【A】
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「ハーメルンの笛吹きは独りぼっちなんだ」
真っ白な壁とカーテンを夕焼けが染める個室。式計算のように決まり切った戸棚やベッドが羅列される中に、彼等はいた。
ベッドから地平線の炎を見詰める少女は動かない。言葉を述べることさえ、しない。
それでも健気に青年は語りかける。ずっと、彼女に語りかけ続ける。
「彼は凄い力を持っていて、子供達を自由に操れた。けれどやっぱり独りぼっちなんだよ。どんなに誰かを操ったって、思い通りになったって。彼は独りぼっちなんだ」
「違うわ。ハーメルンは鼠を追い払ったのに報酬を払わなかった村人への腹いせに子供達を連れ去ったのよ」
「本当に、そうかな?」
「……何が違うっていうのよ。それとも私がその童話を好きなのを知っててその質問?」
尖った、声。
けれどその声色には何処か優しさと言うか、親しみがある。
知らないわけがないのだ。青年が、自分の好きなものを知らないはずがない。
それを誰よりも知っているのは彼女なのに、こんな問いをしたのはきっと、八つ当たりという名の悪戯だった。
「……ハーメルンはね、緋日」
それでも、構わず。
「最後、子供達と共に岩山へ閉じこもる。どうしてだと思う? 彼は力を持っていたのに、どうして子供達と自分を岩山なんかに閉じ込めたんだろう? 連れ去ることだって、できたのに。何処までも、何処までも……」
「知らないわ。そういう、気分だったんじゃないの」
「ん、配点は四十五点ぐらいかな。間違っちゃいないよ。……けど違う」
「何が?」
「彼は確かにそういう気分だった。ハーメルンの笛吹きは子供達と一緒に閉じこもりたい気分だった。子供達をどうにでもできる力があるのに。連れ去って、何処までも行く力があったのに。けど、そうしなかった。……それはどうしてか、を答えるのが満点をつける条件かな」
彼の小洒落た、こういう言い回しが嫌いだ。
そのままスッパリ言ってしまえば良いのに。もったいぶって、格好付けて。
でも、そんな言い回しに慣れてしまった自分がいるのは、もっと、イライラする。
「……自分が独りぼっちだと知っていたから、とか?」
「正解……、とは言えないんだけどオマケ。正解だよ。ヒントはなくても良かったかな」
本当に、イライラする。
「彼はね、緋日。自分がどんな力を持っていたって独りぼっちだと知っていたんだ。むしろ、そんな力を持っていたからこそ知ってしまったのかも知れない。……彼は失いたくなかったんだ。子供達を、自分の友達を」
「……じゃあ本当の正解は何なの? オマケなんかじゃない、正解は」
「それはね、緋日。彼は好きだったんだ」
笛吹きは、と。青年はそう付け加えて。
その先を述べようと唇が動くと共にーーー……、悲しそうに眉根を伏せた。
喉に迫り上がってきた言葉を飲み込む。そこから先は、言わない。
「……寂しい人だね」
それは、自嘲の笑みだったのかも知れない。
ただ緋日と呼ばれる少女や他の誰かに向けられたものでないのは確かだ。
そしてもう一つ、確かなことがあるとするのなら、彼という青年の背格好は、真っ赤に染まる真っ白な部屋には余りに似つかわしくないということだろう。
白いTシャツに黒のジャンパー。安物のズボンとボタンが三つ並ぶサイドポーチ。そして、ジャンパーと同じ色合いの鞄。
〇〇塾、と。よくCMなんかで放送されていて、特に学生達は有名大学への進学率〇〇%だとかいう謳い文句が耳にこびり付いている。
それは青年も、少女も同じだ。同じだったからこそその塾に通って、いた。
「今日も……、サボったの?」
「え? あ、……うん」
しまった、と。そう言いそうになった。
そんな声色にまた彼女は不機嫌になっていく。イライラが、溜まっていく。
怒鳴ってやろうか。思いっ切り声を張り上げてやろうか。
そうすれば鬱陶しい程に静かなこの部屋も、少しぐらいは、騒がしくなってくれるだろうか。
「入るわよー」
と。彼女が八つ当たり気味に望んだ喧騒は、全く予期せぬ形で現れた。
いやその人物の役目的に予期せぬ形というのはいけないのだけれど。緋日がそれを忘れていたのは事実で。
入ってきた人物ーーー……、丸眼鏡に白衣という態とらしすぎるほどに医者らしい女医は、あらお邪魔だったかしらと軽く身を引いた。
「あぁ、回診の時間でしたか」
「えぇ、ごめんなさいね。面会時間もそろそろ終わるし、悪いけれど……」
「あ、いえ、いいんです。長居し過ぎちゃったし、これ以上、彼女を怒らせたくないし」
気付かれてた。
「そう? なら、まぁ……」
女医は片側へ流され、頬まで垂れる髪の毛をペン先で軽く流す。
本来、そのペンが役目を刻むべき資料は彼女の手元にあった。クリップボードに止められた数枚組のA4サイズ。
だが、資料の数は少なくても。大きさは小さくても。それ等には割合、視力の良い青年が横目で見ても解らない程びっしりと、羅列という言葉を体現するが如く症状の記入欄が並んでいた。
「見るもんじゃないわよ」
ぺちん。ペン尻が鋭く尖っていた青年の眉間を叩き伸ばす。
「あいてっ!」
「ほら、余計な心配はしなくて良いの。治す為に私がいるんだから」
指先でペンをくるくると廻しながら、女医は気抜けた声でそう言った。
そうして、何かに気付いたのかふとペンを止めて、資料へ何かを書き殴った。
資料の下。羅列から離れた文字だったから、青年にも彼女の記した意味が理解できた。
問診の時間を、十分ほどズラしてくれたのだ。彼等の間に自分は邪魔だ、と。その言葉と謝罪代わりといったところだろう。
「それじゃ、私は外にいるわ。何かあったら言ってね」
ひらひらと後ろ手を振りながら、彼女は素早く退出していった。
青年の表情は少し、呆れ気味に、けれど何処か嬉しそうに緩みを見せた。
初めて出会った時は若い人だったから、少し不安だったけれど。気が回るし愉快な人だし、何より緋日によくしてくれている。
生真面目に仕事だけこなすような医者なんかより、彼女のような必要以上に親身になってくれる人の方が、きっと良い。
治療だけじゃなくーーー……、彼女自身に、とっても。
「そういうところが嫌いなのよ」
青年が彼女の心を見透かしていたように。
彼女もまた、青年の心を。
「……ごめん。また怒らせちゃったね」
「またって何よ。……そうして、アンタは、そうやって、アンタは!!」
青年は口元に人差し指を当て、しぃと息吹を散らす。
無様に塗り固められた喧騒を吹き飛ばすように。ただその動作だけで静寂は甦る。
「……静かに、ね。心臓に負担がかかる」
望むとおり、全てが静寂だった。この病室も、外さえも。
燃え盛る夕暮れが鴉の合唱を望むことはなく、道行く車も下校途中の高校生であっても。誰の声も、その一室には入ってこない。
静寂。彼の息吹と、彼女の吐息と。たったそれだけの部屋。
「緋日。また明日、来るよ。だからそれまで、待っていて。どうか世界に絶望せずに。君の望むままにある世界に。……僕さえも、君の為にある世界に」
真っ白なシーツに投げ出された腕が、皺を作り出した。
柔く脆く、握り締めることさえ困難な指先だと言うのに。その皺は何よりも彼女の怒りを刻み込む。
言葉はない。視線さえも合わせない。だと言うのに、たった数本の、皺が。
「……ごめんね」
一言だけの謝罪が別れの言葉だった。
青年は鞄のショルダー部分を肩に掛け直し、踵を返す。
こつりこつりという革靴の音が七回。スライド式の扉が開いて、締まって、二回。過ぎ去る靴音は、もう。
「ハーメルンの笛吹きは」
反響するのは自分の声。
彼の声さえも無くなってしまったその一室で、彼女は数本の皺を掌で躙り潰す。
「貴方でしょう。識那」
とどくはずもないその声は、嫌に彼女に耳へ残った。
彼のーーー……、識那の声は残ったりしなかったのに。何処か、心地良くさえあったのに。
そうして彼女は漸く気付く。彼の言葉に感じていた苛つきが、一つの喜びであったことに。
満たされる感触。心地よさ。安堵。そういった類いのものであることに気付いたからなおのこと、彼女の苛つきは増していく。
「……馬鹿みたい」
緋日。彼女は動かない。動けない。
そのベッドの上が彼女の世界だった。手の届く範囲が宇宙だった。視線の届く範囲は、未知だった。
「本当に」
彼女の為に世界はある。彼女こそが、世界。
その世界は脆く、儚く、そして何よりもーーー……、歪であった。