第玖刻 〈自販機が点滅したら〉
黎は行きたくない気持ちを無理矢理押さえ込んで、重い足取りで家を出た。
行けば、そこにはアレがいるのだろう。
正面から対峙すれば、命はないかもしれない。
それでも、あの悲しげな少女の顔を見てしまった黎は彼女を救いたいと思ってしまった。そのことを師に告げると、師は少女が指定した場所へ向かうといいと答えた。
ただし、その場に行くのは黎一人だけで、他の仲間たちは別の案件に取り組むという。つまり、何かが起こったとしても助けに駆けつけてくれる者はいないと宣告されたのだ。
時折走る震えを武者震いだと言い聞かせ、重い足を引きずるように黎は歩いた。
空には雲が重く重なり合い、星の輝きも、月の光すらも確認できない。
「けひひ。来たネ?」
突如、背後からソレの声が聞こえた。
びくりと飛び上がるが、声は上げなかった。
すると、黎の首に少女の細い腕が絡みつく。
「待ってたヨ」
彼女の可愛らしい囁きに、黎の全身の毛が逆立った。
優しい声とは裏腹に、悪意のこもった気配を背後に感じたせいだ。
黎の反応を楽しむように、ソレは耳元へ吐息を混ぜ込みながら囁いた。
「どうしタ? ビビってるのかイ?」
黎は返答をすることもないままで、少女の腕を引きはがそうとする。しかし、少女の抵抗する力は強く、黎はそれを断念せざるを得なかった。
これだから餓鬼は、と呟いて、ソレが黎の首筋を上から下へスッとなぞる。
ひんやりとした指先の感覚に、黎は思わず肩をすくめた。
「オ前はおれに何の用だったのかネ? マサカ、おれを退治しようなんて馬鹿なことヲ考えちゃいなかろうナ?」
黎の髪を引っ張って顔を自らの方へと向かせると、ソレは歯を剥いて嗤った。
「……その、まさかだよ」
黎も負けじと言い返す。
「けひひひひひ……。トンだ馬鹿もいたもんだネ。おれ様に逆らおうとハ」
可笑しくてたまらないという風に腹を抱えて爆笑するソレ。その時、黎を抑えつける力が弱まった。
そのすきを見逃さず、黎はソレの頭へ鋭い蹴りを入れた。
肉体は少女のものであるため、黎の本気の蹴りを食らったソレは易々と倒れた。
黎はその上に馬乗りになって、相手の動きを封じる。少女の両手首を掴んで背中に押し付けると、その上に腰を下ろしてしっかりと押さえつけた。
勝負あったか?
黎は若干の安堵と共に、自分の体の下にいる拘束されたソレに目をやった。
少女の姿をしたソレは、首をひねって黎を見据える。その顔は怒りによって上気していた。
「何てことヲしてくれるんダ」
ソレの一喝により、黎の体が硬直する。
自らの気が緩んでいたことに気が付いた時には、もう既に遅かった。
辛うじて肺や心臓などの呼吸・循環器系が普段通りの働きをしてくれている他は、黎の体は一切動かすことができない状況になってしまっていた。
怒りのこもった瞳はいつの間にか赤い光を湛え、見据えられた黎の体からは尋常ではない量の汗が噴き出す。
動けない黎の体を押しのけて、少女の体が抜け出した。
「さテ、どんな風にいたぶってやろうカ」
指をバキバキと鳴らしながら、ソレが歩み寄ってきた。先ほどとは比べ物にならない邪気が渦巻いている。
バチバチっと電気がショートする音が聞こえて、自販機や周囲の街灯が点滅する。
そして、灯りは完全に消え、一帯は完全な闇に覆われた。