第陸刻 〈口が裂けていても〉
一人の若い青年が、通りを歩く人をきょろきょろと見まわしていた。――人探しでもしているのだろうか。
「お姉さん!」
ちょっとした用を足すために街を歩いていたワタシを、その青年が呼び止める。
「何ですか?」
「今、時間ある?」
ああ、またいつものだ。
ワタシがナンパに対して抱いた感想は、それだけだった。ワタシは落胆しながらも小さく頷いて、彼を路地裏の人通りがない所へ誘い込む。
青年は、ワタシが何をするつもりかと目を輝かせていた。
声をかけた女にそのような対応をされれば、誰だってそっちの方へ考えが向くのだろう。けれど、残念ながらワタシがしたいことはそれではない。
ワタシは彼の顔を見据えたまま、ゆっくりとマスクを外した。
「……っ!」
出来損ないの口裂け女のような傷痕が、外気に晒された。
それを見た青年の目が見開かれ、声にならない悲鳴が漏れる。
この反応にも大概慣れてきた……はずだ。
そんな今となってまでも尚、胸を深くえぐられるような鈍痛が走る。
……この程度の反応でもまだ傷つくか。
あまりにも軟弱な自分に、嘆息が漏れる。
「分かった? ワタシ、貴方の相手はできないの」
冷ややかに言うと、マスクを掛けなおしてゆっくりと踵を返した。
もしかしたら、その時のワタシは呼び止められるのを待っていたのかも知れない。――いや、ワタシはいつだって引き留めてくれる人を待ち望んでいる。
これは、相手を試すための一種のテストだった。
しかし、そのテストに合格した者などこれまでに一人として現れていない。だから、ワタシはその時も何の期待もしていなかった。
「……待って!」
彼がそう言った時、ワタシはそれを耳の錯覚だと思った。
そのまま歩き出したワタシは、彼に肩を掴まれて初めてそれが本当の彼の言葉だったことを知る。
「お姉さん、とってもキレイ。オレと付き合ってよ」
「ワタシの顔、見たでしょ?」
それでも構わない、と彼は言う。
「貴方、正気? ワタシは『平成の口裂け女』なんて呼ばれて都市伝説にまでなっちゃってるのよ?」
「正気だよ。オレはお姉さんに出会えるのを待ってたんだ」
ワタシの怪訝な表情を受けても、彼が折れることはなかった。嫌がる素振りを見せるどころか、むしろ爽やかな笑顔を向けてさえくる。
不覚にも、その笑顔に心を惹かれてしまうワタシがいた。
――ワタシと出会えるのを待っていた?
まるで、ワタシと出会うことを知っていたようではないか。
そのことを指摘すれば、彼は満面の笑みで「もちろん、知ってたよ。会えるまで探すつもりだった」と答える。
ワタシは、神様が気紛れを起こしたのだと思った。