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【A-4】

【A-4】

 

 黒緑の板地に真っ白な線が描かれていく。

 それはグラフ表だった。xだとかyだとか、そんな数字が並べられた盤面を半円の弧が貫いて。

 教壇に立つ初老の女性は、教科書を片手にその図形を解説している。このXとYの関係ですが、Zが加われば図は大きく変わります。なんて。

「えー……、この様にきちんと式を憶えてないと途中計算を間違えているのに、偶然にも答えが同じになってしまうことがあります。しかし計算としては間違っているし、いつも正解するとは限りませんので……」

 その解説をちゃんと聞いて、ノートにペンを走らせる者は教室に数人といなかった。

 昼飯後の数学授業だから皆が眠っている、というわけでもない。

 受験前の時機にもなればこの辺りは既に予習だとかで終わらせて、授業中は別の苦手科目に取り組むという生徒が多いのだ。

 このクラスもご多分に漏れず数学がよほど苦手な生徒以外は数学の授業中にもかかわらず、国語だとか社会だとかの教科書を机へ拡げており、かぶりつくように読み込んでいた。

「……はぁ」

 初老の女性教師は解説の合間にため息を零す。

 本当は注意すべきなのだろうけれど、彼等も必死なのは変わりない。

 受験前ともなれば幾度も見てきた光景ではないか。決して自分の授業がつまらないわけではないのだ。

 中には数人ほど真面目にノートを取ってーーー……、いや違う山岡は落書きしてる。

 自分の授業がつまらないわけではない。わけでは、ないのだろうか。

 何だか自信がなくなってきた。

「……んぁ」

 と、教師の雰囲気が段々と薄暗くなっていく中、彼、御弦木識那は肘杖を着いて船をこいでいた。

 うつらうつら。春先でまだ寒いとは言え、教室の人口密度は温かい、それこそ睡魔が喜ぶ気温を醸し出す。猫のように舌先を伸ばしてあくびしたい。そしてそのまま、温かい日差しに包まれて眠りたい。

 授業を聞かなくては、とも思うけれど。どのみち、この辺りは塾でーーー……。

「…………」

 いや、塾には行ってないんだった。

 いつからだったかーーー……、もう随分と昔のことのように思えてしまう。

 緋日が倒れて、入院して。それからもう行っていない。

「……あぁ」

 思えば、彼女が倒れたあの夜は随分と騒がしかった。

 寝ていたら携帯電話が鳴り出して、電話口の向こうからは彼女の擦れた声が聞こえてきて。

 裸足で、駆け出した。斜め向かいの家まで。足の裏が擦り切れて痛かったのを憶えている。

 そして扉を叩いておじさんとおばさんを叩き起こして、嗚呼ーーー……、彼女の部屋まで走り込んで、そして。

「…………」

 そこから先は、余り思い出したくない。

 惨状や痛みではなくて、彼女の顔を。あの余りに切なそうな、表情を。

 きっと彼女も全てを予期していたのだろう。自分がこれから、どうなるか。どうなってしまうかを。

 あの時握った、か弱い掌が忘れられない。冷たくなってく掌が。

 怖い、と。そう呟いた彼女の表情がーーー……。

「……緋日」

 顎を支える指先に、力が籠もる。

 自戒を痛みに変えて奥歯までも噛み締めて。

 心の中にある焔の燻りを掌で押し潰す。肉が焼け骨が煮られようと、まだ。

 その光景を思い出すことよりも遙かな苦痛で塗り潰すしかない。あの光景を思い出すぐらいなら、心が壊れたって構わない。

 彼女の、あんな表情をまた思い出すぐらいなら、自分は。

「僕は……」

 ふつりと、彼は瞼を閉じる。

 刹那ーーー……、窓に幾十もの影が舞い映った。

 鳥ではない。雲でもない。それは、校舎の壁を駆け上がる影。

 顔面の央に構える眼が識那の姿を捕らえる。唯一の真紅の眼球が教室の風景を捕らえる。

 腰元でぎらりと光る銀剣が僅かに陽光を反射した。識那の、目端を掠め取った。

「…………?」

 その光にふと彼が振り返っても何が見えるはずもない。

 影も光も、そこには存在しなかった。いつも通りの景色があるばかり。

 平日昼下がりの静かな町並みと、学校前の入り組んだ小路地。数台の自販機と、自分が行かなくなった塾校舎。

 ただ、その景色だけがーーー……。

「気のせい、かな……」

 きっと、何と言ったか。そう、飛蚊症。視界に変なもやもやが映る症状。

 目が疲れているとよく起きると聞いたことがあるし、もしかすると寝不足なのかも知れない。

 そう言えば昨日も彼女のところに行って、帰ってから宿題をしたばかりだ。疲れているのだろう。

 本当はいけない事だけど、そう。

 少しだけ眠ってもバチは当たらないーーー……。

「…………ん」

 コツコツと、嫌に規則正しいチョーク音が子守歌のようにも聞こえて。

 彼はやがて眠りにつく。静かな惰眠に意識を落としていく。

 目覚めれば、きっと授業は終わっているだろう。そうすればあと一時間で下校の時間だ。

 学校が終わったら、彼女に会いに行こう。いつものように、彼女に。

「緋日ーーー……」

 蹲り、両腕を枕にして識那は緩やかに瞼を閉じた。

 世界は余りに静かだ。この学校でさえ気味が悪いほどに、幾百という生徒がその建物に押し詰められているとは思えないほどに、静寂。

 だから世界は何も変わらない。いつものように周り、いつものように在る。そう、思っていた。

 いつもの日常が当たり前のように繰り返されるのだーーー……、と。

 純粋に信じてやまなかったのだ。既に壊れ始めている、この世界のことを。

 

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