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【A-10】

【A-10】

 

 朦朧。景色がボヤけて汗が鼻筋を沿う。顎を、唇を沿う。

 その度に頬肉を食い縛り、脂ぎった舌先へ鮮血が流れた気がした。

 けれど彼は未だ、足を踏ん張っていた。膝が落ち、背が曲がろうと。その様だけは見せないよう、飄々と。

「そっか、君と緋日ちゃんは幼馴染みなんだ」

「えぇ、小さい頃から家が向かいで……」

 異様だった。能城とワースだけがそれを理解している。

 砕けた壁や窓硝子、煤を被った廊下や未だ猛る業火。それらが、消えている。

 よくよく見れば隠しきれていないが、逆に言えば一目では汚く散らかった程度にしか思えない。

 道端に転がった死体など、特に。この灯りさえない闇の中では盛り上がった地面など凝視しても中々解らないだろう。

「……どう思う。ワース君」

「訂正ですね。彼は能力者でも何でもない。創造級の対象と親しい間柄だったが故に見逃された、恐らく唯一の生存者です。ウィズ」

「……生存者、か」

 生温い血が、彼の顎を伝う。

「創造級の対象は……、彼にこの様を見せまいとする創造級の対処は、生存者ではないのかな」

 自分達は今、任務にある。けれど、彼の話を聞く限り創造級が悪とは思えない。

 いいや、そこに悪意などないのだ。悪意など、あるはずがないのだ。

「割り切るというのは、つらいね」

「……対象への感情移入は推奨できません。ウィズ。判断が鈍ります」

「うん、解ってる。だからこそ、解らなければならないのかも知れない」

 悪意なき悪意だ。

 もし、自分にその力があるのなら、その娘を生かしてあげたい。

 創造級の対象が己の力に自惚れ、悪意を振りまき、弱者を嘲笑う者ならば、どれほど楽だっただろう。

 いや、自身でさえそれを願っていたのだ。正義の名の下に断罪できることを。悪を倒す騎士になれることを。

 けれど、現実はそう甘くないのだと突き付けられる。話を聞く限り、彼等の関係や人柄に悪意があるとは思えない。筧の立てた予測による人柄を否定するしかない。

 ただ、偶然。幾億幾千分の一。いや、もっともっと小さな確立。それを背負ってしまったが故の悲劇。

 緋日という少女に訪れてしまった、悲劇なのだ。

「……君は殺せるかい、ワース君。彼の目の前で緋日ちゃんを」

「殺せません、殺したくありません。……ウィズ。しかし殺します。それが任務ですから」

 冷たい機械だと罵りますか、と。

 彼の懐で、ワースが転がった気がした。

「いや……、君は冷静なだけだよ。冷静で、冷徹だ。けれど、それが正しいのだと思う。廃病院と下水道で決めた覚悟のように、異貌狩りとして何よりも正しい」

「……正しい、ですか。ウィズ」

「うん、正しいんだ。私達は一人を救うヒーローになるために、幾百を犠牲にする咎人になったのだから」

 がくんっ。能城の膝が折れる。

 共に識那は危うく倒れ込みそうになり、階段の手摺りへとぶつかった。

 バラヌスによって撃ち抜かれた能城の出血は酷く、腹部を抑える掌から鮮血が滴り落ちる。

 息も大きく吐き出せど吸い込めず、瞼は閉じれど開けず。目底の隈が、黒く染まっていく。

「の、能城さん! 能城さん!!」

「大丈夫……、大丈夫。それより早く、緋日ちゃんのところに行かないと」

「それよりじゃない! 救急車とか、呼ばないと……! 傷が、傷が!」

「落ち着いて。傷は痛むけれど、大したものじゃないんだ。致命傷でもない」

 嘘だ。

「……私は、ほら、えっと、警官だから。義務があるんだ。君を救わなきゃいけない。彼女を」

 救わなければ、と。

 その言葉が出ることはなかったけれど。

「……避難、させなきゃいけない。行こう、御弦木君」

 壁へ擦り寄った彼の脇腹から、尾が描かれる。

 煤で薄汚れた一室の扉や火災報知器、児童の絵が張られた壁などにどろりとした紅色が尾を描いたのだ。

 その鋭い痛みにまた、彼は息を吐き出す。こんなにもまだ自分の体には空気があったのかと思えるほどに。

 彼等は歩く。行かなければならない場所があるから。終わらせなければいけない任務があるから。

 迎えに行かなければ、いけない人がいるから。

「……ここです」

 階段を、上がった先。

 そこには識那にとって見覚えのある廊下があった。扉があった。部屋番号があった。

 緋日がいる。いつも、毎日のように来ていた部屋がある。あと少し歩けば、その先に。

「緋日が、そこに」

 扉が、蹴破られた。

 一瞬。自分達の視界の先、扉の向こう側から影が舞い込んだのだ。

 通路に反響する轟音と共に、スライド式の扉が縦に転がって埃煙が吹き上がる。

 誰もが言葉を失った。ブラックレザーに牙を覆われた獣の姿と、引き摺られる女の姿に。

「……クロミー君」

 引き摺られ、自身よりも夥しい流血の痕跡を塗り尽くす彼女。

 暗闇でその表情も傷口も見えないが、おどろおどろしく濁った肌色が全てを物語っていた。

 彼女を引き摺りながら、口端を裂くほどに嗤い狂っている男の姿が、全てを物語っていた。

「クロミー君ッ!!」

 大声を跳ね上げると共に能城は大きく咽せ込む。衣服に赤黒い色が拡がって、思わず口元を抑えた手にぬるりとした感触が染み渡った。

 そして、膝を折る。識那もその巨体を抱えきれず片膝を地面に落とした。

 彼は必死に能城を呼んだが、応えない。短く、深く息を切らし、俯くばかり。

 然れどその指先は懐にある護符へと掛かってーーー……。

「なりません、能城様」

「ぐっ……ッ……!」

「それを使えば我々は無事では済まない。御弦木識那もこの世界の防衛機構に飲み込まれるかも知れません。ウィズ」

「だが、クロミー君が……!!」

「あの扉の先には創造級の対象もいる。それにバラヌス・ストリエもだ。そこに飛び込んで、今の状態の貴方に何ができるというのですか? ウィズ」

 変わらぬ電子音声に、力が込められたいがした。不意に能城の指先がびくりと震えた。

 傷が痛む。痛みは脂汗となって肌に吹き出し、唇の切れ目に流れて薄紅となり首筋へ流れる。

 このまま、見捨てるのが最善だ。創造級の対象とバラヌスは潰し合うだろう。そして、双方とも疲弊するだろう。

 そこを狙うか、若しくは互いに自滅するまで待つか。任務達成には、それこそベストな選択だ。

 ――――選択、だけれど。それは。

「……あの時」

 能城は、識那の肩から腕を除け、懐からワースを取り出して彼に預けた。

 未だ何が起きているのか理解できない困惑とそれでも緋日の元へ向かわねばという意志がぶつかり合い、ただ慌てるばかりな彼は唖然と能城を見送るしかできない。

 ずるりずるり。脇腹から溢れ出る血を抑え、必死に足を引きずっていく男の姿を。

「無天童子達を、霊体から救うべきだった。あの子達は迷子になって、帰る場所にも帰れず彷徨うばかりの可哀想な子供達だったんだ」

 思い出す。あの子達の手を取った日のことを。

 暗がりに蹲り、しくしくと泣いていたあの子達を護符に封じた日のことを。

 語り合い、慰め、契約し。そして無天童子として自身の使霊になった時のことを。

「……手を伸ばせば、そこにいたのに」

 もし手を伸ばしても、救えたとは思えない。

 それでも伸ばすべきだった。救えないとしても伸ばすべきだった。

 取る手もなく死んでしまったあの子達を、また手の見えぬ闇の中で死なせるべきではなかった。

「ワース君、今なんだ。今が僕にとっての救うべき一人(・・)なんだ」

 ごふり、と。地面に溜まりを作るほどの血が彼から吐き出される。

 銃弾の鉛が臓腑にまで到ったか、それとも流血が肺に入ったか。

 冷たくなっていく。冬場の水につけた指先のように、氷柱でも打ち込まれたかのように。

 然れど能城は止まらなかった。膝のまま、横這いしながらも進んでいく。己の血だまりに滑り、床面に頭を打ち付けようと。

 煤けた病院の廊下を、蹴り破られた扉の先へと。

「の、能城さん……! ワースさん、ワースさん、聞こえますか!? ワースさん!!」

 識那は必死に無線機へ呼びかけるが、反応はない。

 ただ能城から渡された奇妙な球体だけが、その手にある。

 頭の中がこんがらがって、ぐしゃぐしゃになって、目の前の全てがまるで夢のように歪んでいって。

 呼吸ばかりが早くなる。非現実過ぎたその光景に、つい先程まで自分が支えて、好きなものについて語り合っていたような人が、今にも死にそうなまま病室へ這って行っている。

 あの人が、能城さんが、緋日の病室へーーー……。

「御弦木識那。聞こえますか? ウィズ」

 球体から、声がした。

「……ワースさん。ワースさん!? ワースさんですか!! 聞こえます、聞こえます!!」

「良いですか、御弦木識那。私は今から貴方にとても残酷な質問をする。それに答えていただきたい」

 残酷。

 それは、惨いだとか酷なだとか、そういうものではない。

 残酷なのは質問ではなく、彼に対してだ。解りきったことを言わせようとしていることが、残酷なのだ。

 自分は死んでも構わない、と。彼の口から言わせようとしている。

「君は緋日という幼馴染みを助けたいですか?」

「当然ですっ!!」

 迷うことなく彼は答えた。

 解っている。彼も、能城も、この場にいないが筧やクロミーだってそうだろう。

 彼等は答えることができる。機械個人である自分と違ってらしい(・・・)答えができる。

 危険に踏み込めるのだ。誰かのために、と。一人を救うために幾百を犠牲にするということを理解しようとしていても、彼等は。

 百人を救うために一人も犠牲にしないことを、目指している。

「では少々無理をしましょう。良いですか、今、貴方の幼馴染みである緋日さんの部屋に入ったのはテロリストの男です。奇妙な格好で顔を隠していますが、銃器も持ったプロだ。非常に危険です」

「銃っ……、ですか」

「えぇ、ですから今から私の指示に従ってください。奴を倒して緋日さんを護るのです」

 こんな、素人少年一人で奴を倒せるとは思っていない。

 だが、バラヌスがクロミーを引き摺ってきたのには理由があるはずだ。

 いいや、間違いなく自分達を誘き寄せるためだろう。他者を蹴落としてまで手柄を独占しようとすることで有名なジヅェルン部隊の隊長ともなれば、彼女を撒き餌にして自分達を始末するつもりに違いない。

 もしこのまま能城が飛び込めば彼は創造級の対象とのどさくさ、いや、緋日との戦闘の中で始末されかねないはずだ。

 ならば、それをこちらが逆に利用する。どんな形でもいい。奴の意識が緋日か能城に向いているその時が、勝負だ。

「……お願いしますよ、御弦木識那。貴方の協力がなければ、護れませんから」

 

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