はじめに
お読みいただきありがとうございます。さて、いきなりですが、このタイトルは『窓ぎわのなんとか』とかいう著名な本のパクりです。窓ぎわではなくガレージにしたのは、小さい頃、家のガレージで遊ぶのが好きだったからです。
その本の主人公同様、わたしは当時、自分のことを「けいちゃん」と呼んでいました。さすがに「ちゃん」までが名前だとは思っていなかったものの、両親含め周りから「けいちゃん」と呼ばれることがほとんどだったので、自分のこともそう呼ぶのが自然だと思っていたんですね。なぜちゃんづけにしてはいけないのか、なぜ自分だけ周りとちがうように呼ばなければいけないのか、なかなか理解することができませんでした。それに「わたし」という響きが幼稚園児にはどうにも大人すぎるように感じて、非常に違和感がありました。
この癖を直すのには、えらく苦労しました。母が、小学校に上がる前には直させようと思ったらしく、「もし今度ちゃんづけで呼んだら殴るぞ」とまで言われていました(ほんとに殴られたことはありませんが)。今考えたら幼稚園児相手にそこまで厳しくしなくても、という気もしますが、そうでもしなければいつまでも直らなかったのでしょうね。
このことについて、幼稚園で友だちと微笑ましいやりとりをしたのを覚えています。わたしが自分の呼び方を直そうとしていることは友だちの間でも有名に(?)なっていて、わたしがうっかり自分のことを「けいちゃん」と言ったときは、だれかが「おかしいよ!」と指摘してくれました。しかし、周りも幼稚園児ですから、その妥当性というのがよくわからなかったようです。わたしが「これはけいちゃんの水筒~!」と言ったとき、その使い方ならば正しいのではないか、という話になりました。なぜそういうことになったのか今となってはわかりませんが、結局そのときは、自分のものを指すならばちゃんづけでもよい、という結論になりました。
このようにわたしは自分の呼び方を変えるのに大変苦労したため、何気なく一人称を変える人が信じられません。方言だと思いますが、わたしの周りの人たちはよく、自分のことを指して「うち」といいます。小学生のときはみんな「わたし」と言っていたのに、中学生になるとなぜか一斉にそうなっていました。みんなが意識してそうしたのか、無意識にそうしたのかわかりませんが、そのときはとても不思議に思ったものです。また、大学の友だちに、自分のことを「うち」と呼んだり「わたし」と呼んだりする人がいますが、そのことを指摘すると、「自分でも気づかなかった」と驚かれました。普通は、そういうものなのでしょうか。未だに謎です。
男兄弟がいないので、同じように、一人称を「ぼく」から「俺」、あるいは「わたし」に変える男性についても不思議です。やはり、苦労して変えるのでしょうか。それとも、何気なく変えてしまうのでしょうか。
こんな経験が、執筆においてやたらと人称代名詞にこだわる原因になっているのかもしれません。