第漆刻 〈さぁ、後ろにいるのはなんでしょう〉
誰一人として動くことはない。
その場に居るだけでも、焼け付くようなピリピリとした空気が身にまとわりついてくる。
尋常ではない居心地の悪さを感じながら、黎は少しだけ眼球を動かした。視線の先にいる師は、目を深く閉ざして瞑想状態に入っているようにも見えた。
この公園にいる人間のうちに、あの化け物を退治する術を知っている者はいない。そのことは黎をいたく不安にさせたが、かといって逃げ出すこともできない。
背を向ければ、その瞬間に大きな口で背面へ噛みつかれることだろう。
進路も退路も絶たれた黎の元へ、一羽の鴉が舞い降りた。鴉の足には、弱り切って今にも消えてしまいそうになっている狐が振り落とされまいとして渾身の力で噛みついている。
口だけの顔が、しかと己を見つめていることを知りながら、黎は慎重に狐を鴉から引きはがした。
すると、狐はようやく目的地に到着したことに気が付いたようでゆるゆると首をもたげる。
「……おイ、貴様ッ……」
先ほどよりも更に弱々しくしゃがれた声で、狐は幼女に語り掛けた。
幼女の口は両端がぐっと持ち上がり、深くえぐれたようなえくぼが現れる。その窪みは、眼球の抜け落ちた後の眼窩のようでもあり、言い表しようのない気味の悪さをも
感じさせた。
「どうしてここへ来たの?」
初めて聞くその子の声は、まさに年相応の子供のものだった。あどけない声の調子とは裏腹に、その奥に潜んでいる得体の知れないものが辺りの空気に緊張感を醸し出す。
「どうしても何モ、貴様を屠るためサ」
ガッと口を開いて威嚇した狐だったが、幼女はそれをいともたやすく嘲笑う。
「そんなになっちゃて、あたしを倒せるとでも?」
「ああ、倒せるともサ」
異形同士の言い合いに、思わずその場に居合わせた黎を含めた者たちは目を奪われてしまった。
幼女の注意も完全に狐へと向けられている。
その隙を見て、黎の師が動いた。
「止まんな」
感情のない声で幼女は言う。その無機質さが、一層黎たちの恐怖感を煽った。幼女の背後に立っていた師でさえも、その動きを止めてしまう。
「そうそう。賢明だよ」
満足そうに長い舌で唇をぺろりと舐める女の子に、狐が毒づいた。
「オ前のような餓鬼の相手なぞ、おれ一人で十分だネ」
言うが早いか、狐はするりと黎の腕から抜け出す。そして、覚束ない足取りでランドセルを背負う幼女の元へと歩み寄った。
「折角あたしと会えないように縛ってあげたのに、ほんと馬鹿。あたし、馬鹿は嫌いなの」
毒に毒を返すと、幼女は顎が外れそうなほどに口を開く。
大きく開かれたその口に、狐はあっという間に飲み込まれてしまった。
「……っ」
その場にいた皆が、息を飲む。
あまりにも呆気ない展開に、幼女さえも落胆の色を浮かべていた。




