【A-5】
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がこん、と。
識那が手に取ったのは甘ったるいことで有名なマキシマムコーヒーだった。
エナジードリンクとしても有能である、なんてインターネットでは持て囃されているけれど。
きっとその甘さはエナジーと言うよりドラッグだ。ただし常人に常習性はない。どころか一杯飲めばもう懲り懲りだと顔を背けるほどのドラッグ。
ただし一部の人には凄まじい常習性を誇る。いや誇ってもらっては困るが、識那はしっかりその虜なわけで。
「お前ホント好きだよな、それ……」
「一日のエネルギー補給だからね」
「……バニラコーラは?」
「ガムみたいなものだよ」
「糖尿病って知ってる?」
「……生活習慣だね」
「『病』をつけろ『病』を!」
照り輝く自販機の光が、彼等の影を夕暮れに落としていた。
学校も終わって放課後。日は沈みかけ紅色の背を見せて、家路につく子供達が太陽に別れを告げている。識那と同級生の二人も高校からの帰り道に、こうして自販機に寄っていた。買い食いならぬ買い飲みだ。
一生懸命走って帰る小学生なんかを見ていると、ふと自販機でジュースやコーヒーを買っている自分達のことが大人びて見える。いつからか、あぁいう無邪気さも忘れてしまったのだろうか。
「……そう言えば識那、今から行くんだろ? 緋日ンとこ。良かったら俺等も付いて行こうか?」
「あー……、ごめん。嬉しいけど、やっぱりまだ、ね」
「ン、そっか。まぁ、臥せってる姿とかあんま見て欲しくねぇよなぁ。俺も昔サッカーの試合で足やった時はチームメンバーが見舞いに来るのが恥ずかしくてよぉ」
「あ、解る解る! 僕は胃腸炎だったけどね。お婆ちゃんが物凄く心配してさ」
「二人とも入院したことあったんだね。普段から元気だから意外だよ」
「……お前もそろそろ食生活どうにかしねぇと入院するぞ。いやマジで」
「緋日の隣で付きっ切りならそれも良いかな」
「識那君、君ねぇ……」
「お前ホント緋日好きな」
子供達の笑い声に、少し大人びた声が混じって。
いつもと変わらぬ日々だった。だからこそ幸せな日々だった。
青春ーーー……。紅き夕暮れの中で、春先の風に吹かれて、彼等は。
「じゃ、僕そろそろ行くよ。本屋に寄ってかないといえないから、面会時間に間に合わないんだ」
「本屋? 何か買うの? エロ本か!」
「そ、そういうんじゃないから……。絵本だよ。ハーメルンの笛吹き。緋日が好きでね、この前ちょっとそれについて怒らせちゃったから、お詫び」
「律儀だねぇ。そこが識那の良いとこなんだけど」
「ふふ、ありがと。ついでにお菓子も買っていこうかな、とも思うんだけどね。勝手にあげると先生に怒られるんだ」
「……まぁ、君のチョイスはエグいからね」
特に甘さが、と同級生達は口に出すこともなく頷き会う。
本人が気付いてないのは幸か不幸か。いや、糖尿病的に是非気付いてほしいところだ。
「じゃ、僕はそろそろ行くよ。二人とも、また明日」
「おう! 緋日によろしくな!!」
「あ、待って識那君! 良ければ緋日さんの好きな色とか聞いておいてよ。ほら、お帰りパーティーで装飾のメインカラー決めたいからさ」
「おぉ、そうだった。それと好きな動物もな! 女子連中が張り切ってたぞ。良い感じの折り紙だのアップリケだの作るんだー、って! ただしプレゼントは当日まで秘密だぜー!!」
「うん、聞いておくよ。……ありがとう」
識那が踵を返し、彼等にマキシマムコーヒーをぶら下げた手で別れを告げながら歩き出す。
何だか大人っぽいな、なんて。これから絵本を買いに行く自分がそんなことを思うのは少し気恥ずかしいけれど。
同級生達と共に、これから大人になっていくのなら。緋日と、一緒に大人になれるなら。
彼女もきっと、失った時間さえ、取り戻せるのだろう。
「……緋日、元気かな」
ふと、呟いた。昨日のことを怒ってなければ良いけれど、と。
それと同時に彼の背後から三つの影が迫り行く。突風が如く夕焼けに残像を映すほどに疾駆していた。
全身を黒装束で覆ったストゥツバネ偵察隊だ。僅かに露出した彼等の目元は恐怖に塗り潰され、眼が乾ききって涙が溢れることさえ顧みず、手足は水面で足掻くように、息は切れ尽くし血反吐さえ吐くほどで。
それでも彼等は疾駆をやめることはない。目の前に一般人がいようとその姿を隠すことさえない。
ただ、逃げる。後ろから追ってきている影から逃げ続ける。識那の背中さえ払い除けようと、手を伸ばしーーー……。
ぐん。その手は吸い込まれるように、引っ張られるように、跳ね飛ばされるように消え去った。
識那の同級生達が肉体から生やした(・・・・)牙に飲み込まれ、咀嚼されて、消え去ったのだ。
「……?」
振り返った識那の瞳に映るのはいつもの光景。
同級生二人が不思議そうにこちらを見ている。夕暮れの光で顔を真っ黒に塗り潰して。
自販機の光も、聞こえる子供達の笑い声も、鴉の鳴き声でさえ、何も変わらない。
ただ一つ変わるとするのなら、同級生達の足下から伸びる影だけが、人の形の何かが、人を飲み込む姿だけが、変貌していた。
然れど、それに識那が気付くはずもなく。
「どうした? 識那」
「早く行かないと面接時間なくなっちゃうよ」
「……え、あ、うん。あの、二人とも、今何かなかった?」
「「何が?」」
口を揃えて、彼等はそう微笑んだ。
いや、顔は逆光で見えないけれど。声さえも子供達や鴉のそれに混じって霞むけれど。
何故か、微笑んだように思えた。優しく、微笑んでくれたように思えた。
識那にはそれがまた嬉しくて。手を振りながら、元気に駆け出していく。
自分が同級生と、友と呼ぶ彼等の姿が人間ならざらぬ何かに成り果てている事など、知るはずもなく。
「何でも……、ないんだよね」
僅かに、心がざわめいた気がした。
然れどそよ風は過ぎ去るもの。倒れた草木もしなやかに戻るもの。
何もなかったという言葉を信じ、彼等の想いに喜ぶ躍動を感じて、彼はーーー……。
ふと、足を止めた。
「……あれ」
同級生達の視線が、まだ彼の背にとどく程度の距離。
そこで彼は立ち止まり、ある女性に視線を釘付けにしていたのだ。
見覚えがある。風貌や雰囲気はまるで違うが、彼女の姿には覚えがあった。
「先生……?」
病院で緋日の担当医である女性だ。彼女が、歩いている。
それだけなら別に彼も気にしなかっただろう。非番なのかな、と思うだけだ。
だが、余りに異様だった。彼女の纏う雰囲気に引き付けられる。識那の意識を縛り付ける。
腹の底が熱くなるような、眼の奥が渇くような、感覚。
「…………」
彼女の歩みは、決して速くない。早歩きというわけでもないし、歩幅が大きいわけでもない。
だと言うのに音はなく、だと言うのに素早く、識那が少し思案しているうちにもすたすたと歩いて行ってしまう。
もう声を掛けても小路地の反響に掻き消されてしまうところまで来た時、彼は意を決して駆け出した。
何を思ったわけではないけれど。何を感じたわけではないけれど。
彼女をーーー……、その女医を追うために。




