第壱刻 〈差し伸べた手を千切られた〉
気が付けば、黎は不思議な空間に飲み込まれる前にいた、あの住宅街に立っていた。時間もそれほど経っていないようで、空はまだ暗い。
目の前には花のように美しい少女が、悲痛な面持ちでナニカを抱えて座り込んでいた。
腕の中にいるモノは、動物のようだ。大きさからして、犬か猫のどちらかだろう。
「……無事、だったんだね」
黎は彼女の隣へしゃがみ込んだ。
「私は、ね。でも、彼がっ!」
「……彼?」
彼女は腕の中の獣に目を落とした。
そこにいたのは、犬でも猫でもない。立派な毛並みの、大きな尻尾を持った狐だった。
「これが……、正体?」
「……え?」
「君を操っていたモノだよ」
黎は汚らわしいものを見るような目でその狐を見下ろした。
口元も嫌悪に歪められている。
「違う……。私たちは操られていたの」
「何に?」
「何って……分からない。小さい女の子だと思う。あの子に会ってから、おかしくなったから」
困った様子の彼女に、嘘を言っている様子はない。
黎は曖昧な笑みを浮かべ、狐へ視線を移した。
何者かに操られていたとはいえ、この狐は黎をあちらこちらへと引きずり回し、数々の危険な目に遭わせてきたのだ。
いくら温和な黎であっても、簡単にその言葉を信用して赦しを与えることはできなかった。それどころかこの少女まで狐とグルになって黎を陥れようとしているのではないかという感覚にまで陥る。
「随分と弱ってるみたいだね。『器』を失ったせいかな」
黎の言葉に、少女の表情が曇った。
黎の言う『器』が己の霊体であると分かったようだ。
「どうやったら戻せますか」
「君の中へ? 僕には分からないな」
軽く肩をすくめて見せた黎を、少女は鋭く睨み付けた。
「……けひ、いがみ合いは醜いヨ」
消え入りそうな声で狐は言う。どうやら、まだ口を利けるだけの体力は残っているらしい。
その言葉が本心からのものなのか、場の空気を和らげるためのものなのかは分からなかった。
黎は狐の方へ対話の相手を変える。
「お前、さっきはよくも……」
「……すまなイ。そういう事をする気はなかったんダ」
妙にしおらしい狐の様子に、黎は眉根を寄せた。
そこに、これまでの挑発的な態度は欠片も見られない。人が変わったようだ。
「何だよ……、急に」
「私たち、操られてたんです。だから、“彼”は悪くないの」
再度同じ主張を繰り返す少女を無視し、黎は狐の首筋を摘まんだ。