。たくさん話をしようか」

「そう、だな」

「ヒロのこと、たくさん教えて」


 そういって笑みを浮かべるサッちゃんは、獲物を見つけた蛇のようで、俺はボロが出ないか恐怖に震えた。

 さくらを見ながら、二人で作った弁当を食べる。


「ヒロ、花ばっかり見てないで私の顔見て話をしよう?」

「いや、花見のメインはさくらだ……もんな、そうだな。すまん」


 横の桃色になったさくらが風に吹かれたかのように外方を向く。

 俺の食べた弁当は少しだけしょっぱく、喉を通りずらかった。

 俺の騙りは意外なほど、彼女の想像上のヒロと一致していたようだ。彼女の矢継ぎ早な質問にも、しっかりと答えられた。ヒロを知らない俺は、自分自身のことの一部を小学校の人気者っぽく脚色して騙った。なんと答えたかは覚えていないが、彼女に不審がられた気配がないのが救いだ。


「今日はありがとう。楽しかったよ」

「そう? なら良かった。俺も楽しかった」


 彼女の家に、明かりは灯っていない。

 それは極当たり前のことなのか、俺にはわからない。

 だが、物憂げな表情の彼女を見ていれば、まだこの関係を終えていいとは思えなかった。


「どうしたの、ヒロ?」


 夜の闇に溶けそうなサッちゃんを繋ぎ止めるべく、俺は言葉を探した。


「さ……かな。次の休みは、水族館に行こう」


 早くヒロを見つけなければ。

 



 ヒロはまだ見つからない。

 サッちゃんが優雅に泳ぐ亀を見つめる姿を、俺はぼうっと眺めていた。


「もし亀を釣り上げたら、ヒロはきっと浦島太郎みたいに亀を助けるんだろうね」

「そうかも」

「そうだよ。……助けなければよかったって、思う?」

「そうは思わない」


 何を、とは聞かずに俺は答えた。

 ヒロの後悔は、そうじゃない。

 後悔は、助けられなかったことの後悔だ。

 決して、君に出会わなければよかったなどと言いはしない。

 彼がするのは。


「ただもう一度、亀に会おうとするよ」


 だからこそ、今ここに『ヒロ』がいるんだ。


 帰りの電車、サッちゃんは疲れたのか俺の肩を枕に寝ていた。

 重いなぁ。


「ごめん、私だけ寝ちゃって」

「いいよ、付き合ってもらったのは俺だから」


 人気がない家の前、寂しそうにするサッちゃんに、俺は時間を稼ぐ。


「さ……そり」

「は?」

「さそり座を、見に行こう」


 夏の大三角じゃないのか、と彼女は笑って頷いた。

 それはヒロと見に行ってくれ。




 そして。




「博君な、一昨年に亡くなってる。交通事故だ」

 かつての担任からの連絡だった。



 父親が病気で亡くなった。癌だった。

 俺はバイトを始めた。父に託された、母と妹、二人の家族を守るために。

 少なかった友達はいなくなった。それでも、俺には母と妹がいる。

 何も困らない。二人の笑顔だけで、俺は頑張れる。

 父親がいなくなったことで不幸になったなんて言わせたくない、もっと良い生活をさせてあげたい。そう思い、奨学金で俺は大学に通い始めた。

 バイトと勉強ばかりの毎日だったが、苦しいことはなかった。


 母親と妹が交通事故で亡くなった。相手の飲酒運転だった。相手も逃げた先で別の交通事故を起こして、死んでいた。

 復讐することすらも許されない。

 好きなように生きれるじゃないかと、誰かが言ったけれど、俺は今までだって好きなように生きていたのだ。

 父が俺を頼ってくれたことが嬉しかった。母と妹が苦労しないで暮らせることが誇らしかった。負担だなんて思ったことは一度もなかった。

 だけど。

 父の運転で行った旅行はもう行けない。水族館で腕を引いてショーを見て、疲れて眠る俺を家に届けてくれる人はいない。

 母が作ってくれるお弁当はもう食べられない。俺の好きな食べ物を知っている人は誰もいない。

 妹が見せてくれた笑顔はもう見れない。誰も俺に感謝の笑顔は見せてくれない。

 いることだけは知っていた祖父も先日亡くなり、俺に家族はいなくなった。

 俺にはもう何もない。

 なんのために生きればいいのか、俺にはもうわからなくなっていた。


 だから。

 身辺整理で見つかったタイムカプセルのメッセージなんかに、俺は本気になっていた。


 


 ヒロはもう見つからない。


『おーい、二十歳になったヒロ。元気か? 七十一歳になったヒロだぞ』


 未来を変えようとした代償だろうか。博はもういない。

 このメッセージが本来届くはずだった人は、もういない。


「久しぶりだな、こんなに綺麗な星空を見たの」


 広大な大地ゆえに、都心から僅かに離れただけで見える星の数は大きく増える。

 はしゃぐサッちゃんを見て、妹の夏休みの宿題に星座を描いたのを思い出した。


「あっ、流れ星」


 そうだ。あの時も、俺は流れ星を見た。

 ペルセウス座流星群だ。


「ヒロは何を願った?」


 俺はあの時、確かに自信を持って妹に答えたはずなのに。

 自分自身の願いだったはずなのに。

 父の病気はまだ知らなくて、母と妹は健在で、自分自身の夢が確かにあったあの時、俺は何を願ったのか。


「覚えてない、なぁ」


 会話にならず、サッちゃんには怒られた。

 


「ヒロ、ありがとう」


 いつもの帰り道、彼女の家の前で、初めてサッちゃんは笑った。

 俺も笑った。

 俺が彼女に自信を持って与えられるものは、俺が与えられて嬉しかったものだけだ。

 もう、俺に与えられるものはない。

 だからーー。


「次の休み、ヒロの家に行ってもいい?」


 その日、俺は初めてサッちゃんから誘われた。




 未来からのメッセージだなんて産物があまりにインパクトが強すぎて、すっかり忘れていたが、タイムカプセルの本来の目的は、逆、未来へメッセージを送ることだ。

 あの頃の自分は、何になりたかったのか。

 その答えはーー。


『二十歳になった僕へ

元気ですか? 僕は元気です。

辛いことがあっても頑張ってください。

僕は、カッコいい大人になれましたか?』


 当時の自分の優等生っぷりが嫌になる。

 何だろう、カッコいい大人って。



 サッちゃんを自宅に招く前日。

 あまりに何もなかった冷蔵庫に食材を詰め込むべく買い物に出た俺の目に、信号待ちをする家族の姿が止まった。

 楽しげに手を前後に揺らす少年と少女を両手に、母親が笑っている。

 その姿は、まるでかつての自分のようで。

 少年の手にある『ソレ』を見て、俺はようやく思い出した。


 その夢をタイムカプセルに書く人はいないだろう。

 流れ星に願ったとしても、忘れてしまうだろう。 


 だが、俺が何になりたかったのか、何をしたかったのか、やっと思い出した。

 俺は、当時の自分に頑張ってるよと答えられそうだ。

 青信号を前に、少し軽くなった足を出し。

 ふと視線を向けた先で、赤信号を無視して突っ込んでくる車を見て。

 死にたくないなと思いながら。

 俺の体は動いていた。

 

 ごめん、さくら。

 

 迎えに行けない。






 次に目を覚ましたのは、病室だった。

 体が思い通りに動かない。

 どうやら、随分と寝ていたみたいだ。

 カレンダーは、約束の日があった月ではない。

 世間一般のいう夏休みに入っていた。


 幸いなことに、俺が身を呈して庇った家族に怪我はなく、俺だけが頭を強く打って昏睡状態だったらしい。

 つまり、サッちゃんとの約束を破ってしまったわけだ。

 先日までの俺ならば、慌てふためき病室から飛び出し、必死に駅へと向かっただだろう。寂しげなサッちゃんとの約束を果たすために。

 だけど、俺には彼女は大丈夫だという感覚が不思議とあった。

 最後に見た彼女は、笑顔だったから。

 きっと許してくれる、そんな気がする。

  

 ふと、横を見れば、サイドデスクに手紙があった。

 それは、俺が助けた家族がくれたものか、はたまた、また未来からの手紙か。

 よく動かない体を必死に動かし、俺はその手紙を開けた。


『名前を知らないあなたへ


あの日。

駅のホームであなたが私を引き止めてくれたとき、あなたがどんな思いで私を引き止めたのかを知りません。

だけど、あなたのおかげで、私は今日を生きています。

両親を交通事故で亡くして、止まっていた私の時間を、あなたが動かしてくれました。

全てを投げ出したかったあの日、あなたが私を引き止めてくれて。

あなたという不思議が、私にときめきを与えてくれて。

あの誰もいない家に帰る私に、生きる目標をくれて。


だから。

『ヒロ』と名乗る、名前を知らないあなたに伝えたいことがあります。




あなたのサッちゃんより


 手紙は終わった。

 彼女が最後に書きたかったことはーー何度か書いて、消された跡しかない。

 だが、俺がそれに何かを考えることはなかった。


 知らず、病室のドアは開いていた。

 思い返せば、ベッドの横の花瓶には、真新しい花。

 

 ベッドの横に、一人の女性がいる。


 俺は、君に名前を教えてない。

 名前を知っていたって、どこにいるかを知るのはすごく大変なことを俺は知っている。

 それに、俺は約束を破った。


「……どうして、ここに?」


 掠れた声しか出ない。

 そんな俺の姿を見て、さくらは静かに笑った。


「『あなたに伝えたいことがあります』」


 それは、彼女が何度も書き直した手紙の内容で。

 きっと、直接伝えたいことなのだ。

 ベッドに腰を下ろし体をよせて、彼女は笑って告げた。





「ありがとう、私のヒーロー」




 

 小学生の俺が恥ずかしくて書けなかった将来の夢は、今叶った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「行きたいところがあるんだ」

「いいよ。どこ?」


 楽しげに笑みを浮かべる彼女と、俺の出会いはただの偶然に過ぎない。


 もしも、俺のさほど良くもない記憶が、七十一歳の『ヒロ』のことに気づいていたならば、俺は卒業アルバムを見たりはしなかっただろう。

 もしも、卒業アルバムに『佐藤博』がいなければ、俺はそれを未来からのメッセージとは考えなかっただろう。


 そういう意味で、この出会いは運命のいたずらとしか思えない、偶然の産物だ。

 だからこそ。

 今の時期ならば、会えるかもしれないから、俺は行かなければならないと思うのだ。

 


「二人のヒーローへお礼に」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 読んで良かったと思いました。 [一言] 私のカテゴリ1にある最初のブックマークは何だったかと確認すれば、例えば仮の魔王様の名前がありました。懐かしいと思い作者ページにも跳…
[良い点] 面白かったです! まさかこれがリハビリとは思えない完成度でした。
[良い点] 心が温まったわ [一言] おかえりなさい
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ