【B-3】
【B-3】
自販機が二つ。壁に備え付けられたが灰皿一つ。その間に安物のベンチが一つ。
近年の不景気と嫌煙騒動の煽りを受けて、元はただの喫煙所だったここも休憩室と兼用になってしまった。
しかも元々あった牛革の椅子も安っぽい合成樹脂のベンチに。何とも物悲しい話である。
そして、そんな物悲しい一室には、同じく物悲しく廃れた雰囲気を漂わせるスーツ姿の男が一人。
「……ふぅ」
螺旋階段から離れたのに、目眩が取れない。いやこれは眼球疲労か。
それともストレスから来る頭痛か。どちらにせよ、また通院生活に戻るのはいやだな、なんて。
そんな風に気負う性分なのだろう。彼の男はたった今、目の前の自販機から取り出したコーヒーを片手にため息をついていた。
「全く、上も無茶を言う……」
あの会議進行だけでも気苦労が絶えないと言うのに、まさか今回の件の責任者にされるとは。
前々から若くして昇進している人間の自分が気に入られてないのは知っていた。しかし最近になって無茶な仕事が目立つようになってきたようにも思える。
この頃は家に帰ることも少ない。いや食事さえ正しいサイクルで摂取したのはいつだったか。
嗚呼、今すぐネクタイを解いてスーツを脱ぎ捨て、風呂にでも飛び込みたい。熱燗とそれを浮かべる御盆を持つのを忘れずに。
そしてその後はぐっすり眠る。どんなに硬い布団だって構わない。何ならちょっとカビてても良い。
そして、寝るのだ。何も考えずに堕落の底へ沈みたい。
「……だが、やらねばな」
自分には彼等を戦地に送る義務がある。任務を遂行させる必要がある。彼等を生かす責任がある。そんな堕落に身をやつすことは赦されない責任がある。
あの場では、もっと上手く言うべきだった。あんな萎縮させる言い方をするべきじゃなかった。できれば、もっと、情報を小出しにーーー……。
「逆効果ですよ、筧さん。それではね」
気付けば、彼の前に一人。
初老の男性だ。小太りな体型ではあるが、半袖からは鍛え上げられた腕が見える。衣類の下も言わずもがな、だろう。
彼の手には甘ったるいことで有名な砂糖コーヒーが一本と、チョコボールが一箱。小太りなのは筋肉質だけが原因ではないらしい。
などと、思考の迷路に入りつつある意識を急いで追い払いつつ、彼は急いで立ち上がろうとするが、男性は申し訳なさそうにそれを手で制した。
「どうぞ、そのままで。私も休憩に出ただけですから」
「……っと、失礼。先程のは口に出ていましたか。お恥ずかしい」
「いえいえ、やはり異貌対策の特務員ともなれば気苦労も多いのでしょう? お察ししますよ」
「はは、何とも……。え、と、貴方は」
「先程の作戦会議に参加していました。能城義郎と申します」
能城と名乗った男は懐にチョコボールの箱を仕舞いながら、スーツ姿の男、筧へと手を差し出そうとして、やめた。
一旦不思議そうに片瞼を持ち上げた筧だが、ふと気付いて手を差し出す。
その手には快く握手が返されて。つまるところ、礼儀の問題だ。
「握手は目上の人から、でしたね。申し訳ない」
「いえ、そんな。目上なんて……」
「ご謙遜を。異貌対策の筧と言えば現場からの叩き上げエリートとして有名ですよ。何より私達のようなフリーにだって良くしてくれるそうですし。どうにもねぇ、無下にする人が多いから」
「あ、や。そう言うのでは……」
「フフ、真面目は美徳ですよ。筧さん。貴方のような方だと安心して指揮を任せられる」
「……真面目というか、仕事に関してはそうなだけで、私生活は割と不真面目ですよ。私」
「あははは。そういう人に限って几帳面なものですよ」
筧は恥ずかしそうに鼻先を掻く。
確かに任務は必ず達成するし、約束事は忘れることもないし、時間を護ることは信条としている。
だが仕事に関しては単に周りが嫌がっていることをやっているだけだ。自分は別に、そういうのを気にするタチでもないとは思う。
だけど、それを改めて褒められると、何と言うか、照れくさいもので。
「し、しかし何です」
誤魔化しは指先から口先へ。
「能城さんは、その、能城という名字からして日本出身ですか?」
「えぇ、貴方と……。とは言っても二界位ほどズレてますが。ただ世界線は四パラフェクトほどしか違いませんのでほぼ同じ出身地ですよ、筧さん。……しかし、あの国は十年ほど前に出たばかりでして。今回の依頼も似た世界線だから私にも話が回ってきたようです」
「奇遇ですね、私もです。……とは言っても上に押しつけられたようなものですが」
「何処の世界でも若人は苦労するものですね……」
聞けばこの能城という男、元は日本で妖怪学を研究していた大学教授だったらしい。
そこを異貌対策組織がスカウトし、さらなる妖怪を含む、古式の降臨術を極めさせる為、また妖怪学と密接に関係する結界術への認識も深めさせる為に異界へ留学させたのだとか。
本人もそちらの方面に大いに興味があったらしく異界への留学は大賛成だった。ただ一つ、この年で留学生なんて行き先の異界の生徒が驚かないか、という不安はあったらしい。
もっとも、その異界の生徒達はそもそも人ですらないどころか、肉体さえ持たない思念体ばかりだったそうだが。
ちなみにその異界の平均年齢は千五百歳ほど。おつむではなくおむつの心配をされるとは思わなかった、と能城。
「この界隈で世界線はズレていても同じ世界線……、どころか同じ形の人間に出会うのは珍しいですからね。貴方は一目見た時から印象に残っていた」
「それは有り難い。どうにもこんな職業だと仕事より相手を覚える方が困難なんですよ」
「ははは、解ります。とは言っても貴方はまだお若いのですから、憶えようと思えばどうにかなるでしょう。私なんかほら、頭がね。もっと言えば腰なんかも」
「……貴方もまだまだお若いでしょうに」
「無茶な! お世辞にしたって盛り過ぎですよ。私なんて、未だに古風な紙媒体と紅水を用いる降臨術しか使えない時代遅れなんですから。携帯電話だってガラケーだ」
ふふ、はは。缶コーヒーと砂糖コーヒーを持った二人が僅かな笑いを零す。
先程まで突っ張っていた筧の胃も少しは和らいだだろう。
能城という人物の雰囲気が、何と言うか、初老特有の優しさや和やかさというか。そういう物が緊張を解してくれたのだろうと思う。
もっとも、あと二十分もすればその緊張を再び張り巡らさなければならないわけだが。
「いやしかし、先程のアレは卑怯だ。バラヌス・ストリエめ。あの言い方では筧さんを使って皆に牽制しているようなものではありませんか。きっと報酬の分け前を気にしたんですよ」
前言撤回。また胃が張ってきた。
「……私の不足でもありました。言い訳はできない」
「そんな! 筧さんはご存じないでしょうが、あのバラヌス率いるジヅェルン傭兵部隊は評判が良くない。任務達成率は高くても、同業者潰しをよくやるような連中です」
「…………」
返す言葉がない。知っているからこそ、何も言えない。
そんなこと(・・・・・)百も承知なのだ。組織は、それより酷い集団だって幾つも召集した。
そうしなければどうしようもないからだ。創造級とは、それでもまだ足りない次元なのだから。
「……し、失礼。一人で熱くなって」
「いえ……、私も似たような心持ちですから」
能城はまだ何か言いたそうではあったが、砂糖コーヒーと共にぐいっと言葉を流し込んだ。
人の良さそうな彼のことだ。まだジヅェルン傭兵部隊への文句は尽きないのだろう。
しかし筧の沈んだ表情を見て、これ以上は何も言うべきではないと、自重したらしい。
そして、共に暗くなってしまった場の空気を払拭するが如く、明る気な声と共に腰を上げる。
「さ、そろそろ行きますか、筧さん。まだ時間はありますが、座ってばかりではこれからが辛い。どうせ会議室の椅子には縛り付けだ」
「む、そうですな。ゆっくり歩いて行きますか」
缶コーヒーはゴミ箱へ。大きく、長く背伸びをして固まった骨をぼきぼきと鳴らしていく。
そんな様子を見て能城が羨ましいですな、と零したり。確かに彼の歳でこんなことをやったらそのままごきゃりといきかねないだろう。
――――いや、そろそろ自分も冗談では済まないところまで来ているのだが。今度の休暇は異界病院で接骨してもらった方が良いかも知れない。入院するより、その方が余ほど良い。
「いやはや、しかし創造級ですか……。私、創造級の事件に立ち会うのは初めてでして。話は幾度か聞いたことがあるんですが」
「創造級は発生自体が稀ですからね、無理もありません」
と、取り繕いはするけれど。実際は違う。発生自体が稀なのではない。
表に出ることが、いや、裏にさえ、この境界にさえ識らされることが稀なのだ。
そもそも創造級とは何か。これは一種の能力の格付け名称だ。Sランクとか、乙とか。そういったもの。
ただその名の通り、その文字の通り、創造。神の御技である領域に到る者。契約や降臨、憑依ではなくその領域に到った物。
或いは神さえも殺す、異貌でありながら異貌を超えた何か(・・)。
「有名な事件で言えば『沈黙の七秒間』でしょう。ありとあらゆる世界から七秒間が消え去った、あの事件」
「あ、それ私も憶えてます。確か世界丸々一つを対価にした次元収束の術式が暴走して……」
「はい。全異世界から七秒間が消え去った。……その事件を起こした次元は七秒間どころか周辺世界の生命概念をロストさせましたがね」
この『沈黙の七秒間』事件は創造級の最大被害として当時は騒がれたものだ。
筧が訓練生の時代だったが、異貌対策の実技テストが急遽中止になり、教官どころか空間安定の術を持っている生徒までもが駆り出されたのを憶えている。
確か、未だに完全な解決はしていなかったと思う。生命概念をロストしたことにより、周辺世界は依然として死しか赦されない環境になっているはずだ。
「この事件は創造級が起こした事件の例として極端ではありますが、よく引き合いに出されるのはとても解りやすい(・・・・・)からなんですよ。被害の大きさとか、その凶悪さとか」
「……確かに、私もその事件の全貌を聞いた時は背筋が凍りましたよ。現に自分からだって七秒間が奪われた」
「そうですね。そうして周知であることも理由の一つです。この様に、創造級は神の領域までいたったものであるからこそ、その被害も甚大になる。我々としても決して看過できるものではないのです」
『沈黙の七秒間』の他にも多く、創造級によって滅んだ概念や世界線はある。
それに対する二次被害も珍しくない。今回のように、阻止するために動かした貴重な人員が失われることは多々ある。
ある意味で台風や地震のようなものだ。災害、と表現するのが適切かも知れない。
もっともーーー……、災害は己の世界を壊したりはしないけれど。
「し、しかし創造級も悪い人達ばかりではない! 一般的に有名な、七大罪『憤怒』の片眼を持つ『沈黙』ザ・ラグル、ですとか。あとは、『神喰い』のアルフェイファルド・C・クルマネツ・ベートン。それと『博識なる蛮勇』の真鬼も異貌対策に積極的な人物だ」
「えぇ……、その通りです。特に単独で最高位の異貌狩りと言われる『七大罪』の片目を抉ったラグルは有名ですな。彼等の御陰で何回救われたか解りません」
「私もこの界隈にそこそこ居ますが、やっぱり居るんですよね。何と言うか……、こう、外れた人達って」
能城の言葉は何処か、遠い世界の誰かに向けたもののように思われる。
同じ世界に生きているのに、同じ世界で過ごしているのに、遠い。
筧からすればその言葉はよく解る。意味も、気持ちも、理由も。同じ世界で、同じ道で、同じ場所でさえ生きているのに、遠いというのはーーー……、よく解る。
「……えぇ」
彼には同級生がいた。この界隈に入ってからも付き合いのあった、一人の女性がいた。
フリーでこそあったが、異貌狩りとしては筧と比べるのも烏滸がましいほどの実力者であり、周囲からの評価も非常に高かった。
本人はそんな事を鼻先どころか爪先にさえ掛けなかったけれど。それでも彼女の存在は異貌狩りという界隈ではとても大きなものだった。名があり、力があり、意志があった。
冷徹や冷血というわけではない、ただ冷静な彼女の風貌を、自分はよく憶えている。あの眼帯に覆われた隻眼の横顔を、よく。
――――そんな彼女と共に現場へ赴き、異貌を狩り、事件を解決する。そんな日々は自分にとって尊く、愛おしいものだったと思う。
だった、のだ。それは、過去。
「あ、そうだ。創造級でこそありませんが、有名と言えばもう一人! ほら、あの禁書書庫を任されてるっていう、『魔眼』の……」
「ぅっ」
思わず筧は大きく咽せ込んだ。
この人はエスパーか何かか。或いは極端に間の悪いタイプの人間か。
悪意が無いから余計タチが悪い。しかもこちらを心配して背中を擦ってくれるような優しさまである。
怒鳴れるのならどれほど楽だろう、とは思うけれど。いや、それは八つ当たりでしかない。
「しかし意外ですね。他の有名どころは兎も角、彼女はこういった件には積極的でしょう? 今回もてっきり参加しているものかと……」
能城の呟きに、咽せ込みが止まる。
瞬間、空気が張り詰めた。緩んでいた糸を引き千切るまで詰めたように。
能城も、弛んだ喉へ生唾を押し込む。少し屈んだ筧の表情に、恐怖すら感じながら。
然れどそれ以上に、筧自身は己の心を握り締めていた。張り裂けるほどに、否。既に張り裂けてしまったそれを、だ。
「……彼女は。極月 暮刃は」
眉根に皺が寄り、声色は黒染んで。
未だに夢心地のようなその事実を確認するように。
確認、させられるように。彼はーーー……、嘔吐した。
「紫紋と共に第一部隊として参戦しーーー……、通信を途絶させました」




