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【エピローグ】

【エピローグ】

 

「…………」

 男は待合室のベンチに腰掛け、ぼぅっと廊下の溝を眺めていた。

 周囲で騒ぎ回る患者や特設電話にかぶりつく異界人。受付で中々こない患者に声を荒げるナース。病院内で当たり屋をして腕が折れただ何だと騒ぐ馬鹿。

 それ等の会話は彼の耳にはとどかない。隣で仰ぐようにタブレットを弄られても、その指音さえとどかない。

 彼の右腕には感触がなく、大袈裟なほど包帯に巻かれた腕の重さだけが太股へと伝わっている。

 嫌な、重圧だ。太股を圧迫するし、腕は動かせない。かと言って立ち上がって何処かに行く気分でもない。

 ただ呆然としていたかった。この場所で、何も考えずに。

「…………はぁ」

 思わず大きなため息が零れてしまう。

 ここは異貌狩り組織が直属経営を行っている異界病院で、様々な世界の最新医療が集う場所だ。

 自分のこの腕も、本来なら後遺症どころか切断まで行くはずだったのだが、ここの医療に掛かれば一週間と掛からず完治するらしい。

 自分の寿命を削れば当日治療も可能ですが、と提案されたが、流石にそれは断った。

 ついでに寄生虫を体内で飼えば一生健康ですよ、とも言われたが、流石に自分の腕ほどもある虫を飲む気にはなれなかったことを付け加えておく。

「ため息ですか、筧様」

「……ん」

 呆然としていた彼、筧の前に立っていたのは見慣れぬ機械だった。

 何処かのヒーロー戦隊かと思うようなボディに色合い。レッドカラーなど子供には大人気だろう。その声さえ聞かなければきっと慰安に来たヒーローショーのエキストラだと勘違いしてしまったかも知れない。

 もっとも、彼の台詞の後についた口癖を聞いては嫌でも思い出すしかないわけだけれど。

「……ワース。ワース・セブンスリーか?」

「ウィズ。私は事後報告の通達役を任されまして、入院中の筧様へこれを届けに」

 ワースが渡してきたのは低レベルの電子暗号が組み込まれた報告書だった。

 筧は左手の指先で軽く電子暗号を解除し、報告書に目を通す。

 そこには隔離された世界が消滅したこと、その世界に存在していたはずの創造級の異貌が消失していたこと、自分達以外の部隊の生存者はなかったことが綴られていた。

 そして、次のページ。そこには見覚えのある青年の顔と、小太りな男性のにこやかな表情があった。

「……そうか、能城さんが御弦木識那の身元保証人になったのか」

「元の世界が消失していますので、どうしてもそれが必要だったそうです。御弦木識那はこれから組織の様々な研究に付き合い、まだ異貌狩りとして能城さんの元で鍛錬を詰んでいくようですね。ウィズ」

「彼も異貌狩りに、か……。ある意味では適任かも知れんな。しかし能城さんもよく身元保証人を引き受けたものだ。色々と面倒も多いだろうに」

「……甘いもの同盟の結果ではありませんか。ウィズ」

「あ、甘いもの同盟……? 何だ、それは」

 ワースはふいと目を逸らす。この話題は危険だ。

 様子を見に行ったら狂気的な顔で砂糖の山に顔を突っ込んでいた二人のことを思い出しそうで。

 流石にあの量は人体には危険ではないか。いや、あの二人は危機として浴びていたけれど。

「しかし、御弦木識那はこれから辛い人生を送るだろう。故郷なく、罪を背負い、生きた教材となって過ごすのは……、苦しいことだ」

「えぇ、私もそう思います。ですが、本人はそうでもないようでしたよ。ウィズ」

「……どういう事だ?」

「あの世界を出たとき、我々の姿を見たから。そして能城様から貴方の話を聞いたから。だからこそ異貌狩りを目指す……、と。ウィズ」

  あの言葉。壊れ逝く世界で筧が識那に投げかけたあの言葉。彼は少なからずそれに救われた、ということだ。将来の夢を定めるほどには救われたということだ。

  能城と共にいた彼の表情は晴れやかでしっかりしたものでした、というワースの言葉に、筧は安堵に満ちた微笑みを浮かべた。

  もっとも、その微笑みも次の言葉で掻き消されるわけだが。

「……まぁ、それはそうと、クロミー様ですが彼女は行方不明です」

「行方不明!? 何かあったのか!」

「いえ、報酬を受け取るだけ受け取って、例の霊体裏取引が露見しそうになりましたので速攻で逃げました。ウィズ。……あぁ、筧様が渡して欲しいと言っていた漢字ドリルはしっかり渡しておきましたよ」

「そ、そうか……。最後の最後までよく解らん奴だったな。いや、ある意味は単純明快だが」

「同意します。ウィズ」

「……うむ、彼等については解った。だが、それはそうとワース。その新しい機体はどうした? 何と言うか、こう、ヒーローっぽいというか」

「ちょっとした気分でして。組織から補償も下りましたので最新式のにチェンジしました。似合いますでしょうか」

「そう、だな。うん。カッコイイと思うぞ」

「それは何よりです。ウィズ」

 彼等はその後、何げない雑談を交わした。

 今回の任務についてだとか、能城が無天童子達の御墓に祈りを捧げて欲しいと言っていただとか、クロミーはきっと何処かでまた馬鹿をやるだろうからその時は捕まえてやろうだとか、ヒーローショーのアルバイトに引っ張りだこだとか。

 そんな風に、数分ほど離して。ふと、ワースが視線を落とした。

「……それと、極月暮刃のことですが」

 筧は口端を結び、少しだけ腰と落とす。

 そして物言わず頷き、彼に説明を促した。

「彼女はその後、行方不明です。クロミー様のように足取りが追えているわけでもなく、あの瞬間から。申し上げにくいことですが、あの世界では遺体どころか痕跡さえ検出することは難しく……」

「いや、いいさ。気にしないでくれ。結果はどうであれ俺達はあの世界から脱出できた。こうして今、生きている。御弦木識那は能城さんの元で罪を償っていき、クロミーはいつも通り元気だし、君もこうして報告に来てくれた。それだけで充分だ」

「……ウィズ。ありがとうございます。やはり貴方は良い上官だ」

「やめてくれ。気恥ずかしい」

 その後、ぺこりと頭を下げた彼に別れを告げながら、能城は微笑みと共に背中を見送った。

 寂しげな、背中だ。きっと彼だけではなく能城もクロミーも、そして識那も後悔の念を抱いているのだろう。

 あの時、彼女が魔眼を使ったから自分達は生き残ることができた。あの世界から脱出することができた。

 しかし変質してしまった創造級を魔眼に封じて、無事で済むはずがない。

 彼女はもう、この世にはーーー……。

「……と思われているわけだが。なぁ、極月」

 彼の隣で仰ぐように掲げられていたタブレットが降ろされた。

 その下から覗いたのは包帯で右目を覆い尽くした極月暮刃の姿だった。

 彼女はいつも通り平然とした表情で、タブレットに表示されたキュピズム絵画の画像をスライドしていく。

 ゴッホだとかメ・ルベーンだとか大山千秋だとか火・フォンツェンだとか。様々な異界の芸術家達による、ちょっとした美術館がそこにはあった。

「せめて挨拶ぐらいしてやったらどうだ」

「嫌よ。だってとやかく言われるの面倒だもの」

「……そういう奴だよ、お前は」

 懐を漁り、筧はオイルライターを取り出した。

 血糊が付いているし、装飾にも亀裂が入っている。オイルはまだ残っているはずだが、もう使い物にはならないだろう。

 彼は仕方なくそのオイルライターを懐に仕舞おうとした、が。次の瞬間には自身の指からそれは消え去っていた。

「目の前で盗むとはいい度胸ね」

「……いや、極月。それは」

「私のよ。文句あるかしら」

 ぐ、と押し黙る。そうだ、そういう女だコイツは。

 しかしともあれ、これで今回の依頼は終わったか、と言われるとそうではない。

 まだ解き明かしていない謎がある。全てを締め括るには終われない二つの理由がある。

「……極月。魔眼は、どうなった」

 それが一つだった。

 彼女は物言わず筧にずいと顔を止せ、義手の親指で包帯を捲ってみせる。

 そこにあったのは虚でも闇でもなく、見間違えるはずもない、あの金属(・・)だった。

「浸蝕が……!!」

「大袈裟よ。この中の異貌を出現させて創造級の力を喰ったのが少しオーバーしただけ。怪我のようなものだから、治療すれば治るわ」

「治るって、お前……。その治療自体お前の寿命を削りかねないんだろう!? 手術だって、麻酔や感覚遮断が効く魔素抵抗率でもないのに……!!」

「……その程度。アレから伝わる声に比べればね。まぁ、しばらく夜は眠れないでしょうけれど、睡眠導入剤を使えば問題はないわ。やろうと思えば何日か寝なくてもどうにかなることだし」

「そういう問題じゃないだろう!」

「だったら何? 夜のお供でもしてくれる?」

「よ、ぉっ、まっ!?」

「晩酌のことよ。変態め」

 筧は自身の顔を覆って蹲る。やはり彼女にはいつまで経っても勝てる気がしない。

 いやしかし、彼女の魔眼は解明できるものでないことを再認識させられる。これはあの金属と繋がっているのか、それとも独立しているのか。

 『万神なる者』はどうして彼女だけを生かしたのか。そしてこの眼を埋め込んだのか。

 謎を数えだしたらキリが無い。出て来るのは自分の無力感への屈辱だけだ。

 だが、それは諦める理由にはならない。必ず彼女の魔眼を封じてみせる。破壊してみせる。

 あの創造級の世界の、嘘を、本当にしてみせる。

「……解った。その眼のことはお前が誰よりも知っている。だからこれ以上は何も言うまい。ただ、何かあったら直ぐに言え。力になる」

「……あっそ」

「素っ気ないな、相変わらず。……だが、極月。お前にはもう一つ聞いておかなければならないことがあるんだ。結局のところあの世界でのハーメルンの笛吹きは何を示していたのか。……これだけは教えてくれ」

 それが、もう一つ。

 あの世界で自分は謎を解き明かした。極月が示したハーメルンの笛吹きから、法則を解明した。

 だが腑に落ちないのだ。何処かが擦れ違っている気がする。歯車は噛み合っているのに回らない。

 ぎりぎりと錆びた音を立てているような違和感がある。回りきらない、感触が。

「そうね、なら貴方の推理を今一度聞かせて貰えるかしら」

「……ハーメルンの笛吹きには登場人物が四人いる。いや、人と言えるかどうかは怪しいが、それでも役割は四つある。一つ、笛吹き。これは言うまでもなく御弦木識那だろう。次に鼠だが……、これがあの世界の元々の住人達、霊体だ。そして笛吹きを追い立てた村人はあの異貌の怪物共で、子供達は我々。つまり御弦木識那はあの世界で闘争と心中を」

 と、そこまで言って違和感に気付く。

 そうだ、あの青年はそんな事を望む人物ではなかった。悪辣などとは程遠い純粋な人物だったではないか。

 だとすればやはり、この理論は間違っているのだろう。法則に気付けたのは偶然か必然か。どちらにせよ幸運だったのは言うまでもない。

 いや、違う。彼女はそれを解っていて自分に知らせたのだ。ハーメルンの笛吹きというヒントを。

「……極月、お前」

「その答えじゃ四十五点……、にもならないわ。二十点ね。まぁ法則に気付けただけでオマケの二十点だけれど」

 ぐ、と。また筧は口端を噤んだ。

「……笛吹きに関しては正解よ。けれど他は全部違うわ。そもそも登場人物の役割イコール人間に当てはめるのが安直すぎるのよ」

「いや、しかしだな」

「黙って聞け。……まず村人は異貌の怪物なんかじゃなく、貴方達よ。ハーメルンの笛吹きを追い立て、彼を孤独にした村人達。つまり異貌狩りね。私達が来なければ彼はあの世界でずっと夢を見続けていた。そんな彼の幸福を否定したのは、他ならぬ私達でしょう」

「……彼は村人に対価を貰う。俺はその対価を村に住まうこと、即ちあの世界に受け入れられることと見た。それこそが世界の法則への鍵であり、お前が俺に知らせたかったことか」

「えぇ、だからそれも含めて二十点。もし貴方がそんな事も解らない間抜けなら零点で落第だったけれどね」

「再テストも無しとは些か厳しすぎる気もするが。……しかし、そうか。タイムリミットさえ……、そもそも根本から俺の考えは違っていたんだな。では村人は解ったが、子供は何なんだ?」

「子供はあの世界そのもののこと。と言うよりは創造級の力で作られた夢物語、かしらね。彼を拒絶しない嘘の世界。それこそが子供の役割だった。彼は既に彼等と洞窟に閉じこもっていた。そこを、私達が無理やり拡げたようなものだわ」

「本来はそのまま終わるはずだったものを、か。……鼠は?」

「異貌達とあの世界に受け入れられた私。彼を否定する現実(むらびと)自分(ふえふき)を繋ぎ止める、唯一の架け橋。……彼が現実に戻るための、唯一の手段だった。彼、笛吹きや貴方達からすれば忌み嫌われたものだけれど、同時に笛吹きのための存在でもあったのよ」

「……なるほどな。あの世界で嘘を晴らす役目を担った、ということか。確かに村人が笛吹きを欲し認めたのは鼠がいたからだ。……厄災ではなく架け橋。その発想はなかった」

 だが、と。筧は首を捻る。

 まだ役割が一つ埋まっていない。いや、数としては正しいけれど。

 彼が、御弦木識那が救おうとした彼女には何の役割も無かったというのかーーー……。

「そして、最後に一つ」

 極月はタブレットを伏せ、天井を見上げた。

 吹き抜けになった天井からは蒼空が見える。鳥達が、白い雲が、二つの太陽が。

 この世界でも、この場所からでも、蒼い空が見える。

「……笛吹きに連れ去られなかった子供よ。盲目の子供だけは笛の音を聞いても、歩くことがままならないから笛吹きについていけなかった」

「……何だそれは。知らんぞ」

「貴方の勉強不足よ。……ま、ハーメルンの笛吹きで有名なのは終盤の連れ去るところばかりだから無理もないかも知れないけれど」

 有名な笛吹きの物語。その中で、筧の憶えていない役割が一つだけあった。それは取り残された子供だ。他の子供達と共に笛吹きに連れ去られることのなかった、子供だ。

「それは笛吹きでさえ得られなかった世界。……あの子の創造級の力を持っても得られなかった、たった一人の少女。それが緋日ちゃんよ」

「……死者、だったな。創造級の力を持ってしても甦らせることはできない、か」

「……えぇ、そうね。甦らせるべきでも、ないのかも知れないけれど」

 筧はふと、自身の指先を見た。

 御弦木識那。自分は彼の願いを否定したが、はたしてそれは正しかったのだろうか。

 もし極月が死んでしまったのなら、自分は何もせずに居られるだろうか。

 力があったのなら、望んでしまうかも知れない。摂理に叛し倫理を躙り、蘇生を願うかも知れない。

 いや、きっと、自分はーーー……。

「……いや」

 筧は区切り、静かに瞼を閉じて息を吐く。

 回らなかった歯車が回り始め、胸に詰まっていたものが取れた気分だ。

 少しだけ、安堵がある。

「そうだ、待て。まだ一つある。あの霊体達は何だ? 奴等の役目はいったい何だ。後出しで出るような役目はもう無いだろうに」

「あるに決まっているでしょう。どんな物語にだって存在する、役目が」

「……それは、何だ?」

「終わりよ。物語の終わり」

 空に、ほんの少し陰りが差した気がした。

 差し込む光に影が墜ちる。あの世界のように、あの虚空のように深いものではないけれど。

 筧はあの霊体達のことを思い返す。余りにおぞましく、余りに異様な姿を。

 怨嗟、怨恨、怨忌。憎悪などというものは唾棄するほど見てきたはずなのに、奴等のことを思い出すと背筋に鳥肌が立つ。

 そういう、存在だったのだ。あれは。決して人が辿り着かず、辿り着いてはいけない存在。

 彼等は最早、変質してしまっていたのだろう。

「……これでハーメルンの笛吹きという物語が完成する、か。解るはずもない、が、理不尽不条理はこの世界の常だったな」

「常に未知に追われることこそ異貌狩りの宿命と言えるでしょう。そして狩人は常に狩る者であり狩られる者である。やがて喰らわれることこそ、狩人の末路でもある」

「……そんな中で法則だけでも解明できた自分に称賛を送りたいものだ。正直、奴らの前で武器を捨てるのは心臓が裂けるかと思ったぞ。知らなければ、それこそ最後まで諦めることはなかっただろうにな」

「だから死んだんでしょ。あの世界は拒絶する者を殺す世界だもの。当然、私達へのメタフィクションを張ってるに決まってる」

「……異貌狩り殺しだな。常識は我々に最も程遠い。幾ら学んでも解してもキリがない。俺も勉学不足、か」

「そうね、二十点だものね。けれど勉学不足というのはテストで毎回のように私よりも順位発表の時に名前が一つ上だった男が言うと嫌味にしか聞こえないのだけれど」

「テストは同率だろう、同率。……仕方ないじゃないか。俺は『か』でお前は『き』なんだから。文句は訓練校の制度に言ってくれ」

「貴方を改名させときゃ良かったわ。どんな手段を使っても」

「そういう無駄にプライドの高いところが怖いんだ、お前は」

 と、一息。影雲は風に流される。

 事件は終わった。全てが終結した。

 ハッピーエンドとはいかなかったけれど。ベターエンドぐらいにはなれただろうか。

 これから、様々な人が様々な道を歩んでいく。自分もきっとそうだろう。

 彼女も、また。その道が如何なる道であれ、異貌を狩り続けるのだろう。

 願わくばその隣に自分がいれることを。この腕で、彼女の背中を支えられることを。

 ほんの少しだけでも、願いたいものだーーー……。

「……なぁ、極月。これは疑問、と言うより質問なのだが。どうしてハーメルンの笛吹きだったんだ? 何もあんな物語は選ばなくて良かっただろうに。桃太郎とか、アルヴェガルドの冒険、はあの世界にないから、金太郎とか」

「センスを疑うチョイスね。……まぁ、それこそ私達が知るところじゃない。知るべきところじゃない。それはあの子達だけが知っていれば良いの」

「そういうものか……。しかし、何だ。世界一つを犠牲にした事件だったというのに、終わってみれば一つの街で終結してしまったな。もっと大規模に世界中を飛び回るようなものだと思っていたが」

「当然でしょう。恋物語の舞台に世界は贅沢すぎるわ」

「……違いない」

 騒がしい、病院の待合室。

 幾つものランプが数字を示しては消えていく。幾人もの患者が通路を急がしそうに、けれど緩やかに歩いて行く。

 そんな中でただ、座して彼女といること。筧はその事実を噛み締めて、気恥ずかしくなったのか鼻先を掻いた。

 意識しすぎだと彼女には言われるだろうけど、やはり、何も言わずに並んでいるのは何と言うか、ムズ痒いもので。

「……あぁそうだ、極月。ワースが届けてくれた報告書に御弦木識那の証言が載ってるんだが、お前の性格が余りに違っていて驚いたと書かれているんだ。あの世界では随分とはっちゃけていたようだな、女医せんせぇぼぁっ」

 だが話題が悪かった。鋭い蹴りが彼の腹と腕を撃ち抜いたのである。

 絶叫と共に緊急手術室のランプが灯り、待合室に担架が運び込まれる。

 まさかあのランプ式の呼び出しに自分が入るとは思わなかっただろう。その表情は驚嘆と恐怖に歪んだままであった。

 さて、そんな無残にも生死の境をさまよいながら運ばれていく男を横目に、彼女はまだタブレットの美術館に指を滑らせるばかり。苛つきと呆れを冷静な表情の影に隠して。

 けれど少しだけ、やはりこの騒ぎが心地良い、と。ほんの少しだけ微笑みながら。

 

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