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【A-3】

【A-3】

 

「体調はどう? 緋日ちゃん」

 病室の扉間からひょっこり顔を出したのは彼女の担当女医だった。

 丸眼鏡が光に反射して不気味にすら見える。マッドサイエンティスト、と言えば本人もきっと納得するだろう。

 けれど、緋日はそんな彼女に視線さえ向けはしない。実は女医もマッドサイエンティストネタを狙っていたのだが、そもそも見てくれなければ始まらないわけで。

「んもー。次はヒゲでも生やしてこようかしら。ぼーぼーに。もっさもさ。どう、ちょっと触ってみる? 緋日ちゃんにならもふもふさせてあげてもいいわよー?」

「……先生、女性でしょ」

「まーね! でも女の子でも手入れしないと大変なことになっちゃうのよ~」

 先生なんてすね毛がね、と。そこからぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。

 入室して椅子を引っ張り出して、どっかりと腰を落ち着けた女医の取り留めも無い話は数分ほど続く。入室許可も出してないのに。

 だけれど、これはいつもの事だ。こうやって彼女は緋日を元気づけようとする。興味を引こうとする。

「それでねー」

 彼女のする話はいつも下らないものばかりだ。

 昨日は確か、部屋にゴキブリが出た。びっくりして転んじゃった。

 一昨日は、友達と食べに行ったフルーツパイが美味しかった。

 それより前も、前も、前も。彼女は下らない話をする。

 けれど緋日は知っている。一昨日は急患が入って、慌ただしく病院中を奔り回っていた女医の姿があったことを。

 それから昨日は、その急患のせいで帰ることもできずぼさぼさ頭で回診にきたことを。

 彼女は、知っている。

 知っているけれど、口に出すことはない。

「んもーこれが可笑しくって!」

 そう、緋日は何も言わないのだ。笑うことも、泣くことも、怒ることもない。

 ただ稀に、一言二言と解りきった言葉を返すだけ。興味のないものを振り払うように。

 無愛想、ではないのだろう。彼女はただ孤独なだけなのだから。

 世界全てから自分を隔離して、真っ白な長方形の箱庭を毛布という壁で覆って、この世に存在する何もかもを言葉という刃で切り払う。そんな、孤独。

 だからその世界に入るには。毛布という壁を開き、言葉という刃を架け橋にするには、一つだけ質問すればいい。

 いつも、しているように。彼女の興味を引ける一つだけの質問。

「外には……、何があるの?」

 女医は下らない話を諦めて、ため息混じりにそう問いかけた。

 依然として上半身だけを起こし窓の外を眺める彼女は、鳥が、と呟く。

 けれど、彼女が見ているのはそんなものではない。

 決して手が届かない世界だ。自分のものになる事はない世界だ。

 ショーウィンドウの先にあるトランペットへ思いを寄せる黒人少年。そんな在り来たりよりも、遙かに遠い世界のこと。

「ねぇ、先生。人間は鳥よりも優れているんでしょう?」

 質問に、女医は少しだけ驚いた風を見せた。

 彼女から問い掛けられるのはとても珍しいことだ。自分の病名や状態だって、滅多に聞かないのに。

「人は鳥を食べるし、鳥を撃つわ。鳥と同じ空だって飛べるようになった」

「……え、えぇ、そうね」

「だったらどうして、私は飛べないの? 彼等が自由に飛び回ってる空を、私は飛べないのかしら」

 嘲笑うような聲。

 女医は気付く。それが質問などではないことに。

 自嘲。或いは、自虐。物悲しく自らに言葉を突き立てる、彼女の刃。

「……それはね」

 女医は白衣の胸元に差されたペンを取り出した。

 誤魔化すように、或いは自分の迂闊さを、無力さを嘆くように、それを握り締めて。

 確かな口振りで、言い放つ。

「貴方は人でも、人は貴方ではないからよ」

 その言葉に、ぎり、と。緋日は毛布を握り締めた。

「人という括りはね、緋日ちゃん。多くの、エジソンやダヴィンチ……、シェイクスピアやマザー・テレサ。そういった人達が創り上げた上に成り立っているの。種族という存在価値としてある、『人』なのよ」

「……じゃあ、私はその『人』ではないの?」

「だって貴方は緋日ちゃんだもの。エジソンのように発明をしたわけではない。ダヴィンチみたいに絵を描いたわけでも、シェイクスピアみたいに作品を、マザー・テレサみたいに偉業を行ったわけでもない。貴方は種族としての人なのよ。私もそうであるように、貴方は『種族としての人』なの」

「だったら私はどうすれば人になれるの? エジソンのように発明をすれば、ダヴィンチのように絵を描けば、シェイクスピアのように作品を作れば、マザー・テレサみたいに人を救えば、人になれるの?」

「いいえ、もっと簡単よ。そんなに難しいことはしなくたっていい」

「難しいこと? 私からすれば、ただの人であることの方がよほど難しいわ!!」

 金切り声が響き渡る。

 悲痛な叫びだった。人として当然の姿に在れない彼女だからこその、叫びだった。

 遠いーーー……。世界の偉業は、彼女にとって余りに遠い。ただ人と同じように歩くこと、笑うこと、泣くことや怒ること。人と同じようにすることが彼女、緋日には世界に認められることと同じぐらい難しい。あの世界のように、遠い。

 だからこそ、女医は何も言えなかった。人であるということは、いや、鳥であるということさえも、自分を認めることから始まる。

 自分の存在が何かを知らない者に、その存在たる資格はない。彼女のように否定する者にもまた、その資格はない。

 あるのはきっと、殻に閉じこもり何者でもないという証明だけなのだろう。

「人みたいに! 好きなもの食べて嫌いな人たたいて! そうやって、やることだけが、たったそ、れだけが、私のっ、ね……、が、ぁっ……」

 呼吸のリズムが、短くなって。

「……落ち着いて、緋日ちゃん」

 彼女の毛布を握る指先から、力が抜けていった。

 掌や首筋の色も薄く、蒼白くなっている。激しい感情が心臓へ負担を掛けているのだろう。

 緋日の症状からして、それは危険だ。然もすれば()から外れかねない。

「貴方の望む普通は、確かに難しいことよ。けれどね、不可能ではないの。彼等は偉業を成し遂げた、鳥は空を飛んだ。そんな風に、この世にできないことなんてないのよ」

「だったら……! だった、ら、今すぐ私を、ある、歩ける、ようにし、てよ……!」

「えぇ、してあげるわ。けれどその代わり、私に時間をちょうだい。今すぐは無理でも、必ず貴方を歩けるようにしてみせる。他の子達と同じように笑ったり泣いたり怒ったり。アイスクリームを食べに行ったり、ファッションショップに買い物にいったり。そんな事が毎日になるようにしてあげる。貴方の世界が、そういう世界になるようにしてあげる」

 鳥のように羽をつけることはできないけれど、と。

 はにかみながらペン先で頬を掻く女医に、緋日は何も言えなかった。

 ほんの少しだけで良いのだ。彼女は決して自惚れや傲慢な願いを持ってはいない。

 万人が当たり前として過ごす世界に、自分もいたいだけ。その孤独を何かで埋めたいだけ。

 いや、その世界で誰といるか、孤独を何で埋めるべきなのか。彼女はきっと知っている。

 知っていて、叫ぶしかない。余りに遠いその世界(ユメ)を。

「……ふ、ふ」

 途切れ途切れになった息を整え、力の抜けた指先に力を込め直し。

 大きく、一息。大きく、一吐。深呼吸ーーー……、と言うよりはため息だったけれど。

 そこに笑みを孕ませて、彼女は囁いた。

「先生」

「ん? なぁに?」

「人は鳥に成れた。人は人で在れた。だったら、私は」

 鳥が、太陽へ羽ばたき。

 ふつりと、背筋に冷たいものが流れ。

 振り向くことなき彼女が、微笑んだ気がして。

「鼠に……、なれるかしら」

 一瞬、理解を拒む。

 それは数秒にも満たない狭間だった。刹那にも到らぬ隙間だった。

 だが、充分だったのだろう。その意識に砂嵐を掛けるには。モザイクを奔らせるには。

 ぶつりと脳の電池が切れ、意識が墜ちそうな感覚に襲われる。吐き気とも目眩とも違う、頭脳というコンピューターの電源を強制シャットダウンさせられたかのような。

「ッぅ…………!」

 がくんと頭が墜ちる。堕睡に飲み込まれる感覚と共に。

 けれどそれはやはり一瞬で、刹那で。瞬きほどもない時間だったのだろう。

 女医が困惑につままれながら周囲を見渡しても、何の変化も見られない。いつもと同じ、病院の個室が拡がるだけ。

 寝台の位置だってカーテンの位置だって戸棚の場所だって、何も変わっていない。

 彼女、緋日さえーーー……、何も。

「どうかした? 先生」

「い、いえ……。何でも……」

 彼女は否定しつつも、心の奥底で渦めく不穏を消せずにいた。

 今のは、何だ。何が起こったというのだ、と。

 思考に靄が掛かったとか、そういうのではない。昏倒とか気絶とかいうものでもない。

「…………」

 無言のまま右目に垂れる髪先をペンでなぞる。

 理解と拒絶の狭間にあるのは察知。この世界の住人であれば誰もが知り、然れど気付くべきではない事実。

 切り替わった(・・・・・・)のだ。彼女だけではない。この世界そのものが今、たった一瞬で切り替わった。

 それを感じたのはその一瞬なのだろう。スイッチがオンからオフへと。その狭間、どちらにも属さないーーー……、表でも裏でもない一瞬。

「…………」

 困惑する女医に、やはり視線など向けず。

 彼女は窓枠をなぞるようにして、世界の狭間を見ていた。

 硝子の向こうで藻掻く、羽虫を見ていた。

「……大人が、やってきた♪」

 くすり。

「悪い大人がやってきた♪ 子供達を家へしまう大人がやってきた♪」

 くすり。

「彼を迫害する大人がやってきた♪」

 くすり、と。

「だから彼はーーー……」

 バツンッ。

 彼女の微笑みと共に、羽虫が窓枠へとぶつかった。

 そのまま力無くずるりと墜ちていき、体液の尾を引いて、彼女の視界から消えていく。

「笛を、手に取った♪」

 くすり、と。

 今一度彼女は微笑み、そして、毛布を強く握り締めた。何かを抑え付けるように、押し潰すように。

 それでも世界は、切り替わるのだ。嘗て鼠を沈めたように、今。

 悪い大人達をーーー……、沈める為に。

 

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