【B-11】
【B-11】
境界超えて、然れど境界の狭間超えず。
彼等は依然として対峙していた。沈黙が故に答えはなく。
静寂が故に答えは述べられず、然れど、故に答えであり。
「……煙草」
漆黒の一線に波紋を落とすは筧の呟き。
闇の中に月光より明るく、星より小さく、硝煙の残り火よりも儚き焔が照らし出される。
彼女の表情さえも。いつもと変わらず、平静なる瞳も、光輝いて。
「吸いたいと言っている。……一本もらえるか」
ぱちんっ。
オイルライターの灯火が閉じられ、彼女は再び黒へ消えた。
冷静に平静な、瞳も。
「……火は、渡したのだから。煙草ぐらい箱から取り出しなさい」
「……それもそうだ」
筧が持つ武器は、銃と拳のみ。
彼女に向ける刃としては余りに欠落していた。
例え一個中隊を動かそうと物ともせず、大隊であろうと殲滅してみせるような女だ。
魔眼の権能が封じられていようと並の異貌程度ならば素手で括り殺す。あの女は、裏方に引っ込んだ自分と違って常に異貌を借り続けてきた女なのだから。
学生時代のそれよりも、或いは新人時代のその時よりも。彼女の刃は研がれているだろう。
研がれ尖れ、磨り減るほどに。
そんな彼女に、この腕さえも錆び穿たれた状態で勝てるはずなどない。
「煙草ぐらいは自分で取り出すとしよう」
勝てるはずはない。勝てるはずなどない。
然れど、煙草の一本ぐらいはーーー……、充分に。
「行くぞ」
トンットンットンッ。
拍子を取るように、筧はその場で軽く飛び跳ねる。
薄暗く貫かれた通路に、異臭立ち篭める闇夜に、静寂したたる対峙に、奇妙なリズムが産まれた。
ボクサーがそうするように、自身でリズムを作り出す。一種の構えのようなものだ。
そしてトンッ、と。四度目。筧の視界には白煙のみが彷徨っていた。
「……行くぞ、と言ったのに。相変わらず話を聞かない奴だ」
眼前流れる紅葉色の髪とその流れを斬り裂く脚撃。同時に、筧の左足が鼓動を刻む。
瞬間、彼の左腕が虚空を薙いだ。全力ではなく全速を持って極月の脚撃を逸らしたのである。
半身。極月の首まで腕を伸ばせば手が届く。大きく脚を開いて一撃を撃ち放った彼女は、隙だらけにも見えた。
しかし追撃はしない。筧の瞳には確実な一撃の線が映っているが、それでも指先を柔首に絡めはしない。
見えない。然れど視えている。彼女の脚先から指先へ伸びる、黒塗りの細糸が。
「……ッ!」
即座に視界を落とし、彼は両掌を支えに極月の足下を刈り取った。
態勢を崩し行く彼女の表情に危機感や警戒はない。そんな次元ではない。どころか、転倒させたはずの筧の方が右肩から奔る鋭い痛みと有り得た恐怖に眼を歪ませていた。
今一瞬、もしほんの少しでも頭を下げるのが遅れていたら。もし彼女の技を知らなければ。
指先に仕込まれたワイヤーによって、自身の首か片腕が、斬り飛ばされていただろう。
「義手仕込みかッ……!」
極月は転ぶ、ことなく跳躍する。
逆立ちの要領で肘を曲げ、そのまま腕の力だけで天井へと跳ね飛んだのだ。
そして、落下することはない。天井に両義足十指仕込みの鉄杭を撃ち込んだのだ。
地に伏し天を睨む筧。天より吊り下がり地を墜とす極月。
「行くわよ」
「……ッ!!」
コートが捲られ、彼女の右腕から義手が出現する。両脚と同じく仮初めの骨肉だ。
鋼鉄で彩られた腕身。指先は凝縮炭素であり特殊回路は魔術赤石の紅に焔を放つ。
紅葉色だった。彼女の髪色と同じく、瞳の色と同じく。漆黒さえも斬り裂く美しき緋だった。
この世界から牙を向けられることさえ厭わず、彼女はそれを発動させたのである。
「地獄の底で懺悔なさい」
筧の心臓に、衝撃が叩き込まれた。
視界に映ったのは天井から舞い落ちる塵芥と、自身が吐き出した鮮血。湾曲する紅色の閃光。
四肢が浮遊感に襲われる。衝撃はそのまま突き抜け、肉体までもが余波に弾かれ、ることはない。
肉体を縛るのは黒線だった。
「し、まッ……!」
二発。音速に到る拳撃が臓腑を穿つ。衝撃は肉を超え、骨は震え、脈は弾け飛ぶ。
呼吸が途切れて肺の空気が全て押し潰された。吐血にも似た感覚が喉から鼻奥まで拡がった。
が、止まらない。極月の義手は既に引かれ、そこから伸びるワイヤーが筧の肉体を縛り上げている。
防がねば。次の一撃を、防がなければならない。来る、来るのだ。彼女の一撃が、来る。
「ッか…………!」
動かない。
激痛以上の衝撃が、彼の四肢を縛り。
鋭く突き出た感覚が、全てを、明確に理解させた。
「寝てなさい」
こきゅん。
鋼鉄の一槌が顔面に撃ち込まれる。
鼻が捻り曲って紅血が吹き出した。歯牙が折れる音がした。眼球が眼球を見た。
凹凸が逆転し、凸凹となり。拳は、振り、抜かれた。
「ぁッ……」
乱れ狂う肉体さえも、糸は逃がさず。
白目を剥いて意識を途切れさせ、彼は鋼鉄の繭に埋もれ消えた。
羽毛より軽く硝子より脆く。顔面から鮮血を垂れ流しながら。
倒れる。極月にもたれ掛かるように、倒れていく。彼女はそれに、手を伸ばした。
この男の抗う意志だけは認めよう。然れど力無き抗いは蛮勇でしかない。
だから、無駄なのだ。結局のところ、咎人の首はここにある。揺すられようと夢は覚めず、我が眼は闇の中にある。
だから、変わらない。この夢は何もーーー……、と。彼女は筧の左肩に手を掛けた、瞬間。
彼の眼孔が未だ消えていない事に気付く。
「ぬぅンッッ!!」
ゴッッッッッッッッッッッグン。
彼女の隻眼が激震し瞳を二つに分け蕩く。
筧は穿ったのだ。頭蓋を全力で、倒れる勢いのまま、穿ち抜いたのである。
頭突き。一言で現せばただの頭突き。然れどその威力は、正しく渾身であり。
「…………く」
極月から一瞬、意識が消え失せた。ほんの一瞬だ。
彼女は後ろへ流れるように浮いていた。頭突きの衝撃により僅かに、後ろへ。
浮いて、そのまま、廻転する。バク転、と言うべきか。
「この……」
さらに息をつかせる暇もなく着地と同時に、疾駆。髪が靡き芥は穿たれ、白煙は斬り裂かれ。
未だ態勢を立て直せていない筧の右肩口へ脚撃。衝撃と激痛の濁流が彼の脳髄を支配する。
「き、ぃずをッ…………!!」
「常套手段よ」
続き、一撃二撃。そして三撃。
腹、顎、眉間。意識を根底から削り取るに相応しい連撃が彼を襲い征く。
朦朧、などというものでは済まされない。消えるのだ。消灯のように、ばつん、ばつん、ばつん。
筧が、その意識の中で認識したのは腕の感覚がないこと。臓腑への一撃と違い、感覚そのものがなかった。
差。異貌の力なく肉弾戦のみであろうと、これ程の差。例え彼女に義手なくとも、この差が埋まることはなかっただろう。
差だ。ただその事実を反芻し、然れど飲み込めず。彼は無様にも手足をバタつかせることさえなく廊下の冷たい床に頭を落とした。
ごどん、と。重々しい音と共に。
「…………」
軽く、白煙を一息。声に出すこともない。数瞬にて行われた軌跡ばかりが白となって霧散する。
彼女は義手のトリガーを引いてワイヤーを収納すると共に、吸い終えた煙草を窓外へ投げ捨てた。
「……咎人は何処へ逝く。笛を吹いて何処へ征く」
踵を返すその沈んだ眼が晴れることはない。
「ただ孤独なる物は、何処へ征く」
冷徹にして冷静なその表情が崩れることもない。
「……何処にも、征けない。此所こそが彼の居場所だから」
ただ、懐から煙草を取り出そうと伸ばした手が何も掴まなかったこと。
それだけには、僅かに眼端を絞り上げた。
「探しものか。夢見る咎人よ」
バスッ、と。
くぐもり、籠もった銃声が彼女の耳に届く。
そして、呻き声も。然れどそれ等は数瞬で終わり、彼女が振り向いた瞬間に鼻先へ漂うのは嗅ぎ慣れた白煙の臭い。
自身の、煙草の臭いだった。
「あまり激しい動くものだからな……。落ちたぞ、煙草」
血が、流れていた。
煙草の白地に、赤黒く染みた紅色。微かな蒸発音と煙が思わず鼻を覆いたくなる異臭を立ち篭めさせる。
筧は撃ったのだ。動かない右肩から先を、気付け代わりに。自身の自動銃で肘を撃ち抜いたのである。
弾丸が貫通しただとかしていないだとか、そんなことは関係ない。顔面が抉れていようと、臓腑が砕かれていようと。
いいや、例え彼は自身の片腕を切り落としてでも戦うだろう。
意志がある、義務がある。覚悟があり責務がある。決して譲れぬ一線がある。
だから、戦うのだ。相手が極月という女だからこそ、彼は。
「一本だ」
動かぬ右腕を、鮮血流し肉片落とす右腕を引き摺りながら。
歯牙欠け鼻血吹き出す顔面を左肩で拭いながら。
筧という男は、立ち上がる。
「一本吸い終わる前に、お前に勝つ」
銃を握る掌から、極月に指し示される一本の指。
ただ突き立てられたその指が示す意味を知らぬ彼ではない。彼女ではない。
満身創痍な男が嘲るにはいき過ぎた冗談だ。粋過ぎた冗談だ。いや、冗談でさえないだろう。
それ故か、極月の表情は酷く、冷たいもので。
「……学生時代。貴方が私に模擬戦で勝ったことが、あったかしら」
「ない」
「何度か組んで仕事をしたけれど、貴方が私より強い、或いは多い敵を倒したことがあったかしら」
「ない」
「……そこまで解っていて、勝算が」
「ある」
じり、と。終焉示す境目まで近付く灰燼の線。
灯火照らす彼の表情に揺らぎはない。依然として、確固たる自信を眼に宿している。
馬鹿に生真面目なこの男だ。任務は必ず達成する、約束は死んでも守る、時間には例えテロに巻き込まれようと遅れないという、男だ。
一本。そんな男が宣言した意味は、余りに大きい。
極月という、筧を知る女だからこそ、その意味は余りに大き過ぎた。
「…………ふん」
安直なのだ。この男が、そんな事を言い出すのは。
一本の内に何ができよう。彼の、満身創痍に致命的なその体で、何ができる。
――――突貫。それが答えだ。自爆覚悟で、自身の脇腹か、足か。そこに弾丸を撃ち込むつもりだろう。
「愚かな男」
だが、敢えて受けよう。
それは極月という女なりの、手向けの華だった。
一発。例えそれが頭蓋に撃ち込まれようと、魂腑を貫こうと、一発。
筧という男との決別。夢に堕睡する自身への罰。この世界の安息へ縋り付く望執。
全てを込めて、受ける。彼の口端で泳ぐ灰燼が、燃え尽きるその時に。
「来なさい。受けて立つわ」
「そうでなくてはな」
トンッ。
トンッ、トンッ、トンッ。
再び、彼はリズムを刻む。僅かな跳躍で、鼓動を整える。
然れどその様は先と違って酷く無残なものだった。右腕を垂らし腫れ上がった鼻先と口元から浅黒い鮮血が引き摺られ。
正しく、満身創痍。一歩、一歩と跳ねる度にへどろのような血液が垂れ落ちる。
だが、極月はそんな死にかけの男を前にしても油断一つ見せない。漂い浮き上がる白煙の中、浮かぶ双眸があるから。
決して光を失わぬ、生真面目に、愚直な双眸が。
「……行くぞ」
仕切り直しの、その言葉と共に灰燼が零れ落ちた。
硝煙と、鮮血と。混じり合うは白煙とへどろ。そして、疾駆。
距離にして数メートルとない。時速にして数秒とない。それは、一瞬の交差。
跳躍。筧により頭蓋を狩る脚撃が放たれる。回避。極月の拳撃が彼の腹部を穿ち抜く。
一瞬の怯みだった。筧の眼が見開かれ、苦悶に歯牙を開く。煙草が、零れ落ちようとしてーーー……。
意地を、食い縛った。
「ぬ、があああああああああああああァッッ!!」
獣が如き唸り声と共に、双脚が地を叩き潰す。
苦悶も激痛も、今の彼を止めることはできない。例えそれが臓腑を潰す衝撃であれ。
だが、知っている。極月は知っている。この男が、高が拳撃一発で折れないことを。その一撃を狙っていることを。
じり。刹那の静寂を焦がす白煙。灰燼が、綻ぶ。
極月は流水が如き軌道で筧の肩に一撃。僅かに跳ねた腕の隙間から、右腕を絡め取る。
「その努力と意地だけは、認めましょう。貴方の気概に感謝もしましょう」
絡め取られた腕が、捻られ。
「……それでも覚めたくないのよ。私は」
ごりゅ、と。
病院内へ、声にならない絶叫が反響する。捻り砕けた狭間から瀑布が如き流血が暴れ出す。
屈み込むことも崩れ落ちることもできず、筧はただ噛み殺した。噛み殺し続けた。然れど、溢れ続けた。
その歯牙から、灰燼が崩れ落ちる。最早、一息ほどしか煙草は残されていない。噛み殺し続ける刹那が、延々と続く。
窮歎と、絶叫。並の人間であれば喉を掻き毟るほどの痛みが、筧の頭蓋を殴打し続けていた。
「貴方ならば、と思うけれど。……貴方でなければ、と思うけれど」
極月はトドメと言わんばかりに、折れ砕けた右腕を蹴り飛ばす。
半身を翻しながらぐりんと肩口で廻転する肉塊。ゴムを捻切るように彼の腕は数度廻転する。
再び、絶叫。彼は必死にそれを噛み殺そうとするが、それでもなお、噛み殺しきれるはずもなく。
「……叶わないのよ。願いはね」
極月は、子鹿のように震える膝で立つ彼の左腕を、自身の胸元へ寄せた。
その手には銃がある。一発、彼が撃てるはずの銃がある。ケジメをつける為の、弾がある。
「ならばせめて、夢でだけ、幸福でいたいでしょう?」
それは弱いことだろうか。いけない事だろうか。
いいや、誰にも否定することはできないはずだ。夢の中で、ただほんの少しの闇の中で。
幸福でいることを、いったい、誰が否定できようか。
喪った誰かの手を取ること、得られなかった栄光の元で歓喜すること、有り得ない未来の中を歩むこと。
それらを傲慢だと言うのなら、人の幸福は何のためにある。何が人の幸福なのだ。幸福とは何だと言うのだ。
それらを傲慢だと言うのなら、それらが、傲慢だとしてもいいから。
ただ一時の、安息を。
「その中で眠れるのなら、私は」
「極月」
じり。煙草が、燃え尽きーーー……。
極月は唇を伏せた。それは男が残す最後の言葉。
彼女と現を繋ぐ、最後の楔。それが切れる、瞬間。
「お前を孤独になど、させてたまるか」
彼女の眼前に舞ったのは、白煙だった。
白煙の中に浮かぶ、煙草だった。彼女の隻眼が捉う、尽きかけの煙草だった。
極月は知っている、筧という男を。然れどその逆もまた然り。筧も極月という女を知っている。
自分を知っている極月という女を、知っている。馬鹿に真面目な自分を知ってくれている極月暮刃という女を、知っているのだ。
だから、賭けた。彼女の意識がほんの刹那、それに向けられることを。自分と彼女の楔に向けられることを。
「お前を理解することも、お前を助けてやることも、俺にはできない」
灰燼が、僅かな火の粉と共に、散り逝く。
「だが、お前の隣になら立っていてやれる」
銃は彼女の胸から滑り、眉間へと突き付けられた。
煙草は煙雲の中から墜ちて紅色の中でじゅぅと僅かな白を灯しあげる。
「…………日が、昇る」
刹那だった。信頼していたからこそ、彼女を知っていたからこその、決着。
眉間に突き付けられたその銃口が、全てに終止符を打つ、一弾。
「起きろ、極月。……咎人など、気取ってくれるな」
その一言と共に筧は地面へと崩れ落ちた。膝からではなく、全身から。
先程の頭を落とした時よりも鈍く重い音。もう体を支える力さえないのか、受け身を取った様子もない。
顔面を血だまりに突っ込ませ、放り出された腕からは銃が転げ落ちる。折れた腕も、床面に打ち付けられて潰れるような、そして弾けるような音を立てた。
力尽きた、と。そう表現するのが最も正しい。負傷や、ここまで気を張っていたのがぷつりと切れたのだろう。
極月はそんな彼を受け止めることなく、どころか素振りさえ見せず、いや、気のせいでなければ避けたようにさえ見えた。
「…………」
虚空を見上げて、唇を噛む。鮮血の味がした。
それは現実の味だった。夢から覚めた嘆きを噛み締めた、現実の味。
「……嗚呼」
極月は膝を折り、筧の隣へと腰掛ける。崩れ落ちた男はどうにか身を起こし、仰向けになった。いつしかそうだったように、ただ互いを見詰めるでもなく、何処かを眺めるでもなく。けれど二人して向き合う、奇妙な間柄がそこにはあった。
「……そこは最後まで決めるところでしょう」
「お、おまえ、よけた、な……! し、かも、み、ぞおちに、たたきこんでおいて、よくも…………!!」
「股間でなかっただけ有り難く思いなさい」
天井眺める筧からひぃと短い悲鳴が零れ、極月は呆れるように髪を撫でた。
全く、このでく人形のように倒れ込む男の何と情けないことか。
こんな男に一本取られたのかと思うと、眉間に渋皺を寄せざるを得ない。
だがしかし、一本取られたのは事実。一瞬とは言え刹那とは言え、上回られたのは事実。
こちらは主武装も副武装も使っていないし手加減したし相手の挑発に乗ってやったが、事実。ここまで辿り着いたのも下水道で見逃してヒントをくれてやったからだしそもそも筧の誘いに乗る必要もなくあの女を逃がしてやって敢えて有利な状況で戦ってやったが、事実。このまま戦闘を続けていればこちらは頭突き一発意外の傷を負うこともなく勝利できたにも関わらず条件により敗北になったが、事実。
事実なのだ。
「……チッ」
「今の舌打ちは何だ」
「別に。下らない煙草の賭けで騙されたのに苛ついただけよ」
「騙された、か……」
放り出すように、血だまりへ腕を落とした筧。
手首が錆び付いたカラクリのように拙く動き、紅色滴る煙草を摘み上げた。
極月との乱戦の中、落ちた煙草だ。彼女の言う、一本吸い終える前に決着を付けると言った煙草。下らない賭けのために、彼が騙すために掲げという煙草。
だがそれは、既に燃え尽きてーーー……。
「騙したつもりはないが」
燃え尽きて、いない。
ほんの数ミリ。吸い終える前と言うか、吸い終えた後というか。物凄く微妙な間だが、燃え尽きる前に血だまりで火が消えたのだ。一本吸い終える前にとは言ったが一本吸い続けるとは言っていないからな、と。筧は得意げに言い放つ、が。
その腹部に鉄板仕込みの革靴が叩き落とされた。
「ご、げぁ……ッ!!」
「足が滑ったわ」
悶絶し、痙攣する。そろそろ筧にも三途の川が見えてきそうな頃合いだ。
だが生憎とそちら側へ行く余裕はないし、口から出かかっている魂を逃がすこともできない。
聞かねばならないことがある。紫紋と共に第一部隊としてこの異界へ足を踏み入れ、そして生き残っている彼女に。
この世界の仕掛けを解き明かし、ハーメルンの笛吹きという答えに辿り着き、この病院にさえ現れた彼女に。
筧は自身の口元を拭い、煙草を投げ捨て、そして息を整える。絶え間なく脳髄を襲う苦悶を必死に噛み潰して問う。
時間が、ないのだ。
「……極月。創造級の対象は何処だ」
彼女が答えることはない。答えない、と言うよりも答えたくない。
苦々しく奥歯を噛む潰し、眉間に皺を寄せる。指先は折り曲げられ、コキンと鳴り落ちた。
彼女のそんな表情は、筧さえ幾度と見たことはない。心の底から嫌悪を憶えても、そんな表情を浮かべることはないだろう。
もっと、何か。彼女自身の中で葛藤よりも激しく渦めく何かがある。
「もう、時間がない。お前も解っているだろう? 俺に武器を使わなかったのは、義手の開放で早急に決着を付けようとしたのは……、この世界のルールに接触する危険を冒してまでそうしたのは、理由があるからじゃないのか」
「……傷に、響くわよ」
「極月!!」
怒鳴り声が、そのまま痛みとして腕と臓腑へ返ってくる。
筧は悶絶しながら転げ回り、またその動作が痛みとなって返ってくるという悪循環にあった。
けれど、やはり、彼はその腕を自身の体で押し潰しながら無理やり痛みに耐える。こんな物で悶えている暇などないのだから。
ただ深く深く、蠢くような眼差しで。そこにあるのは執念にも等しい意志だった。
「…………銃口はね、筧」
彼女の手に、その銃はないけれど。
それでも握っている。終結という弾丸を撃ち放つ銃を。
引き金は他の誰にでもない、極月の手にあった。彼女自身が握っていた。
引くことはできるだろう。放てば良い。撃ち放ち、貫けば良い。この世界を終わらせれば良い。
けれど、それはーーー……。余りに、残酷なことだ。
「誰かの眉間に突き付けるより、自身の頭に突き付けるより。……自分自身の心に突き付けることが、何よりも難しいのよ」
「……お前はどうして、いや、お前は何に銃口を突き付けている」
「何にも。……僅かな幸福を願うだけよ」
「お前自身の……」
筧は、喉を潰した。激痛にではない。
彼女が安息を願っていたのなら、それは良い。魔眼を封じこの世界の中で安寧を求めたのならそれで良い。
説明がつかない。求めたのなら、どうして全力でそれを阻止しようとしなかったのか。
彼女はそんな生半可な人間ではないはずだ。異貌を殺し続けた彼女だからこそ、両極端に振り切れるに違いない。
ならば、何故。彼女は中途半端な、止められるのなら止められても良いという選択肢を取った。
止めて欲しいからじゃない。止めるべきだと、知っていたからではないのか。
「……誰だ?」
解っているはずだ。
絶対的な力という共通点だけではない。
それ以上に何かーーー……、思うものが、あったのだ。
「極月、お前は……、誰を救おうとしている?」




