二十、空調設備濾過材交換作業
例の汚染は検出したときから五日目になるが、初日に比べたらわずかになったとはいえ、まだ検出される。昨日あんな返事をもらったので、ヒデオは無視して処理しているが、口中の髪の毛のようにわずらわしく、完全に無視しきれない。
「なに? まだ気になるの?」
画面の片隅にそのデータを表示しっぱなしのヒデオの画面を見てタキ先輩が話しかけてきた。
「いや、ちょっと。汚染がここに急に湧き出してるっていうのがわからなくて」
「もし輸入建材とか貨物だったら梱包が厳重だったとか、そういうことなんじゃないの? 開けた所で急に拡がったのよ」
「ただ荷物を開けただけなら長く続きすぎですよ」
「まあ、そうね。変は変。でも、それを追いかけてる時間はないわよ」
タキ先輩はすこし強い口調で言った。ヒデオもそれはわかっている。いまは論文のためのデータ収集と整理を優先すべきだ。うなずいて汚染データの画面を追いやった。
しかし、頭の中ではそのことばかり考えていた。その場所に突然現れた地衣類の胞子。遠い外国産。日本では生息できない種類。JtECSは当初の判断を誤った。輸入建材か貨物、または旅行者が運んだと推測されるが、五日目の今日も検出されている。
ヒデオはそっと検出データを時系列でならべてみた。なぜか昼間だけ検出されている。正確には午前十時頃から検出され始め、脈動するように増減するが、午後四時以降は検出されなくなる。それが規則正しく繰り返されている。
もう一度問い合わせてみようか。しかし、JtECSだってこれには気づいているはずだし、対応は行わないと言ってきたのだから無駄だろう。それに、環境に害を与えないのに好奇心だけで調査してくれともいいにくい。
また、ほかの監視団体にはうるさがられてしまった。娯楽作品によく出てくる『プロ以上の働きをする素人』にでもなったつもりかと思われてしまってないだろうか。
決定的な証拠があれば別だが、いま手元にあるのは、妙ではあるがごくわずかで無害、それにJtECSも認識済みのデータにすぎない。
ヒデオはノイズを切り落としたり丸めたりしながら、この件を頭から追い出そうとしたが、できなかった。
こういうときにすることはわかっている。後はやるかやらないかだけだ。
ヒデオは決断した。
「すみません、用事があるので先に帰ります。整理したデータはいつもの共有領域に入れておきましたから。失礼します」
現場は前に測定に来た時と変わらず、高級住宅地らしい静けさだったが、工事の音だけがしている。
しかし、その工事も終わりかけのようで、音は小さく、耳障りでもなくなっていた。
なんの工事なんだろう。ヒデオは掲示してある認可番号から調べてみた。環境に負荷をかける可能性のある作業はすべて認可が必要で、番号が交付される。環境保全について調べているときに知った知識だった。
すぐに、『空調設備濾過材交換作業』と表示され、その後にお決まりの責任者や工期などの情報がずらずら並んだ。
濾過材の交換? 輸入建材を使った増築とかの工事じゃなかったのか。ヒデオはあてが外れた気がした。
しかし、工期の始まりは検出初日と一致しており、工事の時間は午前九時から午後五時までとなっている。一週間かけるようだ。
それにしても、一般家庭の空調設備なのに大げさで長くかかりすぎる気もする。ふつうのエアコンとは違う。呼吸器系の病人でもいて、特別な空調設備を使っているのだろうか。それなら筋は通る。空調を止められないので、動作させながら少しづつ交換するため時間がかかるのだろう。
でも、どう考えても外国産の地衣類の胞子とは無関係だ。フィルター交換中に濾過したものが飛散することはあるだろうが、それなら周辺の環境にそぐわないものは出てこないだろう。
見るものは見たので、もう帰ろうとした時、工事をしている家の二階の窓から見下ろしている老婦人と目があった。なにも悪いことはしていないが、なんとなく恥ずかしくなってその場を急ぎ足で離れる。
あの人が病気なのだろうか。そんな感じには見えなかったが。




