【A-2】
【A-2】
「お前、それ何してんの……」
有り触れた教室、有り触れた制服、有り触れた黒板と有り触れた窓。
ざわめく生徒達は楽しげに休み時間を過ごしていた。
そろそろ受験の時期だと言うのに、机に向かって真面目に予習復習している生徒なんて居やしない。まぁ、余程切羽詰まっている者でも、授業終わりの休み時間ぐらいはゆっくりしたいものだ。
したい、のだけれど。ある生徒は後ろの座席で繰り広げられている異質な光景に思わず身を引いていた。
しゃかしゃかしゃか。彼が外の自販機で買い物してくる、と。そう言って帰って来てからずっと。と言うか帰ってくる途中もずっと。
「え? これ?」
しゃかしゃかしゃか。
「コーラ振ってるの」
「嘘だろお前……」
「そう?」
最高級の愛媛ミカンに、百円ショップの在庫処理で売られているお酢をぶっかけるような。
家隣のコンビニへジャージ姿で行く時、それを誤魔化す為に高級ブランドのコートを羽織るような。
数ヶ月前から準備して前日も徹夜し、百点満点確実なテストの裏へ残り時間を潰すための落書きをするような。
何たる愚行。何たる台無し。何たるノーライフ。
「あ、そろそろ休み時間も少ないしパパッと食べちゃおう」
そう言いながら青年が取り出したのはバニラアイス。の、溶けたやつ。
「待て。まーてまてまてまて識那ァん!?」
「え、何?」
「何かお前が持ってる次点でどっぷんどっぷん言ってんだけど!? どっぷどっぷ……、やめろ蓋を開けるなバニラ臭ゥッ!!」
むわっと教室に拡がる甘ったるい通り越してむごい異臭。
周囲の生徒がうっと鼻を摘み、またいつものかと彼の方へ振り向いた。
御弦木 識那。人一倍のんびり屋で甘党な、彼の方へ。
「美味しいのに。バニラコーラ」
「……名前はな。見た目はひでぇぞ。まるで薄味のコンクリートだ」
「炭酸があるともっと酷いよ。だから抜いてるんだ。……どんな感じかと言うと、蛙の卵みた」
「言うなそれ以上言うんじゃねぇ次の授業理科だからァ!!」
しかもその次はお昼休み。食事時間である。
少なくともこの一連の流れで教室にいる生徒数人は食欲がなくなった。
と言うか既に識那の甘ったるいバニラコーラ臭によって半分ほどは食欲が無くなっている。
どうして昼前にあんなものが飲めるのか。最早テロである。テロリズムである。
「……ったく、お前は相変わらず甘いもの好きだよなァ。緋日が元気だった頃ぁよく購買のチョココロネを喰ってたモンだ」
「もう、そんな不治の病みたいな……。今でも元気だよ?」
「お? その口振りからして昨日も見舞い行ったな? どうだった、相変わらずか」
「うん。症状自体は治らないわけじゃないんだけど、時間がね」
「まー、人間の体って難しいもんなぁ」
「でも卒業までには戻ってこれるって。今は緋日も一生懸命に治療してるし、お医者さんも頑張ってくれてる。きっと、卒業式には緋日も出られるよ」
「お、そりゃいい! 皆で出迎えてやらないとな! 何ならアレだ、卒業記念と一緒にお帰りパーティもやっちまうか!」
なぁ! と。その呼びかけに教室の生徒達は応と頷いた。
授業のノートを出していた者も、黒板を消していた者も、窓際で談笑していた者達だって。
皆が、同級生の提案に嫌な顔一つせず、にかっと笑って答えてくれたのである。
「……うん」
識那は軽く俯き、喉で押し潰すように返事をする。
本当に恵まれているのだ。御弦木 識那という青年は、そして緋日という少女は、恵まれているのだ。
識那はその事実を幾度も心の中で反芻する。決して溶けてしまわないように、崩れてしまわないように。
幸福なのだろう。彼女の病だけは、不幸だったけれど。
それでもーーー……、皆がいてくれる。皆の御陰で立ち上がれる。
同級生や、先生。近所のおじさんに駄菓子屋のお婆ちゃん。病院のナースさんや、あの女医先生も。色んな人の御陰で、自分と緋日は、生きていられるのだ。
「……ありがとう」
彼は今一度、幸福に感謝する。
暖かな木漏れ日が照らしてくれる、この教室で。
またーーー……、緋日と共に笑い合える、そんな日を、夢見ながら。
「何? お前泣いてんの?」
気付けば識那の目元には涙が浮かんでいた。
いや、という言葉でさえ湧き上がった思いに滲んでしまう。
生徒達はみな、優しく微笑んで彼の肩を叩いていく。或いは、背中を撫でる。
そんな優しさが、また識那には、嬉しくて。
「ありがとう……。ありがとう……」
何度も何度も、溢れた涙を拭いながら。チャイムの音が校内を動かすまで、彼はずっと泣いていた。
彼等の御陰で頑張れる。彼等の御陰で支えていける。
その感謝を胸に、ずっとーーー……。忘れることなく、緋日と共に。
「僕、何のお礼もできないのに……。ごめんね……」
「気にすんなって! ほら、困った時は何とやらってやつだよ! お前にゃノート見せて貰ったり学級委員やって貰ったりしてんだからさ。俺等で力になれることがあれば、何でも言えよ!」
「うん、ありがとう……。けど、せめて何かお礼させてよ」
「はっはっは! じゃあまたノートでも」
「このバニラコーラとか……」
「「「いやそれはちょっと」」」
その後、生徒一同が別の意味でしょんぼりした彼を慰めるはめになったのは言うまでもない。




